#21 阿部薫について
text by Kazue Yokoi 横井一江
photo by Tatsuo Minami 南達雄
今年に入ってから、夭逝したサックス奏者阿部薫(1949年〜1978年)の未発表音源が次々とリリースされた。その4タイトルは下記のとおり。
『阿部薫/ 19770916@AYLER. SAPPORO』 1977年9月16日録音(doubtmusic)
『高柳昌行、阿部薫、山崎弘/ライヴ・アット・ジャズベッド』1970年9月27日録音(Jinya Disc)
『高柳昌行、阿部薫/ライヴ・アット・ステーション ’70』 1970年6月18日、 5月あるいは 6月録音(Jinya Disc)
『阿部薫/完全版 東北セッションズ 1971』1971年10月31日、12月4日、 12月6日録音(Nadja21/King International )
『19770916@AYLER. SAPPORO』は亡くなる前年の演奏で、翌年の札幌でのライヴは既にCD化されているが、それを凌ぐ後期の阿部の秀逸なソロが聴ける。高柳昌行の録音のみをリリースしているJinya Discからも2枚リリースされた。『ライヴ・アット・ステーション’70』は『解体的交感』を彷彿させる密度の高い演奏である。『ライヴ・アット・ジャズベッド』は山崎弘(現・山崎比呂志)を加えた3人編成での高柳昌行ニュー・ディレクションでの貴重なライヴ盤だ。『完全版 東北セッションズ 1971』は既発の3枚のアルバム『阿部薫、佐藤康和/アカシアの雨がやむとき』『阿部薫/風に吹かれて』『阿部薫/暗い日曜日』に購入特典CD収録曲と完全未発表録音を追加、短いが阿部薫のMCも入っており、彼の肉声も聞くことができる。また、ブックレットには書下ろしのライナーとオリジナル・リリース時のライナー、写真家南達雄の写真も多く掲載されており、貴重なボックスセットとなっている。
チャーリー・パーカーやジョン・コルトレーンに代表されるような歴史上のジャズ・ジャイアンツは死後も多くの別テイクなどの未発表音源が発表され、その度に話題となることが多い。だが、阿部が音楽活動していたのは約10年ほど、生前に出たアルバムは2枚だけなのに、亡くなった後に次々とライヴ録音が世に現れ、約50枚もリリースされている。このような演奏家は他にいるだろうか。しかも、生前に出たLPのうち高柳昌行との『解体的交感』(Sound Creators Inc.)は流通した枚数が非常に少なく「幻の名盤」だったため、事実上生前に流通したアルバムは1975年録音のソロ・アルバム『なしくずしの死 』(ALM Records )のみと言っていい。私は阿部をライヴで観る機会をすれ違うように逸している。そして、実際に阿部の録音を聴いたのは、亡くなった後に1981年にリリースされたLP『北』(ALM Records)と『彗星パルティータ』(Nadja)を購入した1981年だ。そして運良く『解体的交感』の音源を聞き、その苛烈な即興演奏に「はっ」としたのである。高柳の存在感のスゴさを知ったことも大きく、当時日本でこのような激しくも研ぎ澄まされた即興演奏が試みられていたことに驚かされたのだ。
阿部薫は生きているうちから天才的なアルトサックス奏者として伝説化されていたように思う。そのためか、評論家の語り口は熱っぽい。阿部についての文章でよく用いられる「極北」という言葉から得る印象とは対照的である。それは、間章だけではなく、副島輝人、清水俊彦、小野好恵もそうだ。そして、清水俊彦を除き、皆阿部のライヴ活動にも何がしか関わるのである。彼のファンもまた熱く、その言葉には思い入れの深さが感じられる。しかし、そのような評論家の言葉や熱心なファンの語りが、阿部の実像を、彼の音そのものを捉えにくくした面があるような気がしてならない。そのようなことを今思うのも、たまたま友人が若き日の阿部薫へのインタビューが掲載された私家版の冊子のコピーを送ってくれたからである。
