#2272 『Margaux Oswald and Jesper Zeuthen/Magnetite 』
『マルゴー・オズワルド&イェスパー・ツォイテン/マグネタイト』
*このディスク・レビューでは、1枚のデュオ・アルバムに関するテキストを、part 1: 岡崎凛・part 2: 原智広の2名で担当します。この形での寄稿はこれが3回目となります。
Clean Feed CF640CD(2023年6月リリース)
Margaux Oswald (マルゴー・オズワルド) – grand piano
Jesper Zeuthen (イェスパー・ツォイテン) – alto saxophone1
1. Warble 29:49
2. Cheep 8:08
3. Chirp 4:25
All music by Margaux Oswald and Jesper Zeuthen
Recorded June 26th 2022 live in Koncertkirken , Copenhagen by Mads Kiilerich
Mixed and mastered by Mads Kiilerich
Produced by Margaux Oswald and Jesper Zeuthen
Executive production by Pedro Costa for Trem Azul
Design by Travassos
Cover drawing by Jesper Zeuthen
part 1. text: 岡崎凛 Ring Okazaki
アルバム・タイトルの『Magnetite』とは磁鉄鉱を意味するのだという。一方収録曲のタイトルは、3曲とも鳥の鳴き声を表す言葉ばかり。そしてアルバム・ジャケットの絵は、本作のサックス奏者イェスパー・ツォイテンが描いたという鳥の絵である。磁鉄鉱という鉱石を調べて現れる画像を見ると、当然ながら、ずっしりと重く硬そうだ。時にはメタリックであったり、ごつごつしていたりする。その一方で軽やかに飛ぶ小鳥の姿がアルバム・ジャケットに描かれている。
30分近い1曲目の〈Warble〉の冒頭、イェスパー・ツォイテンのサックスを聴きながらジャケット絵を眺め、小鳥が舞い飛び、遭遇する風景をぼんやり想像していると、地響きのようなピアノの音が聴こえてくる。マルゴー・オズワルドの低い唸り声のような、あの音だ。ファースト・ソロアルバムでも印象的だった彼女の描くダークな世界にまた出会う。何かがスパイラルを描いて急降下するようだ。ジャケット絵1枚で、これほど物語を広げられるものかと思うぐらい、飛ぶ鳥の姿が聴き手の想像力を広げていくが、これはただ自分だけの体験だろうか。果たしてピアニストとサックス奏者は、この日の演目のために、「鳥」というテーマを共有していたのだろうか。さらに、アルバムに「磁鉄鉱」というタイトルをつけたのは、何かしら意図があるのか。または単なる思い付きだろうか。
このような謎は謎のまま、答がないままに心に留め置けばよさそうだ。アルバムを聴き終わってからも、時には荒れ狂う世界に入り込む2人の演奏を回想し、ぐらぐらとしたその感覚を反芻した。1曲目、荒天が去ったあとの清々しさが描かれるようだ、と書けば、妙にすっきりしたデュオ演奏を想像しそうだが、そうではない。一見書き散らかしたスケッチのようなものが、じわじわと凄みを増してくる。驚くほど緻密な表現が随所に現れる。決まった規則性はなく、揺らぎ、上昇し、下降する。全てはその場で生まれたものばかりで、2人のやりとりは時おり濃厚になったり、輝くようなソロへと発展したりする。
イェスパー・ツォイテンのアルトサックスは、少しざらついた音色を交え、時には激しさを増すが、全般にやや穏やかだ。一方ピアニストのオズワルドは、ときに怒涛のような勢いとなる。平凡な言い方になるが、ツォイテンには枯れた味わいがあり、オズワルドには弾ける活力が満ちる。年齢差コンビの分かりやすい特徴ではあるが、ツォイテンはしっかりした芯のある音の持ち主でもあることを補足しておきたい。若いオズワルドは迫力があるだけでなく、前作よりもさらにデリケートな表現力を高めている。
2人の略歴について、マルゴー・オズワルドについては、以前の紹介にも書いた通り、スイス生まれのフィリピン系フランス人、コペンハーゲン在住。
イェスパー・ツォイテンは1970年ごろデンマークの伝説的なジャズロック・バンドに在籍し、長くデンマークのアヴァンギャルド・ジャズと関わりの深い人物。現在も先鋭的なジャズ・トリオを率いている。
