ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #11『City Lights』
今回は本誌編集長から何も指示がなかったので、少し変わった題材を取り上げてみた。13歳の天才ピアニスト、Joey Alexander(ジョーイ・アレキサンダー)だ。彼は筆者が普段近づきたくない要因をたくさん持っていて、今まで本気で聴く機会がなかったが、何でもまずは聴いてみる、でないとどこで損をしてるかわからない、という日頃の自分の決まりごとから、今回本気で聴いてみた。結論は、グルーヴ良ければすべて良し、の再確認をしてしまった。ただし、これからどう成長していくのかは、気になる。蛇足だがこのジャケット・デザインはかなり気に入っている。
ジョーイの10歳アメリカ・デビューとウィントン・マルサリス
彼を今まで真面目に聴いたことがなかった自分の偏見をまず説明しよう。ジョーイは2年前、2014年、本人10歳の時にウィントン・マルサリスに招待されてアメリカデビューした。去年2015年5月に正式にアメリカに移住し、グラミーにノミネートされたり、ホワイトハウスに招待されて演奏したり、と話題をさらいまくっている。筆者は、『天才少年』に興味がない以前にウィントン・マルサリスが苦手で引いていた。マイルス教信者なら誰でもウィントンの悪の数々に辟易している。1986年にウィントンがマイルスのステージ上で横暴を働き、辱めを受けた事件を言っているのではない。
ネット検索しても正確な資料を見つけられないでいるのだが、確か80年代の終わりだったと思う。ヴィレッジ・ヴォイス誌がカラー3ページにわたるマイルス批判を掲載した。マイルスが電気やポップスに走り、ジャズを殺してしまったという内容だった。これには明らかな策謀があった。コロンビア・ソニーは、収入が少なくなってしまった新譜より、復刻版で儲けようと企んだ。それには大衆をそちらに先導しなくてはならない。うまい具合にウィントン・マルサリスは「ネオ・クラシック・ジャズ」という運動を始めた。スティングと共演した兄ブランフォードをクビにする程ジャズの先祖返りを目指しはじめた。そこで復刻版で儲けようと企んだ業界は大物ジャズ評論家、スタンリー・クラウチを使ってこのマイルス批判の記事を大公開し、ウィントンにその先導をさせたわけだ。これに対しキース・ジャレットはミュージシャン誌で4ページにわたるレスポンス記事を書いたのが記憶に鮮明に残っている。ジャズは進化しなければジャズじゃない。ジャズは博物館に展示される音楽ではない、というマイルスの教えに逆らってジャズを殺しているのは、まさにウィントンである、という内容だった。筆者の親分、故ジョージ・ラッセルもそれに呼応し、日本のスウィング・ジャーナル誌に同様の記事を書き、筆者はその翻訳を務めた。蛇足だが、ある日ウィントンがラッセルに電話してきて、リンカーン・センターの出演依頼をしたが、ラッセルは公共の場では言えないような汚い言葉で悪態をついてそれを断ったその場に居合わせたことがある。筆者としてはリンカーン・センターで演奏してみたかったとは思うが、そんなことは口が裂けても言えなかった。
ウィントンは、ジャズはアメリカ黒人だけのものということを強調し、人種差別的な発言に臆さない。白人上流階級はウィントンが提示する、博物館で保管されるようなアートフォームをありがたがり、マイルスの意思を継いで進歩するべきジャズを追求するミュージシャンの行き場はどんどん失われている。そんなウィントンが発掘したジョーイ・アレキサンダーなので、当然「黒人の真似が上手なインドネシアの天才少年を育てて、黒人だけの文化であるジャズに貢献させる」というくだらない趣向だという偏見を持った。彼のデビューアルバム、『My Favorite Things』も、驚きの対象であっても、それだけのように聴こえた。
そもそも天才少年/少女というのは物珍しいだけで、クリエィティブなものに出会うことはほとんどない。タレントショーなどで出て来る、大人のような感情表現ができる子供の音楽は、そのテクニックに驚かされるが、大人の真似が上手にできてるだけのようにしか感じられない。しかも天才少年/少女と言われた子供達がその後素晴らしい演奏家に成長した、というのもあまり覚えがない。蛇足だが、アメリカの役者の場合は別だ。子役で天才的な演技を披露した俳優が大人になっても役者としての地位を保っていることが多い。なぜ音楽ではそうならないのであろうか。筆者も以前に十代半ばの天才(的)才能を持ったピアニストを自分のバンドに雇っていた時期があったが、彼は高校を卒業する頃には音楽的に全く成長しなくなっていて、それまで真似がうまかったがそれだけであったのかと思ってしまった。そうこうしているうちに大学受験を前に本人自身が音楽をやめてしまった。
