#15 【祝30周年!】
「渋さ知らズ」という舞台装置
text & photo by Kazue Yokoi 横井一江
今年は渋さ年と言っていい。夏頃から全国あちこちで「天幕渋さ」他「渋さ知らズ」公演が次々と行われている。
なぜなら「渋さ知らズ」30周年だからだ。その誕生は1989年9月18日らしいが、いったいどれほどの人がその立ち上げ公演を観ているのだろう。実は未だにその目撃者に出会ったことがないのである。不破大輔をリーダーとする「渋さ知らズ」は「発見の会」というアングラ劇団の劇伴から立ち上がったと語られているが、当時を知る人の証言は陣野俊史著『渋さ知らズ』(河出書房新社、2005年)でしか読んだことはない。それはアングラでの小さな出来事だったのだろう。
私が「渋さ知らズ」を最初に目撃したのは新宿ピットインである。バンドが出来てから既に5、6年経っていた。それ以前に、代々木にあったチョコレートシティに「渋さ知らズ」という変わったバンドが出ているという話を風の便りに聞いてはいたが、行ったことはなかった。その日の出演者には渋谷毅 (p)、片山広明 (ts)、板谷博 (tb) といったベテラン勢もいた。それ以外で覚えているのは、モヒカン刈りの姿が目立っていた泉邦宏 (as)。北陽一郎 (tp) もいたと思うし、ダンサー(乳房知らズ)なども。本稿を書くにあたり、その月の新宿ピットインのスケジュールがないか探したが、紙の山のどこかに埋もれてしまっており、発掘できなったので、記憶違いがあるかもしれない。当時はアマチュアのメンバーも参加していた。だからステージはぎゅうぎゅう詰め。 エネルギーを感じたし、面白いのだが、音楽的にはユニゾンが合っていないなあというのが、正直な感想だった。それから暫く後だと思う。評論家の副島輝人とライヴかコンサートの帰りの電車の中であれこれ雑談をしていた時に渋さの話になった。副島は見透かしたように「音が合っていないと言いたいんだろ」と私に言った。「いや、意図的に合わせようとしていないのでは」と返すと、「よく気がついたね」と笑った。渋さのめちゃくちゃな面白さについて、渋谷は『渋さ知らズ』でこう語っている。
めちゃくちゃだとどうして面白いかという話になるんだけど、めちゃくちゃだからやれば誰でもできるんですよね。やろうという意志があってある程度楽器ができれば。難しいことをやろうとか、こういうことをやらなくちゃいけないとか、そういうことを考えていると音楽に力が出てこない。また、練習してやるような、勉強の成果をそこで問うようなことでもだめ、やっぱり力がない。めちゃくちゃだから俺でもできるということになるわけで、俺でもできるということはやる音楽に力があるということ。
そして、さらにこう言う。
音楽ってすごく面白くてさ、じゃ、せえのって、音を合わすというのが目的みたいにみえて、目的っていうか、合うのがいいと思うでしょ。でも、音楽は本当は音が合わないのがいいところなんだよね。っていうことは、ここに一つの音があって、これと同じ音を鳴らしても区別がつかない、みんな、合ってないからひとつのサウンドは出来上がる。合わないというのが音楽の醍醐味といっていいくらいの大きな面白さなんだよね。そういうことから見れば渋さの音ってあんまり合っていない。普通の意味でいえばね。そういうことの合わない音の拡張版みたいに考えられないこともない。……渋さを通して、いろんなところから音楽について考えることができる。
この文章を読んだ時、頷きつつ、頭のどこかに残っていたもやもやがすっと消えていったのである。
1996年、不破大輔はフェダイン[川下直広(ts) 不破大輔(b) 大沼志郎 (ds)]でメールス ・ジャズ祭に出演する。その時、川下のサックスがいい感じに鳴っていたので、これはいけると思ったことを覚えている。この時、メールス にはフェダインの3人以外にも北陽一郎など当時の若手ミュージシャン数名が一緒に来ていた。フェダインのステージでは、途中からはゲッチンゲン在住のダンサー遠藤公義も含めて彼らがステージ上に出てきたのである。メールス の音楽監督ブーカルト・ヘネンとのすり合わせは当然あったのだろうが、メールス はこういうところは緩くてプログラムに掲載されていない人が舞台に上がることもありなのだ。この時、不破の頭に「渋さでメールス に出たい」という野心があったことは想像に難くない。だが、長年メールス に日本のミュージシャンを紹介してきた副島もさすがにその大所帯にうーんと考え込んだだろう。結果的に1998年のメールス に出演することになるのである。
