#2263 『八木美知依 & 藤倉 大/「微美 (Bibi)』
Idiolect / JAZZland recordings IDJL-001 税込 ¥2,750
text by Yoshiaki Onnyk Kinno. 金野ONNYK吉晃
八木美知依 (acoustic & electric 21- and 17-string kotos, 13-string koto, electronics)
藤倉大 (synthesizer, electronics)
1.初雪 (First Snow)
2.朧 (Haze)
3.漆 (Lacquer)
4.聖 (Holy)
5.歪 (Distortion)
6.木霊 (Tree Spirit)
7.微美 (Subtly Beautiful)
8.五夜 (Five Nights)
9.紅 (Deep Red)
10.蓮 (Lotus)
11.芭蕉 (Bashō)
12.霞 (Mist)
13.雪解 (Thaw)
私が良く通る道筋に気になる看板が出ている。「おとこ教室」だと?何、と思って見直すと「おこと教室」なのだ。初めて見誤ったのはもう何十年か前なのだが、その看板を見る度に、どうしても「おとこ教室」を思ってニヤリとする。それはさておき、なんで「おこと」だけ平仮名で書いたのだろう。「お琴」で良かった筈だろうに。昔は女性の嗜みのなかに琴を奏するというのはあったわけで、「うちのはお琴を少々習っております」なんて良家の奥様が娘を紹介したり、その名残りだろうか。
しかし、日本で琴を習える場所はない!町なかに看板をあげる教室などない!我々が琴と呼んでいる楽器は「箏」であり、琴ではないのだ。
琴と箏の違いは明瞭で、弦を抑える位置で音程が変るのが琴、可動式の柱(じ)で弦の音程を予め調律しておくのが箏である。この二種の混乱はかなり早くから始まったと思われる。琴は後に楽器全体を表す代名詞となったからだろう(ピアノを洋琴、バイオリンは提琴、その他諸々)。
埴輪のなかに膝の上で琴状の楽器を奏しているものがある。これはまさに琴であり柱が無く、共鳴胴もなく、基盤は板状である。おそらくこれは後の和琴(わごん)に発達した原型と言われる。和琴は現存するが、神社の儀礼用で、専門の奏者は居ない。またアイヌのトンコリはこの琴系統に属するものとして有名で、近年アイヌ文化の顕彰とともに演奏者が増えている。舟状ツィターと分類される楽器がアフリカにもあり、ブルンジ共和国の部族音楽で聴くことが出来る。
いずれ、我々がよく耳にするのは琴ではなく、奈良時代あたりに大陸から渡来した箏の子孫なのだ。
そして日本ではこの箏の音楽は非常に発達したといえる。それは良い材質の木、多くは桐があり、絹糸の弦も調達しやすかったこともあろう。箏の音楽は地歌との共演や、器楽曲としては三曲様式(胡弓または三味線、尺八と箏)で発達した。声楽から器楽へ複雑化、技巧化が進むのはあらゆる音楽に共通している。
本誌Jazz Tokyo掲載中の拙稿「邦楽のパースペクティヴ」でも前編では天才箏演奏家、作曲家の宮城道雄について触れ、次号後編では盛岡の箏演奏集団について記す予定だ。
さて、箏の原型はツィターともいわれ、古代ギリシャのキタラもその由来と言われるが、日本に琴として渡来したのは埴輪に見られることから、すでに弥生時代あたりだろう。箏が渡来したのは奈良時代と言われる。少なくとも千三百年前のことだ。
さて、このCD『微美』のうたい文句は、「数千年も離れて生まれた二つの楽器が奏でる不朽のサウンド」。
確かに箏とシンセサイザーの、現実ではないサイバー空間での出会いである。この音楽は何万キロも離れた二人が、音声ファイルを交換しながら制作した。つまりこのアルバムはウィルス禍という事態と、ネット世界が生み出した産物だ。
その響きは、現代社会と同じく、いや人類の歴史と同じく、調性とノイズのせめぎ合いである。素直に受け入れよう。戦争の無い時代は無いし、平和とは戦争の準備期間である。氷河期と間氷期のように。
ちなみに私の良く歩く通りには「和音」の教室もある。「ワオン」ではなくて「かずね」と読む。これは小型化された箏で、大体半分以下である。箏が大きくて持ち歩きにくいということで開発されたらしい。
それを言えば、世界を股にかける箏奏者達は大変苦労されているだろう。コントラバス奏者達は、お互い貸し借りしているが、箏はそうはいかないだろう。ましてや17絃だの21絃という特殊な箏では。
箏に限らず、邦楽器、あるいは伝統楽器は環境変化にも弱い。皮が割けたり、胴が割れたりという話は聞く。楽器は音楽と一体であり、文化、環境とも一体なのだ。とすればこのネット社会における伝統楽器、伝統音楽の響きはグローバルな、電子的なものであり、その環境は日々変動している。伝統とは常に変革されるものなのだ。