ジョーイ・アレキサンダーの生い立ち
ジョーイは親の聴くサッチモのレコードで育ち、6歳の時、親が買い与えたおもちゃの電子ピアノでモンクの<Well You Needn’t>の耳コピーから始めたという。しかし出身地であるバリ島ではジャズが盛んでなく、ジャムセッションの場がないことに苦しんだ。親がジョーイの才能を伸ばそうとジャカルタに家族ぐるみで引っ越したのが、彼が8歳の時だ。大金持ちの歯医者の息子であったマイルスは持っていた5枚のLPをすり切れるほど聴いたという。当時の他の黒人ミュージシャン達はLPなど買えず、皆ラジオにかじりついてコピーしていた。本当に求める者だけが伸びる。このあたりが現在アメリカのタレントショーに出て来る天才少年/少女との違いではないかと思う。ネットやメディアで色々なものが簡単に手に入り、情報が氾濫する現代は才能が育ちにくいと痛感する。そういう意味でジョーイはラッキーではなかっただろうか。
クラシック音楽教育ではなかなか実施されていないが、音楽は先人の真似から始めなければならない。例外はない。音楽と限らずとも、すべてのアートフォームに当てはまることだと思う。ピカソの10歳で描いた作品と15歳で描いた作品を見ると、彼は15歳で古典技法を完璧にマスターしてしまっていることがよくわかる。真似する努力を卑下し、クリエィティビティーを主張する輩がいるが、真似の努力の後真似で終わる者はそれだけの者であり、また、真似する努力を怠った者は最初目を引いてもすぐに薄っぺらさがバレる。真似は、やれと言われればできるが、やらないというものだ。トニー・ウィリアムスは10歳の時有名なドラマーを一人ずつ完璧にコピーしていったそうだ。アート・ブレィキーやフィリー・ジョーの帽子や葉巻までコピーしたそうだ。そうやって5人完璧にコピーした頃自分のスタイルが出来て来た、とインタビューで話していた。ジョーイを聴いているとチック・コリアが聴こえるものの、その他にも判別できないくらい沢山のスタイルが聴こえてくる。まずチック・コリアのタイム感やキー・タッチではないのが面白い。本当に沢山のスタイルを瞬時に吸収しているのではないだろうか。しかも彼は10代前半なのである。人生不公平。
<City Lights>
この曲はジョーイのオリジナルであり、新譜『Countdown』のオープニングである。筆者はこのジャズ・ラテンというスタイルが大の苦手である。ラテンのパターンなのにラテン音楽がラテンであるオン・トップ・オブ・ザ・ビートのタイム感ではないのでとても居心地が悪い。そしてもうひとつ、ストレート・ビートとスウィングビートが交互に入れ替わる曲、例えばコルトレーンの<The Night Has A Thousand Eyes>のような曲が大の苦手だ。タイム感が入れ替わる度に頭の後ろをひっぱたかれて転ぶような気がしてしようがない。
ジョーイはインタビューで、この曲は作曲しようとしてできた曲ではなく、ラテンのリズムを練習しているうちに自然と出来てしまった曲だと言っている。初めて聴いた時思わず目を見開いてしまった。ストレート・ビートからスウィング・ビートへの移行が全く自然なのだ。あのコルトレーンのずっこけ感がまったくない(コルトレーンごめんなさい)。これはひとえにこのリズムセクション、ベースのDan Chmielinski(ダン・シムイリンスキー:現在21歳)とドラムのUlysses Owens, Jr.(ウリセス・オーエンズ・ジュニア)の凄さに負うところが大きいが、ジョーイが冒頭で始めるオスティナートのグルーヴ感にも驚く。。
