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R.I.P. ミルフォード・グレイヴスNo. 275

「君はMMDを見たか」〜遅れて来たライブレビュー〜

text by Yoshiaki Onnyk Kinno  金野Onnyk吉晃

1981年11月22日、私は仙台市にいた。ミルフォード・グレイヴス、田中泯、デレク・ベイリーの三者が同じステージに立つ<MMD計画81>ツアーの公演があったのだ。三人の一人一人に関心が強かった24歳の私は、興奮気味だった。ベイリーは78年初来日の際に2度ライブを見ている。既に私は彼の虜だったとも言えよう。身体気象を唱える田中は、後に二度私自身の企画で招聘する事になったが、未だこの時点では未知の人だった。その活動は雑誌「遊」を通じて想像するばかりだったが、その写真と発言は実に感性的な刺激に満ちていた。そして伝説のドラマー、ミルフォードは、77年の初来日は接する事が出来なかったけれど、雑誌を通じて、その独自な世界観を垣間み、日本人とのセッションアルバム『Meditation Among Us』を聴いて、感激したのは偽りのない気持ちである。確か友人にその感想を延々と書いて送った記憶があるし、彼の発言をことあるごとに引用していた気もする。
ベイリーにしてもミルフォードにしても、その紹介は間章という存在を抜きにしては語れなかった。間が他界して3年になろうとしていた。私は間の呪縛から脱する為に何年かけただろうか。其の意味では田中泯という、全く異質の表現者が、英米からの即興演奏家の間に介在するというのは、実に時宜を得ていたかもしれない。私と友人達は既に、幾つかの企画を京都、東京、盛岡などで企画し、自分達なりの即興演奏の場を生み出そうとしていた。私は山海塾などの公演も手伝っていたので、舞踏の雰囲気は掴んでいたつもりだが、どうも田中の舞踏はそうした暗黒舞踏系の持つ物語性というか情念のロマンとは相容れないものがあるように感じていた。ある友人が言ったのだが田中の舞踏は「まるで中に人が入っている膜のようであったという。
果たして舞台に登場した田中の身体はしなやかにうねりはじめた。ベイリーはいつものように、ひたすらギターに向き合っている。そしてミルフォードはといえば、まさにフリージャズドラミングの精華ともいうべきパルス的なドラミングを、何のためらいもなく聴かせてくれる。彼のドラムの皮は動物のそれで、胴も完全に木製だという。スネアドラムはなく、シンバルも多用しない。しばらくは、この三者の相互反応がいかに発生するかを観察するつもりで構えていた。 しかし時間が経過しても、何かそれ以上の変容が起きる気配はなかった。三者はそれぞれの行為に没頭している。私は多少苛立って来たように記憶している。「このままでは終わらない筈だ。きっと思いもしなかったような劇的な変化が、三者が融合するような何かが起きるだろう」 だが、30分以上しても状態はそのまま。と思っていたところ、ミルフォードが立ち上がり、手持ちのトーキングドラム(打面を手と脇でしめながら張力を変えるタイプの太鼓)を持っている。そして屈曲したスティックを片手に持ち、その先端の球状の部分を、皮に垂直に当てて細かいパルスを打ち出す。叩く位置も周縁から中心まで移動させ、声も出す。その全体の動きとサウンドは、ベイリーよりは田中に呼応していると見えた。 そしてミルフォードはステージから降りてきた。開演前にアナウンスがあり「絶対に隠し録音をしないで下さい。もし見つければその場で演奏を中断します」と言われていたが、若き反抗者は小型カセットレコーダを回していた。だからミルフォードが客席を登って近づいて来たとき、いかにそれを隠すかを顔に出さずに苦慮していたのを思い出す。田中もまた降りて来た。階段状の空間を使って踊るのはお手の物である。しかし実を言えば私は舞踏的なものへの関心はそれほど強く無かったこともあり、彼の動きのイディオムを早々と飽きてしまったように思う。そしてなんとベイリーも降りて来たではないか。彼はアコースティックギターを抱え、何事か語りながら(これはよくやっていたことだが)、客席の階段を一方から登り、最上段を横切ってまた反対側を降りて行った。こうして三者三様に、客席に降りる事で突破口を見いだそうとしていたように思えたのは私だけだろうか。 そして三者はステージに戻った。これからどうなるのかと思っていたが、豈図らんや、そのまま終わってしまった。休憩無しの1時間ちょっとの上演だった。なんとなく肩すかしを食わされた感があったのは否めない。

上演後、ロビーで私は仙台のジャズ喫茶『ジャズ&ナウ』の中村氏にあった。すると楽屋からひょっこり出て来たベイリーが中村氏を見つけた。会う約束でもしていたのかもしれない。そして中村氏をロビー端のベンチに引っ張って行った。私も付いて行こうかと思ったが遠慮した。 しばらくしてベイリーは楽屋に消えた。中村氏は戻って来て私に言う。「どうもあまり満足していないらしくて、私の店でソロが出来ないかというんですよ。でも今回はそう自由に出来ないでしょう」 氏はミルフォード、ベイリーの初来日時にそれぞれ仙台公演を主催している。当時のマネージャーは間章だったが、今回は田中である。どうも勝手が違うらしい。

田中はベイリー主催のカンパニーに招待された一人である。しかしそこで彼はベイリーの不文律に反対したという。カンパニーでは全員が一緒に演奏しないということが暗黙の了解だった。組み合わせを決めるときに田中は、全員の参加を主張した。こういう時のベイリーの反応が面白い。「リンゴを買ってくる」 と外に出てしまったのだそうだ。
結局この時の結論がどうなったかは知らない。しかし全員が共演することが其の後は度々あったのだから、田中の影響は大きかった。 音楽家と其れ以外のジャンルのアーティストの表現に対するセンスの違いは、私も少なからず経験して来た。その良否は今は書くべきでない。

蓋し、私の見たMMDという上演は、意図せざるパラタクシス的なものになってしまったようだ。その是非を言うのではない。 ただ同じ即興演奏といいながらも異なる環境、歴史、状況のなかで成熟して来た二人の巨匠の音楽は、平行線を辿っていた。 田中が不在のデュオであれば、どうだったろうか。田中の動きに呼応していたミルフォードは其の瞬間、ベイリーを意識していただろうか。もしサウンドだけの対峙であれば、化学反応は起きただろうか。 あるいはもしベイリーがもっと若かったらどうだろうか。あのハン・ベニンクの怒濤のようなドラミングの中で、新たなエレキギターの可能性を見いだしたベイリーは、ミルフォードの柔軟なパルスの渦に未知の姿を見せたかもしれない。 いや、ミルフォードが変化するだろうか。どうもそれは考えにくい。彼には既に確固たる神秘的宇宙観があったから。

これはフリー・ミュージックと、フリー・ジャズの、東洋のある列島上での出会い。「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の不意の出会い」(ロートレアモン)に比べてどちらが超現実的か。
当然、前者である。何故ならこの邂逅は二度と起こりえないからだ。

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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