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悠々自適 悠雅彦Monthly EditorialNo. 235

悠々自適 #72「コンダクションと表現の自由について」

text by Masahiko Yuh 悠雅彦

去る10月21日、東京・新宿のライヴハウス「Pit Inn」で、興味深いライヴ・セッションがあった。<即興+コンダクション>をうたったこのセッションは、フルート奏者 Miya を中心に7人のミュージシャン(蜂谷真紀vcl、横川理彦vln、吉田隆一bs、坂口光央key/syn、ナスノミツルb、植村昌弘ds、寳玉義彦poetry reading)が結集し、即興でコンダクションを試みるという、日本では異色の催しだ。Miyaによれば、英国で活動していたとき、フリーのヴィオラ奏者ベネディクト・テイラーと懇意になり、当時彼が積極的に試みていたコンダクションというフリーな演奏形式に興味を深め、テイラーが来日したのを機にこのエキサイティングな試みに新たに挑戦してみようと企画したのだという。

コンダクションとは、コンダクター(指揮者)と関連する言葉であると誰でも察しはつくと思うが、さて実際に説明するとなると簡単ではない。テナー奏者のデイヴィッド・マレイがロサンジェルスからニューヨークのロフト・シーンに乗り込んで反響を巻き起こしたロフト・ジャズの流れの中で、80年代に入ってブッチ・モリス(Butch Morris 1947–2–10~2013–1–29 )というコルネット奏者が突如として現れた。そのモリスがコンダクションの立役者といってよい。彼の兄のウィルバーも優れたベース奏者だが、この兄弟がその名を最初に印象づけたグループがデイヴィッド・マレイ・ビッグバンドであった。ネットでブッチ・モリスを検索すると、エレクトラ奏者の恩田晃が彼の薫陶を得てニューヨークで演奏する機会に恵まれた経験を披露しているサイトがある。その中でコンダクションについて、「コンダクターのブッチが記譜された楽曲、もしくは記譜されていない即興をベースにステージ上でリアルタイムにオーケストレーションし、アレンジして、作品を完成させるためのシステム」と書いている。みずから指揮し、その手の動きに合わせてインプロヴァイズするコンダクション作曲法(方式)を確立、流布させた第一人者こそブッチ・モリスだったといってよいだろう。恩田氏の一文の中にある「2月の28日間、ブッチが毎日どこかの場所でタクトを振っていた」という記述などは、東京ではまったく奇想天外にしか聴こえないが、ニューヨーク一帯では珍しくも何でもなかったということになる。すなわち、ブッチ(コンダクター)がときには譜面を使いながらもプレイヤーに指示を出して演奏を開始するのだが、その指示は身振りだったり、手の動き(手振り)であったり、ある場合には目配せなどのジェスチュアでプレイヤーが繰り出すアーティキュレーションやフレージングを変化させ、音楽的な展開をときには独創的な光をほとばらせる、その奇跡的な瞬間に遭遇するそのスリルこそまさにこのコンダクションの面白さでも眼目でもあるだろう。この即興演奏方式はインプロヴァイザーたちの交流が国際的な広がりを持つにつれて多様な発展を遂げるとの確信がブッチ・モリスにはあった。彼の85年作品に『Current Trends in Racism in Modern America 現代アメリカの人種差別の現状』(Sound Aspects)という1作があるが、テナーのフランク・ロウ、アルトのジョン・ゾーン、ギターのブランドン・ロス、打楽器のサーマン・ベイカー、そのほか刀根康尚がヴォーカルで参加しているこの1作はモリスの代表作。またデイヴィッド・マレイと、英国のエヴァン・パーカー、ジョー・ボウイー、アラン・シルヴァらによる『Possible Universe / Conduction 192』(NBA/SA )は、モリスが2013年に他界したので少なくとも最晩年の作品であることは間違いないと思う。

いささか長い紹介になってしまったが、Miya が Benedict Taylor と組んで演奏した新宿ピットインでの演奏は、詩人の寳玉義彦による詩の即興的な朗読も入って、モリスのそれとはまったく違うコンダクションとなった。ここでは即興のアンサンブルを指揮するコンダクターが1演奏ごとに参加ミュージシャンがリレーするという形をとり、まずフルートの Miya に始まって、ドラムスの植村昌弘、詩人の寳玉義彦、バリトン・サックスの吉田隆一の4者が、後半はヴォーカルの蜂谷真紀を皮切りに、エレクトリック・ベースのナスノミツル、キーボードの坂口光央、ヴァイオリンの横川理彦の4者がそれぞれ1曲(1コンダクション)づつコンダクターをつとめて、それぞれに形も雰囲気も様相を変えた即興コンダクションの面白さをときに発揮し、観る(聴く)者に強く印象づけた。最後は遠来のヴィオラ奏者ベネディクト・テイラーのコンダクションで一夜を締めくくったが、ジャズの生命である即興と、ときにジャズを理論武装させる作曲の二つが、明らかな基本的違いにもかかわらず、今や密接に関係しあっていることを強く示唆した<Benedict / Miya +7人のマエストロ~即興+コンダクション>と
いうピットインでの興味深いイヴェントであった。

