ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #10『Obi』
とうとうトゥーツ・シールマンスも逝ってしまった。享年94、ジャズ・ハーモニカが存在する時代は終わってしまったのであろうか。筆者は幸運にも5年前、2011年3月にボストンのスカラーズ・ジャズクラブで本人に会うことができた。ピアノのケニー・ワーナーと、ギターのオシカー・カストロ・ネーヴェス(Oscar Castro-Neves)とのトリオだった。オシカーとは昔ネットを通じて、録音機材のオタク友達になり、彼はボストンに来る度に誘ってくれたのであった。そのオスカーも今ではもういない。
筆者は何を隠そう(本当は隠したいが)このジャズの歴史に残るハーモニカ奏者、トゥーツの数々のアルバムをちゃんと聴いていない。持っていたのは『The Brazil Project』と、誰かに貸して紛失してしまった、ジョー・パスとペデルセンとの『Live In The Netherlands』だけであった。後者は持っていたものの、愛聴盤ではなかった。筆者はペデルセンのタイム感が苦手なのである。ペデルセンのタイム感はオスカー・ピータソンと長く演っていたからかビハインド・ザ・ビート系で、筆者の好みの、前にドライブするタイプではなく、このオランダのライヴ・アルバムでもジョー・パスより後ろのタイム感と記憶する。
ギター小僧を夢見た筆者には、トゥーツのギターもお気に入りではなかった。ハーモニカと口笛だけの方がいいのに、と思ったことがきっかけで自分もギターをやめてフルートに集中した、という経緯がある。そういう意味ではトゥーツが筆者に与えた影響は大きい。
トゥーツのハーモニカ演奏はビ・バップのリックをこなし、他に追従を許さないほど素晴らしいのに、いつも彼のアルバムには魅力を感じられなかった。トゥーツ自身のタイム感は、ハーモニカでは思いっきりグルーヴするのに、アルバムとしてバンドや選曲などでの全体像では、筆者の求めるドキドキするタイム感が得られないことが多かった。筆者にとってトゥーツはジャコとの演奏や、セサミストリートだ。
『The Brazil Project』
このアルバムは、一見とんでもなく夢の共演アルバムだ。ブラジル音楽の重要人物たちが勢ぞろいしている。ミルトン・ナシメント、ジャヴァン、カエターノ・ヴェローゾ、ルイス・ボンファ、イヴァン・リンス、ジルベルト・ジル、ジョォン・ボスコ、エドゥ・ロボ、シッコ・ブアルキ、オシカー・カストロ・ネーヴェス、イリアーヌ・イリアス。クレジットを見ているだけで失神しそうだ。最終トラック、トゥーツの有名な<Bluesette>では、なんと全員が揃って(同時には2、3人ずつではあるが)10分近くジャムる。なんという豪華なことであろうか。アルバム全体を通して美味しい本物のブラジルのグルーヴも満載だ。しかし…
筆者はほとんどのオールスターアルバムが好きではない。プロデューサーが勝手に大物を合わせても、リーダーとして成功した大物たちのタイム感が合うことはほとんどない。このアルバムはありがたいことにそういう結果になっていないのは、ハウスバンドが固定していて、曲によってリズムセクションが変わることがないからだ。しかしオールスターアルバムに付随する問題はそれだけではない。
よくベーシストなどサポート・ミュージシャンとして活躍しているプレーヤーの初自己アルバムなどでたくさんの大物ゲストがフィーチャーされているのを見るが、得てしてアルバムとしてのまとまりがなく、この人は一体何をしたかったのか、と思うことがある。このトッーツのアルバムもそういう印象を筆者は感じてしまった。トゥーツのブラジル音楽への想いで作られた、それはわかる。だがアルバムとしての方向性が見えない。選曲とシーケンス(曲の並べ方)の問題が大きい。一つ一つの曲は各大物ブラジルアーティスト達の、それぞれの有名な持ち歌をトゥーツと演奏するという趣向で、それはそれで素晴らしい。それぞれの曲の単体としての完成度は高い。しかしそういう趣向の曲をこのアルバムのようにシーケンスされたものを聴いて、まず変化に乏しいことに気がつく。似たような出だしの曲が多く、真っ先に筆者が引っかかってしまったのは、トゥーツのハーモニカは物悲しすぎる、と強く感じてしまった。ハーモニカという楽器が物悲しい印象を持っていることに加え、トゥーツの演奏は驚くほどのダイナミックレンジを持っている。ではスティーヴィー・ワンダーのハーモニカはどうだ?彼のハーモニカを聴いて、トゥーツの醸し出すようなもの悲しさを聴いた覚えはないと記憶する。いったい何がそんなに違うのか、研究する必要があるだろう。蛇足だが、上記の理由から『The Brasil Project Vol. 2』がリリースされた時、視聴して購入しなかった。
