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悠々自適 アウトテイクNo. 308

vol.1「私とSPレコード」 悠 雅彦

text by Masahiko Yuh 悠雅彦

私の音楽体験のすべては、家にあった数多くの78回転盤(SPレコード)から始まった。物心がついたころ、私たち一家が暮らしていた島田市(静岡県)の居間には軍歌に混じって数十枚の童謡があった。時は米軍の空襲が激しさを増し始めた昭和17、8年ごろ。夜ともなればワット数を落とした電気の傘を黒い布や風呂敷でおおい、空襲警報が鳴り響くと聴いていたレコードを止め、電気を消して息をひそめるようにしては警報が解除されるのを待ったものだった(集団的自衛権が閣議決定され、海外に派遣された自衛隊が戦闘に巻き込まれるような事態が起これば、人間を一人も殺傷しなかった日本の誇るべき戦後の歴史が過去についえる。7月1日、その閣議決定が成立し、憲法第9条が落涙する最初の日を迎えた。この一文を書いている時点で、悲しいことに日本はついに戦争をする国の仲間入りをするか否かの瀬戸際に立たされることになった。私はあの耳をつんざく警報発令のサイレン音と敵機の不気味な爆音を二度と聴きたくない)。

それらの童謡はごく1部を除いて現在では聴く機会はないが、私は今でも間違えずに口ずさめる。たとえば、

♪ 良い子のお国は強くなる
♪ 良い子になりましょ、ぼくたちは
♪ 暑さ寒さに負けないで
♪ 強い日本をつくりましょう

忘れたくても忘れようもない軍国時代の童謡である。

島田小学校には1年間しかいなかった。軍人だった父親の移動に従って航空隊があった佐伯(大分県)へ移転したが、ここでも敵機来襲を知らせるサイレンはひっきりなしで、学校へ行ってもサイレンが鳴り止まぬうちに帰宅することも珍しくなく、佐伯では童謡を聴いて楽しむ機会すらまったく潰えてしまった。

終戦は山形県の谷地で迎え、昭和天皇の詔書もこの地で聴いた。といっても古びたラジオに母や祖母が耳をすりつけるようにして聴いている傍で耳をそばだてただけで、戦争が終わった事実が辛うじて分かった以外はほとんど記憶がない。だが、この地での音楽体験は後の私が進む先を決定づけたのではないかと思うくらい大きかった。それはやはりSP盤だったが、ただし童謡ではなく、たとえばレクオナ・キューバン・ボーイズの〈タブー〉や〈アマポーラ〉の名演(後に知った)、ジャズとはいえないポール・ホワイトマン楽団の〈蝶々さん〉(プッチーニ作曲『マダム・バタフライ』のアリア〈ある晴れた日に〉のフォックス・トロット版)や演奏者名は忘れたが〈キャリオカ〉など、それに〈露営の歌〉や〈出征兵士を送る歌〉などの軍歌だった。島田や佐伯では聴いたことがないこれら洋楽がなぜ谷地で聴けたのか。母がいない今では確かめようもない。小学1、2年ではまだ早いという判断だったのかもしれない。

1つだけ忘れられないことがある。いつだったか母が話してくれたことだ。まだ日米が愚かな開戦に突き進む以前、海軍兵学校を卒業した祖父(母の父親)が研修のため米国に数週間出かけたおり、母を含む3人の娘たちのために買い求めた唯一のお土産が SP レコードだった。それも声楽を勉強していた娘にはカルーソを含むオペラのアリアやイタリア民謡、ピアノを習っていた一番下の妹にはコルトーらピアニストのSP盤、母にはラテンや有名ダンスバンドのヒット曲といった具合。あの厳格な祖父にして何という細やかな気配りと優しさだろう。この話を聞いたとき私は耳を疑った。私の知る祖父は海軍中将の威厳を死ぬまで失わなかった謹厳実直な老人で、普段はほとんど口を開かないが、おかしなことをすると一喝される怖さが身に沁みていた私たち孫にとってはまるで別人格の人のように思えたものだった。祖父はよほどしつけの厳格な家の出なのだろうと思うしかなかったが、あるとき母が呟くように私に言ったことが忘れられない。「おじいさんはね、一人息子の正治にすべてを託していたのよ。その息子が沖縄沖を潜水艦で航行中に、米軍の攻撃であえなく戦死した。それ以来すっかり心を閉ざしてしまったの」。

正治叔父がその潜水艦で出航する日の朝、身支度を終えて、いざ2階の部屋から階下へ降りようとしたとき、なぜか傍らにいた私に気がついてそっと頭をなでながら言ったひとことを私は決して忘れたことがない。「お母さんの言うことをよく聞いて、しっかり勉強するんだよ」。

谷地へ来た当時、戦争はまだ終わっていなかった。母はなるべく洋楽は聴かないように私を諭したものだ。私は一計を案じ、昼間だというのに蓄音機のある部屋の雨戸を全部閉め、蓄音機ごと毛布をかぶって聴いた。音が外へ漏れないように工夫したのだ。これらの音楽は今でも1から10まで間違えずに歌える。ことに「タブー」とB面の「アマポーラ」は終生の愛聴曲となった。レクオーナ・キューバン・ボーイズが演奏するこの2曲のみならず、祖父が母に買ってきたSPレコードのすべてを、真っ昼間に毛布を頭からかぶって聴き耽った体験が今の私の根っこに生き続けている。

戦後、我が家は戦地から帰還した父と、谷地から遠くない飛行場がある神町(山形県)郊外の小さな村落(向原)で新しい生活をはじめた。といっても、向原から神町の小学校まで徒歩1時間の道のりに加え、友達と遊ぶ機会が多くなり、SP盤を聴く機会が極端なくらいに減った。加えて古びたラジオを通してNHK第1放送の番組を聴くことがほかに何の娯楽もなかった当時の我が家の共通の楽しみとなり、いつしかSP盤は隅へ追いやられてしまった。〈鐘の鳴る丘〉(主題歌は古関裕而作曲)や7時半からの歌謡番組はほとんど欠かさずに聴いたものだ。

やがて小学校を卒業した私に、両親は先に東京へ行くように促した。逗子(神奈川県)には母方の祖父母の大きな屋敷があり、母が祖父母を説得し、私がきちんとした学問ができる環境においてやろうと意を尽くしたのだろう。先に触れた通り、祖父は海軍中将まで昇りつめた職業軍人で、太平洋戦争前は何度か米国へ渡航し、当地で娘たち(母や叔母)のために買い集めたSPレコードが、当時は誰にも聴かれないまま応接間に眠っていた。それはいわば私にとって音楽の宝庫みたいなもので、ほとんどがクラシックのレコードだったが、祖父が外で庭仕事をしている時間を狙っては応接間に忍び込んで聴いたことが涙が出るくらいに懐かしい。

やがて、一家が祖父の家に厄介になる日が来た。かくして私の中学生活が始まった。この中学生活でも後の私にかけがえない音楽と接する機会を得た話もあるのだが、約束の枚数はとうに尽きたのでこの続きはまたの機会に譲ることにしよう。                                   (2014年6月30日記)

*編集部注
本稿は、単行本化を目的として執筆を始めたものの初志貫徹が叶わず、筆者が故人となった今、初めて公開されるものです。

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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