それは、1970年まだ阿部薫が川崎のオレオで演奏している頃、彼を聞いた高校生達が阿部の言葉を残そうとインタビューを企て、文字起こしして、自分たちも何がしかの文章を書き、『FEFE』と題した冊子にまとめたものだった(『FEFE』廃刊号、1970年12月31日発行、発行人/発行所/編集人はS.U.B.と最終ページに記載されている)。阿部のインタビューといえば、副島輝人が『日本フリージャズ史』(青土社、2002年)で引用している月刊『音楽』誌1974年8月号の記事以外、私は知らない。阿部自身の語りについては、常に誰か評論家が書いた彼の言葉を断片的に目にしただけである。だから、高校生によるインタビューは新鮮だった。相手が高校生だったからかもしれないが、意外なくらい率直に丁寧に答えているのである。
インタビューが行われたのは1970年10月29日阿部の自宅。阿部は同年3月に新宿ピットインの楽器倉庫を借り受けて作られたスペース「ニュージャズホール」でも演奏を始め、4月になると池袋「ジャズベッド」で山崎弘とのデュオ、5月に渋谷「ステーション’70」で高柳昌行ニューディレクションでのデュオ活動を始め、6月には「解体的交感〜ジャズ死滅への投射」と題したコンサートに高柳昌行ニュー・ディレクションとして出演した。Jinya Discから今年リリースされた2枚のCDに収録されたライヴの時期とほぼ重なる。ある意味、演奏家としてピークへと向かっていた時期と言えるかもしれない。
その冊子から、少し阿部の言葉を紹介しよう。まず、1970年代初頭のその時期、阿部は日本ジャズ・シーンをどう捉えていたのだろうか。
ジャズにはひとつの雰囲気なりファッションってのがあるんだ。ジャズってのが風俗的な意味ではやったのは十年くらい前のファンキーブームの時で、サングラスかけてさ、簡単に言っちゃうと一種のニヒリズムだよね、「ああ、世の中つまんねえな」なんて言ってさ。で、ジャズ聞いて、「もうこれしかない!」なんて言ってさ。そういう雰囲気ってあったんだよね。普通ジャズ聞く、あるいはジャズにひかれるってのはジャズの音だけじゃないんだ。ジャズの持っている雰囲気なんて全部出鱈目なんだけど。例えばハートがあるとかフィーリングだとか、あるいはブルースだ、レッドだ、ブラックだってんで、そういう一種のムード、あるいはファッション、それがすごく強かったのだよね。それに、実際ジャズプレイヤーっていうのは麻薬やったりマリファナ吸ったりとかそういうことやってたじゃない。そういうのに憧れてジャズ喫茶に入り浸る。なんていうのがすごく多かったんだ、日本の場合。でね、ジャズと呼ばれるているものからムードとか雰囲気だとか、そういうのを全部取っちゃったら何にも残らないじゃないか、ジャズってのは全くそういったムードがすべてじゃないか、なんて思えてきちゃってさ。ま、そうとも断言できないだろうけど、確かにそういうリズムの躍動感だとかそういうものがあるんだろうけど、とにかく早い話がジャズってのは一種のムード音楽じゃないか、なんて思えてくるんだ。で、僕はそういう意味でフォービートってのかな、ああいうフォルムでのジャズってのはまるっきり何でもないと思うしさ、まだシャンソン聞いている方がいいと思うしね。
なんとも手厳しい言葉である。だが、当時先鋭的なフリージャズのリスナーもまたそれに近い感覚を持ち合わせていたのではないだろうか。従来のジャズは彼にぬるい音楽に聞こえたのに違いない。彼はジャズ・スタンダードをほとんど演奏せず、それでいながら<暗い日曜日>などを取り上げているのもこういうところからきているのだろう。そしてまた、こうも言っている。