楽曲解説に移ろう。前述のようにそれぞれの曲の完成度は高く、筆者がライブで好んで演奏する名曲も多々含まれている。そんな中選んだのがジャヴァンの<Obi>だ。この曲も他の曲のようにルバートで物悲しく始まるが、すぐにジャヴァンのご機嫌なサンバがギターで始まる。実に気持ちの良いグルーヴだ。筆者はこういうゴム紐を目一杯引っ張ったような幅のあるブラジルのグルーヴを聴いているだけで幸せになる。
<Obi>
この曲はいきなりハーモニカ・ソロで始まり、ジャヴァンの歌が始まる前にたっぷり半コーラス、ハーモニカ・ソロを楽しませてくれる。楽曲のフォームも例のジャヴァン特有の自由奔放なもので、大変演奏しにくいが曲としての完成度は素晴らしいものがある。こういう曲を聴くと、ブラジル音楽恐るべし、と痛感する。
ジャヴァンの曲は、まず歌詞が理解できない。ボストンで仲の良いブラジル人歌手に聞いてみたところ、やはり例によって言葉遊びの歌詞で、ほとんど意味不明だそうだ。Obiには意味が2つあり、一つはカンドンブレというブラジルの宗教で儀式に使う果物の名前、もう一つはナイジェリアの街の名前だそうだ。そしてこの曲のメッセージは、サンバのルーツはアフリカであること、それと戦争をやめて平和になること、だそうだ。
有名なジャヴァンの名曲、<Flor-de-Lis>で周知の通り、ジャヴァンの曲はほとんど4で割り切れないフォームになっている。演奏するものからすれば、一回落ちるとどこにいるかわからなくなる危険性満載である。
4で割れるフレージング
多くの人間が共有する美味しいとか汚いとかのある程度共通する感覚の一つに、心地よいフレージングと言うものがある。それに基づいて日本の俳句や西洋のポエムが存在する。これは基本的に起承転結の概念が共通感覚として存在するからだ。音楽でも例外ではない。正確に起承転結と言うわけではないが、次の例が参考になるかもしれない。
1 | 2 | 3 | 4 |
I’m | a | good | boy |
私 | は | 偉大 | である |
ここで注目して頂きたいのは、4で構成されるものは2つずつに分けることができる。
1 | 2 | | | 3 | 4 |
I’m | a | | | good | boy |
私 | は | | | 偉大 | である |
反対に中間点の2以外で切ると全く意味が通じなくなるかもしれない。この偶数で割り切れると言う概念が一般の、特にスタンダードなジャズでは主流を占める。32小節フォームは16小節で前半と後半に分けることができ、その16小節は8小節ずつのセクションに分けることができ、この時点で32小節フォームは8小節ごとに起承転結が完成したことが見られる。だから転の部分がブリッジになるのである。
また、上記フォームの最小単位である8小節は2小節ずつで起承転結を形成し、4拍子の曲であれば1小節の中でのそれぞれのビートが起承転結を形成する形になる。
こういう古典音楽から継がれてきた技法があるから新しいカントリーの曲などはわざとこの起承転結をずらして聴衆をハッとさせ、名曲が生まれたりするわけだ。ところがブラジル音楽ではこの一般な概念がほとんど通用しない。おそらくほとんどの曲はビーチでギターを片手に作曲され、焦点は歌詞なので、音楽的構成は歌詞に合わせて付随するものだからだと筆者は解釈している。それにギターの手の形に左右されるので、理論的に解明できないディミニッシュ・コードがあちらこちらで飛び出す。まさにブラジル音楽恐るべし。
<Obi>のフォーム
この曲のフォームはよくある[ A ] – [ A’] – [ B ] – [ A’] 形式だが、それぞれのセクションの長さが全く予想外となっている。
[ A ] | [ A’] | [ B ] | [ A’] |
24小節 | 28小節 | 12小節 | 28小節 |
それぞれのセクションも偶数で規則的に分割できるフレージングではない。以下に示すように4+2+4というフレージングだ。
[ A ] | |||