part 2. text: 原智広 Tomohiro Hara
「秘密の伝心、そして、その果ての手引書」
この『Magnetite』で、着目すべきはジャケットの絵にもなっている「鳥」である、そして、「鳥」の言語の翻訳及び表現についてである。最近のAI技術の発展で「鳥」の言語の翻訳が可能になったとちらっと耳にしたが、私はそれには関心がない。技術は予感や閃き、表現にはまるで追いつかない、それらのほうが遥かに早い、少なくとも100年先の未来を飛び越える。優れた表現というのはそういうものだと私は思っている。ちょうどこの原稿を書く前に、「イリュミナシオン」という我々がやっている、雑誌の編集部の会議で「鳥」の言語の翻訳についての話になったそうだ。私は久しぶりに地上の物凄い重圧に押しつぶされて、1週間もベッドから起き上がることが出来ずに欠席してしまった。そして、丁度、2,3日前に、私が尊敬している、写真家、フィルムメイカーの金村修さん(osamu kanemura)が、「Bird Talk」という本を題材にコラージュや多種多様な図面、自分の写真を題材に「鳥」の言語の翻訳という表現をしていたことを知った。そして、マルゴー・オズワルドから便りを頂き(以前、Jazz Tokyoに寄稿した原稿を誰かが翻訳し、読んで頂いたようだ、奇妙なこともあるものだ。いずれにせよ、ありがたい。)、幾つかの偶然を辿り、いま、この原稿を書いている。
私がこのアルバムのジャケットを見て、曲を聴いて、真っ先に思い浮かんだのは、聖フランチェスコのことだった。彼は鳥と会話することが出来たし、鳥に説教をしたという有名なエピソードだけでなく、ウサギ、水鳥、魚などと会話することも出来た。彼は文字が書けなかったと言われている。(諸説あるが、聖フランチェスコは簡単なラテン語だったら書けたとも言われているが、彼は文字が書けなかったと思う。)考えるまでもない。当たり前のことだ、聖フランチェスコに書くことが必要なわけがない、それは彼の仕事ではない。私も「鳥」ではないが、いろいろな連中と会話するのに忙しい。無論、人間など下劣な種族のことではないし、分裂病患者と一緒にされては堪らない、私はこの世の誰よりも正気だ。私も人間ではない得体の知れない何者かの翻訳を試みているのだが、この話は置いておこう。
マルゴー・オズワルドのピアノの重圧さ(この世のありとあらゆるものにのしかかる重力)そして、イェスパー・ツォイテンのアナロジカルに対比させたピアノとサックスの作品構造は、不可思議な奇妙さと得体の知れないものに触れてしまうと同時に「ある空間」においていかれてしまった妄想を喚起させる。わたしは目を開ける、また、わたしは目を閉じる。時は動かない。止まったままだ。こういった才能のぶつかり合いが音のうちに我々を奥深くで彷徨させ、音が消え去ってしまわないように、耳の内部で反響させ、さざ波のようにそのままにしておく(世界の終わりを想像しながら、世界の崩壊の音を耳にしながら、太陽と月がすべての天体と共に完全に停止するように)、この類まれな『Magnetite』という実験作がこの音楽の愉しみ方のひとつだと私には思われた。「鳥」の声の翻訳を自分の隠れ家としたほうが良いことを、我々は当然のように知っている、そして、それらがその翻訳を超えているとすれば、この小さなまがい物の世界に幽閉されている人々について、私は喋る術をもたない、なにも聞くこともないし、問いかけることもない、すべては明らかだ。清らかに煌めく断絶音、本来の「現実」では知性の働きは無論のことないので、無言であるから、それ故に自然本性を超えて知っているから、ある意味で『Magnetite』はこの世の音すべてを浄化する作用を持つ、その使命を授かったものたちは、あらゆる付与を超えているものを付与し、よく類似しているものから仮定的に肯定を付与し、地上に介在することなく、まさにここにある「現実」、分割もなく欠如もなく流転もなく類似性もなく不類似性もなく永遠もなく時間もなく一者でも一性でも霊でもなく偽でも真でもなく、そう、一切の「存在」から遠ざかっているものをより明瞭にするために、自らを生贄にし抹殺する必要があるからだ。(感性界と物質界の区別というプラトン的概念の枠組みから飛び越えようじゃないか、ディオニュソスも多用していた?)