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CD/DVD DisksNo. 311

#2304『Chris Pitsiokos / Irrational Rhythms and Shifting Poles』
『クリス・ピッツィオコス / 無理数リズムとシフトする極性』

text by 剛田武 Takeshi Goda

10inch LP/Digital : ELEATIC RECORDS

Chris Pitsiokos : Alto Saxophone

1. Nebula
2. Air
3. 172

All music written, recorded, and mixed by Chris Pitsiokos in Winter, Spring, and Summer of 2023

Digital master by Lasse Marhaug
Vinyl mastered and cut by Paul Gold at Salt Mastering

Thank you Carina Khorkhordina, David Walker, Tizia Zimmermann, Markus Krispel, Adam Pultz-Melbye, Julien Desprez, Axel Dörner and Katharina Huber

http://www.chrispitsiokos.com/

“マッドサクソフォニスト”クリス・ピッツィオコスによるサックス+電子音響の進化形

サックスのパーカッシヴなタンギング音が前後左右に飛び回る。カモメかサイレンを思わせる甲高いサックスの悲鳴が響く中、浮遊するホワイトノイズが四方八方から押し寄せる。グリッチノイズや不良CDの音飛びのような断続的なパルスが聴覚を攪乱し、知らないうちにマッドサイエンティストによる人体実験の被験者にされてしまったのではないか、という不安が頭をよぎる。それも束の間、音の波動に身を任せているうちに徐々に今まで経験したことのない異次元の聴覚体験による甘美なカタルシスの快感に溺れていく。

『Irrational Rhythms and Shifting Poles(無理数リズムとシフトする極性)』は前衛サックス奏者クリス・ピッツィオコスが2022年1月から自らの芸術活動の中心として取り組んでいる4チャンネルのエレクトロニクスとサクソフォンによるプロジェクト。タイトルが示唆するように、無理数(irrational number)によって生成されるリズムと、相反する極性(polarity)のオーディオ信号を別々のスピーカーで再生する、という2つのアイデアからなるコンセプト作品である。聞きなれない学術用語が飛び出すのが学究派のクリス・ピッツィオコスらしい。

無理数(むりすう、 英: irrational number)とは、有理数ではない実数、つまり整数の比(英: ratio)(分数)で表すことのできない実数のことである。例えば円周率や平方数を除く平方根、小数部分が循環しない無限小数で表される数など。
極性(きょくせい、英語: polarity)は、一般に、特定の方向に沿ってその両極端に相対応する異なった性質を持つことを指す。物理学及び化学の用語としては、原子間の結合や分子内で正負の電荷に偏りがあること。
(Wikipediaより)

コンピューターアプリのパッチで制作したシーケンサーで4つのスピーカーそれぞれから出る音と極性を無理数でコントロールすることにより、予測不能なリズムが生まれる。また、同じ音を2つのスピーカーから出し、片方の極性を反転させ、もう片方は元の極性のままにすると、奇妙なフィルター効果が生じ、例えば、スピーカーが置かれている場所よりも離れたところから音が聞こえてくるといった、音響的なイリュージョンを生み出す。つまり、無理数によって生成されるリズムに従って、サクソフォンの音の信号の極性と奥行き感を、時には急速に、時にはゆっくりと変化させる、というのが技術的なコンセプトである。もちろんコンセプト先行の無味乾燥な実験に陥ることなく、詩情と美学に満ちた音楽作品に仕上げられていることは冒頭に書いたとおり。ピッツィオコスがサックス奏者として追求し続けてきた即興演奏の極意はそのままに、エレクトロニカ/ノイズミュージックの覚醒感とミニマル/アンビエントの瞑想性を兼ね備えた音世界を切り開く意欲作であり、2022年発表の『Combination Locks』で見せた作曲家・理論家としての才能がさらに大きく開花した傑作である。なお限定プレスの10インチLPのジャケットには、ハンドメイドでピッツィオコスの使用済のサックスのリードがラミネート加工されて貼り付けられているという。

そもそも活動初期にはサックスと共にエレクトロニクスによる即興演奏を行っていたし、エレクトロニクス奏者のフィリップ・ホワイトとの共演作『Collapse』(2018)では電子ノイズと同化するサックスプレイを聴かせたピッツィオコスの”電子音楽志向”の究極形ともいえるサウンドに、筆者は60~70年代に現代音楽家たちが制作した電子音楽やテープ音楽に通じるフューチャリズム(未来性)とノスタルジア(郷愁)を感じる。そうしたエレクトロアコースティック作品の多くは立体音響として制作され、4チャンネル以上の再生装置を備えたリスニング環境で聴かれることを想定していた。つい最近NHK電子音楽スタジオで制作された湯浅譲二の電子音楽作品「ホワイト・ノイズによるイコン」(1967)を5台のスピーカーで鑑賞する機会があったが、ステレオのオーディオで聴くのとは全く次元の異なる、まさに「体験」と呼ぶしかない新鮮な感動を覚えた。同じように『Irrational Rhythms and Shifting Poles』こそ、4チャンネルの音響環境でピッツィオコスの生演奏を体験するべきだろう。いつかその機会が訪れることを願ってやまない。(2024年3月1日記)

▼2023年2月4日ベルリンでの初演ライヴの動画。バイノーラル録音なのでヘッドフォンで聴くと立体音響に近い体験ができる。

剛田武

剛田 武 Takeshi Goda 1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。サラリーマンの傍ら「地下ブロガー」として活動する。著書『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。ブログ「A Challenge To Fate」、DJイベント「盤魔殿」主宰、即興アンビエントユニット「MOGRE MOGRU」&フリージャズバンド「Cannonball Explosion Ensemble」メンバー。

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