この<コンダクション>についてのブッチ・モリスの言葉を借りれば、「即興は自然な作曲でなくちゃ駄目だ」となる。これについて、故清水俊彦氏がかつて『ジャズ転生』(晶文社)の中で、「(だとすれば)モリスの(指揮された即興のための)コンダクション手法が、アンサンブルの即興を組織するために指揮者が用いる一連の信号である、といえるのではないか」と指摘し、「ニューヨークの ”キッチン” で、モリスがニュー・ミュージックとジャズのシーンの傑出したメンバーから成るアンサンブルを組織し、まったく譜面の助けを借りないで、挑発的な『現代アメリカの人種差別の現状』(冒頭文参照。モリスが生前に発表した最も新しい作品の1つ)を指揮し、演奏した」ことを追記した。この夜のMiya たちの演奏も譜面の助けを借りない、まさにコンダクション手法によるフリーな演奏の妙味と快感を聴く者に与えるイヴェントだったといってもよいだろう。別の言い方をすれば、コンダクション手法とは、指揮された即興であり、アンサンブルと指揮者のためのデュエットを本質とする手法である。つまり、コンダクションとはアンサンブルが試みる即興演奏を組織する信号であり、それを発する一連の身振りや手振りによって成立する音楽を生むアクションなのだ。

それにしても、ジャズにおける表現の自由にはあらためて驚く。いや驚くのみならず、深い敬意を抱かずにはいられない。今からちょうど60年前の1957年、アーカンソー州リトル・ロックの中央高校に黒人生徒が9人入学したとき、知事だったフォーバスは州兵をまで出動させて9人の入校を阻止しようとした。ベースの巨人チャールス・ミンガスはその直後に吹き込んだ「フォーバス知事の寓話」(CANDID盤)の中で、「馬鹿な奴だよ、フォーバスは」と叫んで知事の狼狽ぶりを揶揄した。この声は永遠に消えない。公民権法が成立していなかった時代だ。といってこの吹込のあとミンガスが人種差別主義者たちの攻撃を受けた記録はない。彼やマックス・ローチは当時ファイティング・ニグロ(闘う黒人)と呼ばれたが、公民権法が議会を通過する1964年前後の人種差別反対運動が激しく燃え上がった時代はむろん、南部の奴隷制度が黒人たちの人権を蹂躙していた時代でも、多くの黒人演奏家たちは魂が叫ぶような主張や思うところを盛り込んだ音楽を演奏し、歌い、主張した(洞察力のある聴く人が聴けば、すぐに分かるはずだ)。たとえば、チャーリー・パーカーのアルトから噴き出す情念の爆発するサウンドを聴いてみればよい。
ジャズにおける<表現の自由>が、いかに多くのミュージシャンのもとではぐくまれ、何にも変えがたい、それこそかけがえのない瞬間を生み、音楽(ジャズ)を音楽たらしめる最高の喜びと感動をもたらしてきたかを深く思わずにはいられない。

そろそろ今回の巻頭文を締めくくろうと思った次の瞬間、つい2週間ほど前(正確には10月14日)、「俳句掲載拒否」の見出しが躍った新聞記事が思い浮かんだ。それは<表現の自由>がいつの時代も危機にさらされていることを痛感せずにはいられない一報だった。それは2014年、憲法9条を守れと訴えて路上を行進した女性たちのデモを詠んで「公民館だより」(さいたま市)に投稿した俳句が、世論を二分するテーマのため「公民館だより」には掲載できないとして、所属サークルでは秀作に選ばれた一句だったにもかかわらず、掲載を拒否されたとの報道であった。掲載が許可されなかったその1句とは、

梅雨空に『9条守れ』の女性デモ

うっとうしい天気を吹き飛ばす女性たちのデモに、国や子供たちのかけがえのない未来を託す
希望を感じ取った作者の共感がひしひしと伝わってくる1句だ。いくら公民館が公平中立の立場にあるとはいえ、ときの政府の認めた集団的自衛権の行使容認にデモの女性たちが反対していると判断し、それだけの理由で掲載を拒否するとは何と狭量で、自由な精神を謳歌させた詠み手(投稿者)を筆頭とする一般の県民の心を萎縮させる侵害行為であることか。彼らは何を侵害したかと考えるとき、それが「表現の自由」であることは言を俟たない。

投稿した女性(77歳)は、投稿者としての権利を侵害されたとして、句の掲載と慰謝料を求めて翌2015年に提訴した。女性は裁判所の判断を仰いだ。政治的なものに足を踏み込むと大火傷をするぞと暗に脅しをかけるかのような公民館に対して、さいたま地裁(大野和明裁判長)は去る10月13日、「公民館の中立性や公平性を害するとは言えない」(朝日新聞)として、「公民館側が ”思想や心情を理由として不公正な扱いをした” 」(同)ことを認め、市の不掲載決定は違法であり、不掲載には正当な理由がないことを指摘した上で「5万円の賠償を命じた」(同)。

これはつまり、「表現の自由」の問題であり、「表現の自由をうたった憲法の問題でもある。私個人の考えをいえば、さいたま地裁は慰謝料について云々するより先に、まず公民館(さいたま大宮区)側にあらためて掲載する処置をとるように命ずるべきではなかったかと思う。「表現の自由」の名誉を回復し、あらためて憲法でも保障された「表現の自由」の素晴らしさを再認識しなければならないだろう。
数日前(10月27日)、チェ・ゲバラの後半生にも光を当てた坂本順治監督『エルネスト』を見た。オダギリジョーの献身的な驚くべき熱演に大きな感銘を受けた映画の終盤で、「自由は神が人間に与えた最高の権利の1つ」というテロップが流れたとき、これは表現の自由と受け取ってもいいのではないかと思ったことを付記しておきたい。

10月18日の朝日新聞が『俳句掲載拒否』との見出しで社説を掲載した翌日、同紙朝刊の<朝日川柳>に早くも次の1句が登場した。(2017年10月28日記)

秋空に「九条守れ」の社説あり

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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