まず特筆すべきは、ドラムのオーエンズはジャズ・ラテンのセクションで、ラテンのオン・トップ・オブ・ザ・ビートではなく、サンバのビハインド・ザ・ビートを採用している。カウベルもラテン音楽の食いついてドライブするようなタイム感ではなく、すれすれのビハインド・ザ・ビートだ。それに対し、シムイリンスキーのベースは、ジャズ・ラテン系の曲でどのベース奏者も大抵そうであるように、困惑したようなオン・ザ・ビートのタイム感なのだが、スウィングビートに入れ替わった途端に驚くほどのオン・トップ・オブ・ザ・ビートでガンガンドライブする。実に気持ち良い。筆者としては、折角オーエンズがジャズ・ラテンのセクションでサンバのタイム感でやっているのだから、ベースはいっそうのことBaiãoにすればもっとグルーブするだろうに、と思ってしまった。パターン的には同じだからだ。しかしオーエンズは素晴らしい。彼のドラム・ソロは素晴らしいサンバで始まる。筆者がこの曲がお気に入りになった最大の理由がこのドラム・ソロだ。マイアミ出身の彼にとってはラテンの方が得意ではないのかと思うが、彼はこの曲をブラジル的タイム感で完璧にグルーヴさせることに成功している。しかもスウィング・ビートでの彼のハイハットはシムイリンスキーのドライブするベースと幅を保ち、気持ちがいい。
ジョーイの演奏
13歳の子供がこれだけの演奏をするからという理由で注目されている、という事実からジョーイを正当に評価しない意見もよく聞く。しかし、彼のこのアルバムのトラックを他のピアノトリオのアルバムとシャッフルして、ある意味目隠しテスト的に流した時、ジョーイのトラックから”未熟”などのような印象を受けるだろうか。この曲の録音時のスタジオ動画がYouTubeで簡単に見つかるが、それを観ないでまず音源だけで聴くことを強くお勧めする。筆者にとって、新しさがないから面白くないという印象はあっても、このアルバムは筆者が楽しめるだけの要素を充分備えている。
まず彼と彼のトリオのタイム感だ。バップ系ジャズの醍醐味である、演奏者間にできるタイムの幅を気持ち良くグルーヴさせている。彼のピアノ演奏のタイム感は、美味しいバップのオン・トップ・オブ・ザ・ビートとビハインド・ザ・ビートを使い分けているが、基本的にはビハインド・ザ・ビートだ。ここがチック・コリアと反対な部分で、チックのフレーズやヴォイシングが時々出るが、真似をしているというような嫌味がない。この彼のタイム感から聴こえるのは、彼は楽しんで演奏するだけの余裕があるということだ。マイケル・ブレッカーは公開レッスンで「常に7割のちからで演奏しなくてはいけない。決して100%で演奏してはいけない。そういう演奏は聴き苦しい」と言っていたが、ジョーイはしっかり7割で演奏している。だから楽しんで演奏しているのが伝わって来るのだ。
そして、前述したように彼の豊富なボキャブラリーだ。この<City Lights>の3分16秒あたりで登場する、レッド・ガーランド系のブロック・コードのフレーズは思いっきりビハインド・ザ・ビートでグルーヴに拍車をかける。
一つだけ気になってしかたがないのは、2分40秒あたりで弾くモントゥーノだ。このタイム感でこのパターンを弾くのだけは拒絶してしまった。モントゥーノのようなラテン文化の象徴パターンをラテンではありえないタイム感で演奏するのはとても違和感がある。しかしこのような浅い他文化理解は子供だからとかで起こることではない。ジャズ・ラテンの歴史自体ラテン系の方々に失礼をしている歴史なのだから。
曲の解説
曲の解説と言ってもそれほど特筆するものはない。ジャズ・ラテンのセクションはDマイナーの循環で、II-VではなくIVマイナーのGマイナーとVマイナーのAマイナーがターンアラウンドに使われており、V度もドミナントは使用されていない。つまりモードとしては珍しい、エオリアン・モードの曲としている。スウィングのパートは若干変わって、DマイナーとB♭6の繰り返しになるが、結局ジャズ・ラテンのセクションと同じD マイナーのエオリアン・モード一発だ。間奏にE♭メジャーとD♭メジャーを繰り返し、Dマイナーから浮上した雰囲気を作る。
興味深いのは、モードを利用したフレーズをほとんど弾いていないと言うことだ。これだけDマイナー一発に近い曲なら、誰でもモードを発展させたアウトを連発したくなるはずだが、なぜそれをやらないか。できないからやらないとは思えない。好きではないからやらないのであろうか。こればかりはわからない。現在ジュリアードに通い、ウィントンの下で学ぶジョーイ。これが彼の演奏に悪影響を及ぼしているのではないか、と、ひょっと思ってしまった。ジャズは進化しなくてはいけない、ということを理解しているだろうか。
心配である。
Miles Davis、マイルス・デイビス、Joey Alexander、Wynton Marsalis、Dan Chmielinski、Ulysses Owens、Jr.、ジョーイ・アレキサンダー、ウィントン・マルサリス、ダン・シムイリンスキー、ウリセス・オーエンズ・ジュニア