#2161 『キット・ダウンズ/ヴァーミリオン』
『Kit Downes / Vermillion』
text by Takashi Tannaka 淡中隆史
2022 ECM
Kit Downes ℗
Petter Eldh (double-b)
James Maddren (ds)
01. Minus Monks
02. Sister, Sister
03. Seceda
04. Plus Puls
05. Rolling Thunder
06. Sandilands
07. Waders
08. Class Fails
09.Bobbl’s Song
10.Math Amager
11.Castles Made of Sand
Recorded May, June 2021 at Auditorio Stelio Molo RSI, Lugano
Engineer: Stefano Amerio
Produced by Manfred Eicher
キット・ダウンズ(p)がペッター・エルド(b)、ジェームス・マッドレン(ds)と共にジャズ・ピアノ・トリオのフォーマット、マンフレート・アイヒャーのプロデュースで制作したECMのアルバム。
ダウンズとECMとの関わりは2013年ジャンゴ・ベイツのアンサンブルにさかのぼり、過去に2015年以来の3作がある。
『Time is a Blind Guide』Thomas Strønen(2015 ECM 2467)
『Obsidian』Kit Downes(2018 ECM 2559)
『Dreamlife of Debris』 Kit Downes (2019 ECM 2632)
『Time is a Blind Guide』はノルウェイのドラマー、パーカッショニストであるトマス・ストレーネンのリーダー作で、ダウンズはピアニストとして参加。続く2作は自身のものだ。『Obsidian』はオルガンのみのソロ、『Dreamlife of Debris』はリーダーアルバムでピアノとオルガンを演奏している。
ジャズとバロック音楽とは即興を共有し、オルガニストのダウンズは双方に軸足をおいている。
ダウンズが奏でるのはジャズでよく使われるハモンドオルガンではなく、ヨーロッパ起源のパイプオルガン。さらに、イギリスには教会オルガンと異なる世俗の楽器として独自の鍵盤音楽がある。小型のチェンバー・オルガンや、可動式でペダルのない「ポシティブ」が発達した。これはイタリア由来で、エリザベス期に大きなブームを起こした小型キーボード「ヴァージナル」にもあてはまる。長くヨーロッパからの音楽消費地であり続けたイギリスゆえの不思議な個性だ。
ブクステフーデやバッハの時代、教会付の作曲家はオルガニストでもあり即興演奏を競った。現在の耳でバロック音楽を聴くとポリフォニーのなかに即興をさがして驚き、同時に、通奏低音(バッソ・コンティヌオ)のうつろいを楽しむことができる。まるで20世紀ジャズのソロ楽器とベースの関係を予見しているようだ。21世紀になると若い古楽、バロック音楽の演奏家たちからは逆にジャズ的な即興を感じることになった。
ダウンズはオルガンソロによる『Obsidian』(黒曜石)で「サフォーク地方の小さな室内オルガン」や「ロンドンの教会の大オルガン」を使い分けて楽器のユニークネスを様々な奏法で表現した。20世紀の作曲家でオルガンの即興演奏家でもあったオリヴィエ・メシアンにも通じている。
他方、『Dreamlife of Debris』は5人のアンサンブルで「セミスコア(ヘッドアレンジ)とインプロビゼーションを組み合わせた」自在な構造をもつ。
聴こえてくるのは北の響き、北欧との親和性。まるでジャズの欠片も存在しないような端正な音楽だ。でも、耳を澄ますとヨーロッパの音の地金がひびき、キーボード音楽のルーツにある即興性がジャズに美しく投影していることがわかる。
屈指の音楽環境で育ったプロデューサーのサン・チョン(Sun Chung)がそれを見のがすことはなかった。
ダウンズはECM以前にBasho Records(奇妙なレーベルマークから察するに「芭蕉レコード」、「場所レコード」かもしれない)を中心にいくつかのリーダー、グループ作がある。
『Golden』(2010 Basho Records)
『Quiet Tiger』(2011 Basho Records)
などで、20代前半にしてすでに現在につながるスタイルができあがっている。1970年代のエッジーなジャズピアニストたちからの影響がある。さらに変拍子の多用、チェロを使ったアレンジ、パイプオルガンと構造的に同族のサックスやバス・クラリネットなど、木管楽器への偏愛もきこえる。10年近くを経て『Dreamlife of Debris』に通じるエレメントの全てがあるのだ。
2018年9、10月にダウンズは単身で来日。
下北沢「Apollo」、新宿「Pit Inn」、湯河原ジャズフェスティバル、荻窪「ベルベットサン」、浦和「柏谷楽器フォーラムホール」などでピーター・エヴァンス(tp)、西口明宏(sax)、巻上公一(voc、テルミン)、坂田明(sax)、服部正嗣(ds)、ポーラ・レイ・ギブソン(voc)など多彩でユニークな音楽家たちとの交流を持った。
新作『Vermillion』(2022 ECM 2721)ではマンフレート・アイヒャーが初めてダウンズをプロデュース。
2021年5、6月のスイスのイタリア語圏ルガーノのオーディトリオでのレコーディング、エンジニアはステファノ・アメリオだ。ルガーノはアイヒャーとアメリオがマルチン・ヴァシレフスキ『Faithful』(2010)、シャイ・マエストロ『The Dream Thief』(2018)でピアノトリオの録音を行った切り札的な環境。暖かい空気感をもつホールトーンにECM独特のリバーブが加わると「ルガーノ・サウンド」の世界があらわれる。ストイックな音はまるで淡い「朱色」のような南の色彩感をまとう。
ECMの過去作品としてはシンプルでアコースティックな音に、なぜかジョン・テイラーの『Rosslyn』(2003 ECM 1751)を想わせるものがある。
2人のメンバーはスウェーデンのベーシスト、ペッター・エルドとイギリスのドラマー、ジェームズ・マドレン。3人は英国のもうひとつの「伝統」のパンクロック的なトリオEnemy (エネミー 2018〜)が持つ攻撃性から出発して対極の静謐に至った。ジミ・ヘンドリックスの <Castles Made of Sand> (砂の城)をのぞく10曲はダウンズとペッター・エルド作。たくわえてきた曲、アイヒャーのサジェッションを受けてレコーディングの中で作られた曲とで構成されるのもECM的だ。
ダウンズの音楽の印象をかたちづくるのはシンプルな旋律と構造そのものの組み合わせ。だから一聴してもつかみどころはない。しかし彼は、「難しい音楽を自然に聞こえさせる不思議な能力」を持っている(ガーディアン)。
聴き手は不思議な背景から生まれでた音のしくみを見つけることができるはずだ。