渋さのメンバーは変化し、音楽家、ダンサー、舞踏家、パフォーマー、美術家等々を束ねた大集団になっていく。ステージは、ミュージシャンだけではなく様々な表現者が関わるトータル・メディア、一種の大スペクタクルとなっていったのだ。90年代後半にはフジロック・フェスティヴァルに出演するようになった。もはやジャズのハコだけではなく、より大きな舞台で観衆をつかんでいったのだ。だが、ジャズ雑誌はあまり彼らに関心を払っていなかった気がする。よく覚えているのは、当時のジャズ雑誌の最大手、スウィングジャーナル誌は広告を載せないとCDレビューで取り上げてもらえなかったので、渋さなどのCDをリリースしている地底レコードが(たぶん仕方なく)載せた広告に使ったのは吉田社長がラーメンを食べている写真だった。それには大笑い、いや大苦笑したのである。渋さが表紙となったのは短命で終わった『Out There vol. 08』(エイ出版社、2001年)で、やっと日本の音楽メディアでもそれなりに取り上げられるようになったのだ。
話をメールス に戻そう。私は1998年のメールス には行っていないが大成功だったと聞いた。それが私の想像以上の成功だったことを、2000年のメールス で知るのである。ステージが始まる前から、舞台の際まで埋め尽くした聴衆の熱気にまず圧倒された。その時のレポートを『ジャズ批評 No. 105』(ジャズ批評社、2000年)にこう書いた。
大漁半纏に褌姿の渡部真一が、「えんやーとっと、えんやーとっと」とかけ声を発しながら舞台に登場する。そして、舞踏ダンサーが現れ、バルーンのような得体の知れない物体が客席に向かって放たれた。こうして渋さ知らズのステージは始まった。通常1グループ約1時間だが、この時は2時間という倍の演奏時間が与えられていたのだ。本ステージの他にも渋さのメンバーによる様々なプロジェクトが行われた。
観客の反応、盛り上がり方は、日本での渋さの公演をはるかに凌ぐ凄いものだった。彼らはこのようなエネルギーを開放される場を待っていたのだろう。確かに、カナル・ストリートから遠く離れて回り回っているうちに、原初のジャズが持っていたカーニバル的要素は薄れてしまい、享楽的な微笑みも、ダンスをすることも、人を躍らせる楽しさもジャズの文脈からおっこちてしまった。ケミカル・ランドリーに放り込まれてしまったジャズが失ってしまったもの、猥雑さの中に大衆の生命力が存在するのである。素直に反応する満杯の客席は音楽に呼応して揺れていた。群衆は交歓されたエネルギーの中で一種のエクスタシーを感じているようでさえあった。気の毒だったのはステージの周りにへばりついていたカメラマン。ステージのすぐそばまで迫ってくる観衆に挟まれて身動きがとれず、誰もがお手上げの状態だった。午前中のスペシャル・プロジェクトの会場も、午前中にもかかわらず超満員。何度も足を運んだメールス だが、早い時間に行われるスペシャル・プロジェクトにこれほどの人が集まったのは見たことがない。
聴衆は渋さのステージに夢中になっていた。その熱気がさらに渋さのパワーを引き出していく。反面、頭の固い評論家は首を捻る。それは当然だろう。渋さの根底にある演劇的な発想、場面展開の手法はヨーロッパ人には荒唐無稽に映ったのではないか。なぜなら彼らの規範にはない発想だからである。だからこそ、面白がる人は面白がるのだ。繰り返されるシンプルなメロディも混沌とした音の中にある。ソリストが演奏している時もジャズのように周囲のミュージシャンが音を出すのを止めるわけではない。フリージャズとも違うのだ。ヨーロッパ・ツアー後に渋さのサウンドが変化したように感じていたが、北陽一郎の「渋さ知らズのサッカー理論」と題した「フォワードもディフェンスをする全員サッカーやアイコンタクト、ポジショニングなどのサッカーの理論とパラレルに考える理論」を後で読んで腑に落ちたのである(→リンク)。演奏の余韻は翌日も残っていた。翌朝スペシャル・プロジェクトの会場を出て、本会場のテントに向かっていた時に、「本多工務店のテーマ」を口ずさんでいる人がいるのに驚かされたと同時に、渋さはメールスの聴衆のココロを 間違いなく掴んだことを実感したのである。だからこそ、ブーカルト・ヘネン音楽監督最後の年である2005年にもメールスに呼ばれたのだろう。
![](https://jazztokyo.org/wp-content/uploads/2019/11/shubusa-3-271x200.jpg)