そう、まさに、あらゆるものから絶対的に隔絶して我々が認識していると錯覚している一切のものから『Magnetite』は保護するために産まれたのだ。数知れぬ大きな不可思議な業を背負い、すべてを聞いて、吟味して、マルゴー、あなたと共にいて、驚愕した私に対して。どこから聞いたか分かりませんが、この現象を解釈するかのようにあなたは告げました。「Magnetite(磁鉄鉱)というのは、私の業の返答なのか。」語りがたい特性、音色でありながらも愛情を示すこと、あなたは私が惨めな境遇にあると想像していませんか?違います。わたしは望んでこの道を選び、そして、あなたもその道を選択し、偶然にも交錯した。言うまでもなく秘密の儀式に参与したから、あなたの質問に幾つか応答しましょう。あなたが考えていることは決して「避けられない」ということ「逃れられない」ということ、時に容赦なく非難を浴び、時に不意の出逢いによって救われる、それが知ったとしてもどうしようもないんですが。楽曲が0になって、あまりにもシニカルに、このお告げを受け入れるのは耐え難いが、精神はないのだからそれは容易でしょう、無数の音を集結させて、奏で、指先は震えながらピアノを弾き、かつて知っていたような気がする多くの死者たちが眠るまで、あなたは音楽をやり続けることになる。悲しい悲しくない早い遅い何も欲しくない何も与えたくない、ええ、あなた、やりたくない?朝ね、昼ね、夜ね、ああ、鳥たち、おはよう、こんにちは、さようなら、サックスとピアノの歯ぎしり、秘儀の余波に浸っていると、また今日も変わらず意識を失い雑音に吸い込まれそうになる、まもなく、本当にまもなく、3番目の耳が開き、あなたは平和を願うだろう、その平和はすぐさま裏切られるだろう、戦場であってもあなたのピアノはずっと変わらず奏でられている、透明な青みがかった磁鉄鉱というのは、我々が知覚する七番目の天国に位置し、それは同時に地獄でもあるのだから、その動力は天体の音楽の法則にしたがって動いている。なんだって?何故だか急に寒くなった、気温は218度を超えているというのに、摂氏マイナス55度にたちまちに、途方もない明るさの中で、かすれていて、目を擦ると、海があった時代に戻る、そして、鳥たちが見える、「まぼろしだ!」エウノミオスどもやアポリナリスどもの異端を演奏法による綿密な論議で攻撃し反芻した、偉大な神学者にも同じ嫌疑を投げかけたいのでしょうか? 大地と日輪と、我々を咎め、告発するのならば、秘儀に関することだと断言させるを得ない、銅を含むもの、卑金属で満たされていることが分かりそうな、膿を拭うように汲んだのではなく、その流れ出る光を愛し、一切の悪から遠ざけたのだ、つまり推論法のこと、存在しないという線のこと、金剛石のように固いか無感覚な韻律が必要であるという調べ、知性を超えるものを見出すこと、怒りの音色が形成されるのを呆然と見つめながら、ただ立ち尽くし、このような侮辱に耐える必要なんぞない。すべてを俯瞰し、存在を否定し、どこにもないこととは異なる、きわめて異質な、推論から高尚な教義を自然学的考察の端緒なのだから、実体の原理を認めないものはあらゆる表現を感じとることが出来ないものである、と同時に自らが見解を別にし、手段や方策が異なる人々に対して、そんなことは止めろなどと言って嘲笑することをするのだから。軽慢であってはならない。不敏を鑑みず。一切の別解、別行、異学、異見等というのは、これある方程式(別次元たるもの)の生と死の往来を決定し、またこの中に見通しを指すもの。人の心や感覚や知識も空白であることよ。この世の様々な事象は定まったものではなく、すべて空白から由来し、派生する。我々はまるで一卵性双生児として誕生しているようである。それが途轍もなくおこがましい。我々が共通認識として持っているもの、即ち、往来のみちを存知し、何らかの意識媒体を通して、願わくばかなわんと縋ることこそ、おほきなる誤りでありて、往来の要を、つまり絶対的な他者、一個の他者、無碍論性なるゆえに。天空の帯たるもの、「たちまちのうちに私は魂の中で燃え上がるものを感じた。それは私をして、人々の愛たるものへと駆り立てた。それがあなたの音楽だ。異教に没せよと何らかのものが語りかけるが、あらゆる望みを遠ざけよと、これは恥ずべき行為で、異口同音、私が囚われの身になったことを認めることが耐え難えが故に、本来の自己へと回帰せよと?反歴史論、非合理性に真っ向から反対し、神話は規律を準ぜよとわれわれに命じることを強要せしむこと、ホメロスとへジオドスが命ずることを拒絶したのだから。