俺はね今ジャズ喫茶で流れてくるほとんどのレコードがどうでもいいんだよ、俺の場合はね。で、自分でPRするんじゃないけれど。俺はやっぱり自分の出しているような音だったら聞く気になるし、どうでもいいじゃ済まされなくなってくる。でも、どのレコードからもそういう音って聞けないしね。だから俺は今すべてがどうでもよくなっているんだ。でね、俺がそういう何十年っていうジャズの歴史、そういう中で認めているのはホリディだけなんだ。もうビリーホリディ以外は認めていない。ホリディのでも限定されるけど、コモドア盤の<ラバー・カム・バック・トウ・ミイ>、あれだけなんだよ。あれ以外には全部もう認められない。結局ジャズのやったことってホリディがシンコペーションしたってことでしかないような感じがしているんだ。
ビリー・ホリデイの<ラヴァー・カム・バック・トゥ・ミー>を阿部が好きだった/評価していたことはどこかで何度か読んだ記憶がある。では、その曲のどこに彼は惹きつけられたのだろうか。
もう曲とかっていうんじゃなくて、たった一秒のシンコペーションしているその部分だからね。音でもないし、当然ビリーホリティっていう人物でもないし曲でもない訳だよ。それが何かって言えば、殆んどある種の時間とか空間っていうもんでもないし、もうそれっていう感じよ。で、今俺が積極的に聞こうと思っているのはホリディだけだよ。他のは全然。ま、ジャズ喫茶で何か流れているのを偶然聞く場合もあるけど。前はドルフィーをある程度認めていたんだけど。やっぱり近頃は娯楽で聞くってんなら聞くことできるけど‥‥‥
エリック・ドルフィーを父に、ビリー・ホリデイを母に生まれた、などと言ったとどこかに書かれていたが、ドルフィーについてはそうでもなさそうである。アルトサックスとバスクラリネットという同じ楽器を演奏しているからだろうか、この時既にドルフィーとは異なる世界に飛び出していったということかもしれない。
何かにつけ引用される阿部の言葉に「ぼくは誰よりも速くなりたい」というフレーズがある。『阿部薫覚書(1949ー1978)』(ランダムスケッチ)に掲載された長尾達夫「風のような男」の中で紹介されている阿部自身が書いたテキストだ。それは中村達也とのデュオ・コンサートのためのパンフレットに載せる文章を自分が書くと言って、手近にあったチラシを1枚引きちぎり、紙片を裏返してそこにこう書き留めたのである。
ぼくは誰よりも速くなりたい
寒さよりも、一人よりも、地球、アンドロメダよりも
どこにいる、どこにいる
罪は
では、阿部は実際「スピード」についてどう語っていたのだろうか。
俺は今どれだけ音を出せるか、どれだけスピードを出せるかって、もうそれ以外のことを考えていないんだよ。もうあらゆるものよりも早くなるということ。別に駆けっこする訳じゃないんだけど、そういう意味でのスピードじゃないんだけどさ、とにかく超スピードになるってこと。音を追い越しちゃうってこと。
インタビュアーが「今やっているデュエットにしてもドラムスの人にもっとスピードがいるような気もするんだけど。それは物理的なことだけど」と問い変えす。ドラマーとはおそらく山崎弘のことだろう。
デュエットでやっててドラムスの音を気にしないっていったら嘘になるけどさ。ドラムスの音をいちいち聞きながらやってんだけど、でもある段階までくると全く個人的になる訳よ。ドラムスがどうでもよくなるんで、その俺はただただ超スピードで突っ走ることだけしか頭になくてね。それ以外のことは何もやってない訳。パァーッと音出すじゃない。で、音がビューッってベッド(注・阿部さんが演奏する唯一の場でもある池袋のジャズ喫茶)だったらベッドから飛び出しちゃってさ、ギューッと地球から飛び出て、どっか宇宙の果ての果てのもう宇宙がないって所までさ、その先までブッ飛んでくっていうようなそういうスピード。