ゼロ年代を通して、年に一回はどこかで渋さのステージを見ていたように思う。ゼロ年代半ばまでは横濱ジャズプロムナードにも毎年登場していた。会場はホールだったので、オノアキ制作の巨大なドラゴンのような物体も浮遊させることができたのである。また、違うステージでは、青山健一のライヴ・ペインティングとのコラボレーションもあったり、ショーアップした舞台に本物のストリッパーが登場したこともあった。彼らのハイパー・サウンド・スペクタクルの醍醐味は大会場、あるいは池袋Buddyのような大きめのライヴハウスで存分に発揮されていた。もっとも不破は継続的に小編成の「渋さチビズ」でもずっと活動しているが、そこでの集客も「チビズ」なのはなぜなのだろう。
「テント渋さ」のような場や野外フェスでも、ヴェニューに合ったパフォーマンスで音楽ファン以外も楽しませていたに違いない。大胆な変化や冒険はなかったが、ショーとしてのパフォーマンスは安定していったように思う。そして、明らかに「渋さ知らズ大オーケストラ」のファンは増えていった。それでも渋さらしさ、というかエネルギーを保っていたのは、メンバーが流動的だったからかもしれない。コアなメンバーはいるにせよ、様々なバックグラウンドを持つミュージシャンだけではなく、その時々で参加するパフォーマーもさまざま。そんな彼らが同じ場にいることが吉と出たに違いない。
フリージャズ、即興音楽という先鋭的な志向を持つ音楽はそれゆえに小さなサークルのなかでタコツボ化する危険を孕んでいる。渋さのスゴさは開かれているということ。それは、現在過去のメンバーを見ればわかるだろう。その音楽的バックグラウンドは雑多、ダンサーなどパフォーマーも同じく、それゆえに始源のジャズのパワー、ハイブリッドな音楽あるいはパフォーミング・アートが形成された時に発せられるエネルギー、それを現代の日本に蘇らせたような気さえするのだ。だから、アフリカン・アメリカンのミュージシャンの共感を得たのだろう。サルジニアのフェスでドン・モイエが飛び入りしたり、ステージを見ていたアンソニー・ブラクストンがミュージシャンに声をかけたり、と。ディヴィッド・マレイが「あのバンドはいい。エナジーがあるから」と言ったが、まさにそれである。
今年、久しぶりにメールス・フェスティヴァルに出かけた。そこで長年写真を撮っているカメラマンや知人に、「シブゥ… あのビッグバンドはまだ演っているのか」と聞かれた。「今年30周年なので、日本国内あちこちでコンサートがある筈だよ」と答えたら「また観たい!」という。十数年経っても、そのパフォーマンスを覚えているのである。そういえば、ゼロ年代後半、ニューヨークのジャズ・ジャーナリスト会議で出会ったモスクワの音楽ジャーナリスト、キリル・モシュコウやイタリア、ピサのフランチェスコ・マルティネリ(→リンク)とも渋さの話をしたし、ベルリンで出会ったオーガナイザーにも渋さを呼びたいが、とあれこれ言われたこともあった(結果的に公演は実現したようだ)。70年代の山下洋輔トリオはヨーロッパの聴衆に大きな印象を与えたが、それ以降で最も成功したバンドだといえる。もっともツアー自体は大所帯ゆえに大変だったと聞いているが…。
10年代に入ってからは、スタンディングがきついこともあって、渋さの公演にはやや足は遠のいていた。だが、30周年記念ということもあり「渋大祭」には出かけることにした。考えてみれば、この異形の集団が30年も続いたことは奇跡である。「渋大祭」は「渋さ知らズ」と渋さゆかりのミュージシャンが演奏するフェスティヴァルである。そのプログラム、渋谷毅オーケストラやROVOや現在第一線で活躍するミュージシャンが多く出演するラインナップにあらためて渋さの凄みを感じた。そして、マーシャル・アレン率いるサン・ラ・アーケストラも一日だけの公演のために来日した。渋さ冥利につきるではないか。陣野俊史は「渋さ知らズ」を梁山泊に例えていたが、私は「渋さ知らズ」をジャズや日本のアンダーグラウンド文化に深い根をもつ舞台装置だと表したい。出入り自由の(側から見ればかもしれないが)風通しのいい(あるいはルーズな)空間であればこそ、これほどの創造的パフォーマンス集団を維持出来たのだと思う。もちろん、ベーシストというよりもダンドリスト=段取り屋さんとしてこの集団を仕切る不破大輔の器量と才覚があってこそだが。
「渋大祭」での渋さはダンサーやパフォーマーも私の知る限りでは最も多く出演した華やかな舞台だった。マーシャル・アレンをはじめとするアーケストラのメンバーも何人か参加していた。なぜか渋谷毅とスガダイローが仲良く並んで座っていたり、林栄一とマーシャル・アレンのデュオが披露されたり、そして、昨2018年に亡くなった片山 広明の人形もステージ後方に登場するなど、30周年を記念するにふさわしいスケール感と気配りのある舞台だった。なによりも、舞台と客席の熱気が一体化する空間こそが、渋さの醍醐味であり、その存在感を伝えていたように思う。
