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R.I.P. トリスタン・ホンジンガーNo. 305

R. I. P. トリスタン・ホンジンガー ミュージシャン 金野ONNYK吉晃

text by Yoshiaki Onnyk Kinno  金野ONNYK吉晃

“La tristesse de perdre Tristan, qui ferme les yeux.”

2005年、ビショップレコーズの近藤秀秋氏の依頼で、トリスタン・ホンジンガーの盛岡ライブが実現した。
場所は「開運橋のジョニー」。秋吉敏子を全身全霊で応援する照井顕氏の経営する店だ。日本のジャズを推してやまない、録音から自主制作する盤を多数制作して来た。普段はフリーなど鳴らない店だが、ブレッツマンも、吉沢元治も演奏した。私も即興アンサンブルのライブを随分やらせてもらった。
さて、せっかくホンジンガーが来るのだから、地元から私(サックス)、佐藤陽子(ピアノ)、小原晃(ドラムセット)が共演を申し出た。同行した近藤氏もギターで参加して二時間弱のセッション、全て記録された。私の最も好きな演奏、思い出 深い映像のひとつだ。
思えばINCUS 20番、デレク・ベイリーとのデュオで彼を知り、強烈な印象を受けた。この希有なチェリストは、その後ベイリーの「カンパニー」、FMPのグローブ・ユニティ、ICPのテンテット、オーケストラにも常連となった。セシル・テイラーとの共演も残っている。あるいはまたニューウェーブバンド POP GROUP とのミックスも話題になった(本人は、あれは全くダメと吐き捨てるように言っていたが)。
チェリストは皆個性的だ。共演相手では故トム・コラ、入間川正美には常に刺激を受けた。大熊ワタルと来てもらった坂本弘通の破天荒かつ情感溢れる演奏なども思い浮かぶ。チェロ専門ではないがジョニー・ディヤンニも面白かった。
ホンジンガーのスタイルを一言で言えば「饒舌」。変幻極まりない弦サウンドの奔流と、同時に何事かを語る、というより、うめき、喚(わめ)くような声が同居している。ジャズもクラシックも超越したようなこの人は、どういうルーツから来たのだろう。
ホンジンガーはあくまでチェロ一本(時に弓は二本)にこだわった。その集中力は偏執狂的というべきものだったが、盛岡では無伴奏チェロソナタを思わせるような、実に豊かな深みのある音色でゆったりとした演奏も聴かせてくれた。
録画を見直して面白かったのは、彼はノッてくると目を閉じ、左の顎と頬をチェロの胴とネックの間に押し付けてくるのである。おそらく骨伝導で、より自分の音が聴こえるのだ。それがますます彼自身を盛り上げる。これは演奏中にも分からなかったことだ。

ライブの翌日、私は彼と盛岡市内を散策した。好天だった。
そして公開されている明治18年建築の保存家屋で、和食の特製弁当を食べながら、音楽のみならず様々な話を聴いた。
前衛的舞踊を続けている娘がいることを話していた時、とても柔和な顔つきだったのを思い出す。
「そのお嬢さんとは一緒に何かやらないの」
「まあ、そんな時が来たらだね」
そこで話は終わってしまったが、その後も縁側に座ったまま、彼は葉ずれのざわめく庭園をずっと眺めていた。

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金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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