あと俺が出したいのは音じゃなくて、「静けさ」っていうんでもないけど、少なくとも音は出したくなくて。音出ているうちはまだまだ駄目だと思うんだよ。なるようにしたいっていうより聞こえなくなんきゃいけないと思うし、聞こえているうちはまだまだ遅い訳だよ。そういったことはできると思うんだ。聞いてんだか聞いてないんだか解んなく風にもできるだろうし、もうメロディもフレーズも訳解んなくなる様にでけきんだろう。やっぱりゲボーッゲボーッなんてのは解るじゃない。「ゲボーッゲボーッ」ってやってるな」なんて。
スピードだけではなく音色についてはこう語っている。
俺はあと音色っても大事だと思うんだ。俺は音色をすごく気にするんだよ。なぜかっていうと、すごくスピードのある音色ってある訳よ。音色ってのにはね、フワーッってやったいかもにもダラダラッてさ、なんか花咲かじいさんじゃないけど灰なんかパァーッパァーッって撒くみたいに漂っちゃう音色とかさ、ビィーッと直線的に突き抜けていく音色ってのがある訳よ。そういう差ってのがあるんだよ。俺だけがそう思って君達はそう思わないのかどうかよく解んないけど、とにかく俺は音色の点でスピードのある音色を出したいんだよ。
「昔ジャズを聞いていた時、演奏者の出す音を媒介にして聞いている方と演奏している方との間にコミュニケーションが成立する、それじゃないかって思ったこともあったけど」という問いかけには、「ま、それはあるのかもしんないけど。やっぱ俺はないと思うんだ」というあっさりとした答えだった。フリージャズの演奏家にしては、様々な人と積極的にセッションを行うことを好むタイプではなかったことがこの言葉からも読み取れる。とはいえ、実に真摯に高校生2人の問いかけに答える様から、彼の人間性や音楽への向き合い方が伺えた。紙幅の都合でほんの一部分しか紹介できなかったが、最後にもう少しだけ引用しておこう。
俺は「すごい」とか「素晴らしい」とか言われるうちはまだまだ駄目だと思うし、まあ「駄目だ」って言われるのも駄目なんだけどね。だから、もう「いい」とか「悪い」とか何も言えなくなるまでいかなきゃいけないと思うんだよ。それは、訳解んないっていうんでもないし。少なくとも、俺はジャズなんてどうでもいいと思う。もうどうでもいいんだよ。もう俺の演奏する場所ってのもなくだろうしな。で、聞く奴はどんどん減っていくだろうし。別にそれはそれでいいんじゃないかな。
そこにはある種の諦観も感じられる。阿部薫は当時フリージャズを演奏していたミュージシャンの中で、最も「ジャズ」から離れ、自身のサウンドを希求し続けた演奏家だ。それを可能にしたのは、独学の中で身につけていったテクニックである。即興音楽が最高のエゴの音楽、サウンドの主観性に立つ音楽だったとするならば、まさしく阿部は当時の即興演奏家の中でも最高峰のひとりだったと言えるだろう。だが、それは一般的なジャズファンにはまだまだ受け入れ難いものだったのかもしれない。
阿部にまつわるエピソードには事欠かないし、彼についての言説もまた多い。しかし、いったん雑念を取り払って、純粋にそのサウンドに向きあって聴くことが、21世紀の今求められていると思う。それなくして、歴史的な位置付けもまた出来ないのである。
10月末頃には『阿部薫2020―僕の前に誰もいなかった』が文遊社から発売される。『阿部薫覚書』『阿部薫1949~1978』(文遊社)の続編ともいえ、書き手は前作に比べると若く多様性に富む。そこにはペーター・ブロッツマン やクリス・ピッツィオコスからの寄稿、またバリトンサックス奏者吉田隆一による奏法解説も収録されており、従来とは異なった視点から阿部薫を捉え直す格好の著作集といえるだろう。