*全てではないが、「渋大祭」で写真撮影出来たステージをスライドショーにまとめてみたので、ご覧下さい。
渋大祭
2019年9月16日 神奈川県・川崎市東扇島東公園・特設会場
渋大祭Website: https://shibutaisai.com
mull house
石渡明廣 (g) 林栄一 (as) 上村勝正 (b) 外山明 (ds)
スガダイロートリオ
スガダイロー (p) 千葉広樹 (b) 今泉総之輔 (ds)
芳垣細海伊賀吉田&元晴
芳垣安洋 (ds) 細海魚 (key) 伊賀航 (b) 吉田隆一 (bs, b-fl, fl) 元晴 (sax)
T字路s
伊東妙子 (g, vo) 篠田智仁 (b / COOL WISE MAN)
The Sun Ra Arkestra
Marshall Allen マーシャル・アレン (sax, fl, cl, evi, kora)
Tara Middleton タラ・ミドルトン (vo)
James Stewart ジェイムス・ステュワート (sax)
Noel Scott ノエル・スコット (sax, vo, per, dance)
Danny Ray Thompson ダニー・レイ・トンプソン (fl, sax)
Michael Ray マイケル・レイ (tp)
Cecil Brooks セエイル・ブルックス (tp)
Vincent Chancey ヴィンセント・チャンシー (frh)
Rob Stringer ロブ・ストレンジャー (tb)
Tyler Mitchell タイラー・ミッチェル (b)
F.D.Middleton F.D. ミドルトン (g)
Wayne A. Smith Jr. ウェイン・A. スミスJr. (ds)
Tevin Thomas テビン・トーマス (p, syn)
Elson Nascimento エルソン・ナシメント (surdo, per)
渋さ知らズオーケストラ
不破大輔 (ダンドリスト) 北陽一郎 (tp) 石渡岬 (tp) 辰巳光英 (tp.テルミン) Michael Ray (tp) 川口義之 (as) 立花秀輝 (as) 纐纈雅代 (as) Marshall Allen (as) 早坂紗知 (as) 登敬三 (ts) 松本卓也 (ss) 松原慎之介 (as) 泉邦宏 (as) 林栄一(as) 鬼頭哲 (bs) RIO (bs) 吉田隆一 (bs) 中根信博 (tb) 高橋保行 (tb) 加藤一平 (g) ファンティル (g) 石渡明廣 (g) 和 田直樹 (g) 太田惠資 (vln) 勝井祐二(vln) 小林真理子 (b) 永田利樹 (b) 山口コーイチ (key) スガダイロー (p) 渋谷毅 (p) 山田あずさ (vib) 磯部潤 (ds) 藤掛正隆(ds) 山本直樹 (ds) 外山明 (ds) 松村孝之 (per) 関根真理 (per, vo) 芳垣安洋 (per) 柴崎仁志 (per) 大西英雄 (per) Elson Nascimento (surdo, per) コムアイ(per) 渡部真一 (vo) 玉井夕海 (vo) 室舘彩 (vo, fl) 星野建一郎 (vo) 向井秀徳 (vo) 東洋 (舞踏) 若林淳 (舞踏) 向雲太郎 (舞踏) 高橋芙実 (舞踏) ペロ (dance) さやか (dance) すがこ (お調子組合) あすか (お調子組合) 若林美保 (dance) 陽茂弥 (ねねむ) 井上のぞみ (ねねむ) 青山健一 (art) トックン (美術演出) オノアキ (art) 林周一 (風煉ダンス) 笠原真志 (風煉ダンス) 上木文代 (風煉ダンス) 後藤淳一 (風煉ダンス) 外波山流太 (風煉ダンス) 長谷川愛美 (風煉ダンス) 奈賀毬子(風煉ダンス) 南波瑞樹 (風煉ダンス) 田村元 (風煉ダンス) 北川真帆 (風煉ダンス) 笠原ひなた (風煉ダンス) 笠原白山 (風煉ダンス) 内田晴子 (風煉ダンス) Bloco Arrastão (samba dancer) 田中篤史 (音響) 石川葉月 (stage staff) 吉田光利 (地底レコード) 藤中悦子 (staff) 加奈子 (staff) ヲザキ浩実 (staff) 丸山秋穂 (staff) 石坂元(制作) 河原裕人 (制作) 川原純(制作) 杉澤響平 (制作) 馬渕仁彦 (制作)スギゴチ (看護師)
細海魚、元晴、The Sun Ra Arkestra、T字路s、mull house、渋大祭、上村勝正、石渡明廣、吉田隆一、伊賀航、マーシャル・アレン、芳垣安洋、林栄一、サン・ラ・アーケストラ、外山明、スガダイロー、不破大輔、渋さ知らズ