#2321 『高柳昌行・阿部薫 / リアルジャズ』
『Masayuki Takayanagi ・Kaoru Abe / Real Jazz』
text by Akira Oshima 大島 彰
ジンヤディスク B-35 ¥2750(税込)5/25発売予定(予約受付)
New Direction:
高柳昌行 Masayuki Takayanagi (el-g)
阿部薫 Kaoru Abe (as, etc)
1.Mass Projection 39:50
1970年5月〜7月、東京にて録音
《音楽、特にリアル・ジャズを考えた場合、僕は絶えず自分との同一次元上で演奏できるミュージシャンを求めていた。邂逅とは不思議なものだ。時として僕は、阿部薫という格好の相棒に巡りあえた。彼の音楽家としての理性、知性の素養に、僕は他の誰にも求め得なかった素晴らしいものを認めた。彼との出会いは、僕の20年余の音楽生活における成果ともいえるし、ここにきて初めて僕の音楽が出発点にたったとも思える。そんな意味から、今までのグループを即刻解散させ、現在は阿部クンとのデュエットで、渋谷の「ステーション ´70 」のみに出演している。》………阿部薫との出会いを高柳昌行はこのように記している。また70年7月の『スイングジャーナル』でも《この無名の新人の忽然たるジャズ・シーンへの登場は流星の閃光のような印象さえ与えた。∥ フリーク・ノートを連発する彼のアルトは高柳を限りなく触発しているし、聴衆に呪縛するばかりのイメージをぶつけてくる。音が光になり光が音に止揚するような彼のサウンドには、底辺で冷えきっているような死の戦慄がある。》と紹介されている、ライターは無記名なので不明だが、5月下旬あるいは6月の「ステーション ´70」での演奏を聴いた感想であることは間違いない。当時、高柳は評論家の間章と「リアルジャズ集団」というものを結成して活動していた。阿部が加入し、デュエットとしての演奏は5月7日木曜日が最初である、演奏時間は90分。次の14日木曜日に270分休みなく吹き続けたという。そして7月9日までは毎週木曜日に必ず出演していた。その出演料は破格だったそう、「ステーション ´70」という空間は三菱重工の社長の息子でアナーキイな行動でも知られるM氏が渋谷公園通りの坂下に開いていた、阿部とは60年代からの知り合いだった。
「ステーション ´70」での阿部との演奏は短い期間にも拘わらず、これまでに3枚発売されている。
7月9日の演奏がディスクユニオンのレーベルDIWによってCD化されたのが最初で『漸次投射』『集団投射』として2枚同時発売、演奏後30年も経っていたが世界中から賞賛された、《彼らこそ、前衛の中の前衛音楽家だったのである。》( クリス・ピッツィオコス「阿部薫へのオマージュ」)
それから約20年、今回と同じく JINYA DISC の斉藤安則さんによって6月18日の演奏が『ステーション ´70』として2000年春に発売されて話題となった、そのとき既に今回の『リアルジャズ』に着手されている、《録音方法に問題の多いテープだった。レベル調整とマイクのセッティングが悪かったようで、このままでは使えない。高柳による要修正のメモも残されていた。そのテープを今、エンジニアの長尾優進氏にお願いし、気が遠くなるような時間と手間をかけて修復していただいている。》( 斉藤安則「もう一つの解体的交感」)
それから4年、長尾さんの修復作業は続けられた、このようなエンジニアさんの仕事があって我々はこの素晴らしい音源を聴くことが出来るのである、ありがとうございました、本当にお疲れさまでした、本当に素晴らしい、CDアルバムとして発売されることも、その演奏内容も、本当に聴きどころが満載で、ただただ凄い、残念なのは翌年に計画されていた欧州ツアーが実現しなかったこと、これは間章の致命的な失態だ、間章は《我々の集団は高柳の自己保身による裏切りの為め解体し、私と阿部も互いの確執を抱いて別れたのだった。》(「〈なしくずしの死〉への覚書と断片」76年)とか《高柳は私と阿部について来ることが出来ないという理由から、我々との共同作業を止めたのだ。∥……それは明らかに彼の「脱落ではなく裏切り」を意味していた。》( 「〈なしくずしの死〉への後書」) と記していて、私もそうなのかと信じていた、ところが高柳さんの話だと、大嘘だと、「私には反論する場がなかっただけ」と、その話を聴いて、間章の文章を読み返すと、確かに嘘が多いことが判明した、記憶違いかも知れないが、過去に自分が書いたことさえ、数年後には違っている。阿部を初めて聴いたのは69年ではなく70年になってからだし、阿部と高柳の初めてのデュオでの演奏も90分間であり、270分演奏したのが最初ではない、間章の文章はレトリックが素晴らしくカッコいいので好きなのですが、どうも書いていることが事実とは違うと、セリーヌについても間章が阿部に教えたのではなく逆だと副島輝人さんから聞いている、騒恵美子さんも、LP『なしくずしの死』のライナーに間章がいい加減なことを書いていると阿部が激怒してマジックで塗りつぶしたと話されてました、間章さんのファンには悪いけど、現実には阿部と高柳との交流は続いていて、72年の電話での会話テープも残っている、川崎のJINYA DISCで聞かせて戴いたが本当に仲良しだったのだなと、 大友良英さんもそのテープを聞きに来て喜んでいたそうです。
今回の元テープは、高柳さんが75年8月26日に聴き返してチェックした内容を記したメモに従い修復されたとのことですが、これってレコード化を意識して書かれたメモですよね、この日付が重要です、なぜレコード化されなかったのか、それは阿部と間章との5年ぶりの再会が原因しているのでは、何故か二人は再び活動を共にすることになり、10月にはソロ・コンサート『なしくずしの死』を開催、レコーディングもされ、高柳とは疎遠になってしまいました。
最後に蛇足かも知れませんが、高柳さんのもう一つの活動を紹介します。同年3月に録音された『A JAZZY PROFILE OF JOJO』というビクターから発売されたスタンダード・ジャズのアルバムです。ピアニストでコンダクターとしても知られる渋谷毅さんが参加しています。このアルバムが素晴らしくて、私はB面をよく聴いてました、特に「マイ・フーリッシュ・ハート」、名演です、機会がございましたら是非、高柳さんはこういうスタンダードなジャズも演奏されてました、『解体的交感』のちょうど3ヶ月前の録音だと知ったときは驚きでした、そのギャップが好き、また殿山泰治さんのエッセイにたびたび登場する、高柳さんが好きです。
「ステーション ´70」雑誌広告より。(L)
「ステーション ´70」店内フロア。(R)
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大島 彰 (ランダムスケッチ)
1955年京都市出身、横浜市在住。「科学朝日」「歴史と人物」「季刊邪馬台国」「季刊ジャズ批評」などに執筆。編集者としては『岡村孝子全歌詩』『阿部薫覚書』『阿部薫2020』など、雑誌やCDライナーも多数。最近は沼尾翔子さんの歌を聴いている、大友良英さんや磯端伸一さんも彼女のファンである、何故か二人とも高柳昌行の門下生であった。