GMaj7 | A-7 | A#dim | E-7 |
A9 | A9 | ||
A-7 | G#dim | A-7 | C-6 |
GMaj7 | A-7 | A#dim | E-7 |
A9 | A9 | ||
A-7 | C-6 | B-7 | E♭7/B♭ |
A-7 | D9 | GMaj7 | Gdim |
続く[ A’] は [ A ] の最後の4小節が繰り返され、28小節となる。続くブリッジ、[ B ] は「転」の部分である。凝った [ A ] の部分と違い、ジャヴァン得意の跳ねるリズムでシンプルになっており、ステートメントが強調されていることがわかる。ここで注目したいのは、この12小節のフレーズがちゃんと2で別れ、最初の6小節では、上行形で「起」「承」と付箋を敷き、後半の6小節にシンコペーションでぐいぐい盛り上げて「転」とし、メロディーのピッチを徐々に下げ「結」としている。こういう技はジャヴァンにしかできない。
[ B ] | |||||
D-9 | G7 | D-9 | G7 | D-9 | G7 |
F#7 | F7 | E9 | E9 | A9 | D9 |
そして最後の [ A’] セクションは25小節目からのセクションの再現、つまり最初の [ A ] とその最後の4小節を繰り返したものだ。
エンディングのヴァンプがまたかっこいい。前回『Everything’s Beautiful』でも説明した(クリック)、不安定なGのディミニッシュ・コードでフェードアウトだ。しかもサンバのスルド・ビートが強烈にグルーヴしてる。昇天してしまいそうなかっこよさだ。
このディミニッシュ・コードに対するインプロについて少し説明しよう。色々な学校が理論的に説明出来ないディミニッシュ・コード・スケールを教えるが、マイルスの<Someday My Prince Will Come>などを聴いてもわかるように、ディミニッシュ・コード・スケールなどを使用して「ディミニッシュ・コードがやってきましたよ」と宣伝するようなインプロは誰もしない。そもそもスケールを練習してきました、というようなインプロは誰が聴いてもかっこ悪い。ところがディミニッシュ・コードが出てきた時に理論的に理解していないと、コードトーン以外はどの音が使えるのかがわからないのだ。つまり登場したディミニッシュ・コードがどのドミナント機能から発生したのか瞬時に理解する必要がある。前述のマイルスは、件のD♭dim7で明らかにA7♭9♭13を演奏している。これがジャズミュージシャンの常套手段なのだが、実はこれはブラジル音楽には通用しないのである。文化のしきたりということであろうか、ブラジル音楽ではディミニッシュ・コードでのインプロではコードトーンを演奏する。これは多分ブラジル音楽でのディミニッシュ・コードはほとんど理論的に分析出来ないからなのかも知れない。しかし我々ジャズミュージシャンはどうしてもかっこいいビ・バップフレーズを演奏したくなるものだ。これをいいとか悪いとか言っているのではない。ブラジル音楽のタイム感を尊重する限りジャズのフレーズは文化的に失礼にはならないと筆者は思う。そもそもボサノヴァというのはブラジル人がアメリカのジャズを輸入したものだ。
話はそれたが、ここで面白いのは、トゥーツは冒頭のインプロの出だし、フォームの3小節目のA# dimでしっかりブラジル音楽のしきたり、つまりコードトーンのアルペジオを演奏し、まず自分はしきたりを理解していることを示し、その後出てくるディミニッシュ・コードは全てジャズフレーズにしている。最後のG dimのヴァンプ部分も、ジャズ奏者がやるだろうC7♭9のかっこいいフレーズでジャヴァンと掛け合いをしている。
ではトゥーツのブラジル音楽のリズムの理解はどうだろうか。これも同じだ。冒頭のインプロのフォームの最初4小節でしっかりブラジル音楽のシンコペーションでインプロし、その後は全てジャズのフレーズだ。自分は正しくブラジル音楽を理解しているということをはっきり提示してから自分得意のジャズを始める。これならどんなブラジル人もトゥーツを受け入れるはずだ。外国から来日したクラシックの演奏家が媚を売って演奏する<春の海>のような醜態は晒さないトゥーツであった。
筆者にとってこの曲は何回聴いても飽きない、お気に入りなのである。
https://www.youtube.com/watch?v=06BQKmrn56A