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CD/DVD DisksNo. 259

#1643 『Plastic Dogs / GROWL』

text by Yoshiaki onnyk Kinno 金野onnyk吉晃

ORDER TONE MUSIC / R-records RRCD-012 紙製ジャケット仕様

Plastic Dogs (プラスチック・ドッグス)
小埜涼子(おのりょうこ) (as)
武藤祐志(むとうゆうじ) (g)
林 剛史(はやしつよし) (g)
上ヱ地宏太(うえじこうた) (ds)

1. OXO
2. DELVAUX
3. BLOOD SUGER
4. RUNE
5. AUGLYDIAN PENTADIMINATE
6. SUPERNOVA
7. ZODIAC
8. GESPENST
9. ZHANGUITT
10. HUMMING
11. FIONA

All songs composed by Ono Ryoko
Mixing by Ono Ryoko, Yoshida Tatsuya
Mastering by Yoshida Tastuya
Cover Design by Ono Ryoko


「ミネルヴァのコウモリはいつ飛び立つか」

私は数年前まで、地元のあるメタルバンドをよく聴いていた。まだ彼らは活動継続しているが、最近はあまり積極的に聴きにいかない。
自分でもどうしてだろうと思っていたが、このプラスティック・ドッグズ(張り子の虎や、「トイ・ストーリー」のキャラを思い出す名前だが)を聴いて次第にその理由が見えて来たように思う。
私の贔屓だったバンドは5人編成で、ボーカル、2人のギター、ベース、ドラムとなっている。
プラスティック・ドッグズはベースがクレジットされていないが、それなりの低音部は聞こえる。2人のギタリストが役割を分担しているのだろう。
もし比較してみるなら、ボーカルの代わりにサックスがいると言ってもいいだろう。私はプラスティック・ドッグズをメタルバンドとして認識してしまいそうだ。しかしこれは一種の錯誤だ。メタルバンドの核はボーカルであり、演奏ではない。ボーカルは歌手であり、確定した歌詞を歌い上げ、ときに演奏メンバーはリフレインをコーラスもする。持論だが、ロック、メタルはまず歌を持つべきであり、それを歌うボーカルは、バンドと対等以上の力を、あるいはオーラを持っていなければならない。だからプラスティック・ドッグズは、まず歌手がいないという意味でロックバンド、メタルバンドではないし、歌手の不在をサックスが補う、補っていないというような視点は排すべきだ。それでも、このバンドに「歌の無いメタル」という認識(錯誤)は、持論との矛盾を起こし、なんとも居心地が悪くなる。
そんなのはお前の勝手だと言われればそれまでだが、聴けば聴くほどプラスティック・ドッグズは、地元メタルバンドの演奏様式を思い起こさせる。
私がメタルバンドを好きになった経緯を思い出すと、クラシックなハードロック・ファンを自認している私は、メタルなんてという偏見を持ったまま、知人の誘いで聴く事になった。そして不覚にも感動したのだ。気がつけば最前列で拳を振り上げ叫んでいた。50過ぎてこんなことになるとは自分でも思わなかったし、それでも何か久々に燃え上がるものを感じて嬉しかった。そして彼らの演奏を何度も聴いた。
激しく、強く、速く、重く、大音量で、無調で複雑な半音階のパッセージをきっちりと、全員でユニゾンし(ブラクストンは「最高のアンサンブルはユニゾンだ」と言った)、各声部がほぼ同じテンポで進み、ときにブレイク、ブリッジの瞬間に早弾きなどテクニックが煌めく。ツインギターはバトルを繰り返し、ツインペダルのキックドラムは削岩機のようだ。破壊的に見えて実は構築的で、圧倒的な威圧感を演出する。しかしこれはマニエリズム、すなわち様式美であり、一回のギグが終わるまでに、予測しやすい展開に馴染んでしまう自分の耳を発見する。
と、ここまで書けば、そのままプラスティック・ドッグズの演奏の印象とそう変わりないように思う。そこで再びボーカル/歌の存在が問題だ。
メタルの歌詞は好戦的、凶悪な、残忍な、危機感を歌い上げ、さながらゴシックロマン、あるいは「マッド・マックス」的世界観、ある種の部族主義を欲している。ボーカルが前面に出てくると、そこに儀式と物語が出現する。
もし演奏だけなら、私がよく使う「めくるめく単調さ」(ハードなフュージョンなどに見られる)というのに堕してしまいかねないところを、歌の存在が救っているのだ。
歌手の居ないプラスティック・ドッグズはどうだろうか。ボーカルの代わりにサックスをという事ではない。サックスが確かに特別な位置を得ている瞬間は多々ある。また他のメンバーも一部肉声を聴かせる。これは吉田達也的ジャーゴンだろうか。ただ、その効果は疑問であるが。
私がプラスティック・ドッグズを聴いてどこか落ち着かないのは、そこだろう。つまりメタルとして感じようとするチャンネルに入らず、「めくるめく単調さ」のインスト・バンドとしてはあまりにもメタリックだ。感性のチャンネルを通らない以上、あくまで表面的に、そこにある音を徹底して聴くしか無い。このコウモリ的存在が持続的活動を続けるだろうか。
歌詞の代わりとなるのは曲のタイトルだろうか。『GROWL』所収の曲名群も、いかにもメタル系バンドの好みそうなものだし、ジャケットアートも死と破壊と不安を演出するかのようだし、ロゴデザインもそうだ。ここに彼らのゴシックメタル志向がもろに見えている。

言葉が無い、歌が無いロックは決して皆無ではない。私はかつてジャーマン・プログレ、ジャーマン・エレクトロ系の大ファンであったが、彼らの多くはボーカルが居なかった。ただ、歌の無い分、当時の新奇な電子音に長けていたのである。あるいはロックが長時間の楽曲、あるいは即興演奏を可能にした頃、フロントの演奏者はボーカリストに匹敵する、またはそれ以上の表現力、テクニックを披露した。クリームやグレイトフル・デッドを、また端的にはジミヘンの〈星条旗よ、永遠なれ〉を思い出しても良い。
ちなみにラスト・エグジット(B.ラズウェル、S.シャーロック、P.ブレッツマン、R.シャノン=ジャクソン)はサウンドが激しく、強く、速く、重く、大音量で、無調でありながらフリージャズの系列にあるのは疑いない。
あるいは、特筆すべきだろうが、キング・クリムゾンはその出発点、69年から、圧倒的なテクニックを誇っていたし、現在でさえも彼らを越えるだけのテクニックと構築性を得、しかも継続しているバンドはほとんどない。70年代初頭のクリムゾンの演奏(特に最近発表される度にファンを泣かせるライブ音源だが)のほうが、遥かにジャズ的な響きがある。メル・コリンズ、イアン・マクドナルドらサックスが咆哮するとき、クリムゾンは時代の先を走っていた。

繰り返しになるが、このバンド、プラスティック・ドッグズは「言葉の無いメタル」ではない。しかしこのコウモリ、黄昏の世界に飛び立つだろうか。ならばコウモリではなくフクロウになってくれたらと思うのは私だけだろうか。

*録音レヴュー(及川公生)
https://jazztokyo.org/reviews/kimio-oikawa-reviews/post-45697

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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