馬鹿げたものどもへの批判に屈するなどということはあり得ない。ヴィヴィッドでオペレイティブな「体験的音楽」「実験的音楽」を生き生きとした形で行為化、具体化しようという志向を私は称賛する。この多義性がある意味ではカオス的状況をうかがい知ることが出来る。空白から音楽的出発をしているということなのだから。変容に変容を重ねるというイェスパー・ツォイテンのサックスという音の反世界を創出しながら、決して実験音楽、ジャズというソリッドに落ちることなく、高度化されたエクステンショナブルな空間を生み出している。「またやろう。」「何を?」「音楽を。」「何故?」「お前が書くことを誰かが望むから。そしてあなたが作品を作り続けるから。」「誰かってなに?」「あの得体のしれないものたち」「それってお前?」「さあね。」「また死んだ?」「少しづつ消えていくんだよね。自分の中の感情がまるっきり抑えられないから、毎日、毎日、少しづつ殺されていく様を呆然と眺めるだけ。」「干渉出来ない?」「全くもって。」”Où ?” “Aller au cimetière.” “Cimetière ? Pourquoi ?” “Es-tu fou ? ?” “Allez. Ne serait-ce pas plus facile si tu étais fou ?” La silhouette grise annonça : “Tu ne seras jamais sauvé.” “Vraiment ? Je le sais.” … Est-ce qu’il est trop tard maintenant ? もうすぐ午前4時、もうそろそろだ、眠らなくてはならないのだろうか、いいえ、在るそこに在る、何もないのは分かっている、ピアノを突き刺して、阿片をお供えして必死の想いで祈った、ええ、自分の信じていること決して疑わぬことを申しているのでありましてしかしなんぴとといえどこれを否定はできますまい否定できるとするならばそれはこの世のものではございませんな、ええ、さて、一心不乱に時間は少ない何も予期せずしかしゆっくりと浸透していくこの様を礼拝を捧げ神秘的な広がりを持つ? まさしくこの書物(バベル)は象形文字もしくは強迫観念、パラノイア疾患、白い紙に白い文字で装飾される字を見えない目で見るから最初もなく最後もないいかなる数でもありえることを証明し指の触覚でなぞると神経伝達物質、色もなく形もなくこれが仮に連続性を伴ったものならばいかなる地点にも存在し得る、蝕知できないものを血へと変える、既にもう私は「存在する可能性」を奪われてしまっていることは明らかなことから、筋道なく実在を懐疑し絶えず感じるこの等しさと0と1の2乗法の連続性からなる不吉な渦巻きの中を彷徨する、情念、不可思議、愛と否定、恨み、侮蔑、混ざり合う、未知の声が響き、一個の生の集合的な混乱と狂気に取り憑かれていく様を眺めて、この緩慢で空虚な時間の中でたまさかに理性をそなえた声と本物の音楽が聞こえる。まだ狂っちゃあるまいな! すべては私たちで、私たちはすべてだ!
躍り手や歌い手たちはその群れに巻き込まれる、レコーディングするように誘われて、『Magnetite』の不協和音に私も参加することになった。その招待状は拒否出来ない。悲鳴であったり、しゃっくりであったり、鳥の鳴き声であったり、このジャンルに分けられない得体の知れない音の翻訳、これが突然の異化だということを、マルゴー、誰よりもあなたが知っておいででしょうから。
最後に:
<原智広、岡崎凛による共同レビューについて>
これまで2回、1枚のアルバムに関するテキストを原智広と岡崎凛の2名で担当してレビューし、発表しています。原氏には、音楽レビューという枠を大きく超えたものを書いてもらい、一方岡崎は、ミュージシャンのデータに関する情報を盛り込んだものを書く、という形で、この共同レビューを進めてきました。
<原智広のプロフィール及び近況など>
原氏のプロフィールについては、第1回の「Benoît Delbecq(ブノワ・デルベック)の文体による調律法」にある通りです。
https://jazztokyo.org/reviews/cd-dvd-review/post-78152/
2023年10月末現在の近況とお知らせ:
映画「ディストピア・サヴィア・ケース」制作中。出資者募集中。原智広
https://twitter.com/dystopiax2019