#1336 映画『ECMレコード サウンズ&サイレンス』
text by Minako Ukita 浮田美奈子
Photos: ©2009 suissimage / Recycled TV AG / Biograph Film
映画『ECM レコード – サウンズ&サイレンス』
『sounds and silence – Unterwegs mit Manfred Eicher』
『sounds and silence – Travels with Manfred Eicher』
A Film by Peter Guyer and Norbert Wiedmer
出演:マンフレート・アイヒャー、アルヴォ・ペルト、アヌアル・ブラヒム、エレニ・カラインドルー、ディノ・サルーシ、アニヤ・レヒナー、ジャンルイジ・トロヴェシ、ニック・ベルチュ、マリリン・マズール、ヤン・ガルバレク、キム・カシュカシャン 他
監督:ペーター・グイヤー/ノルベルト・ヴィドメール
2009 年/スイス/87分
配給:Eastworld Entertainment /カルチャヴィル
公式サイト:https://www.universal-music.co.jp/sounds-and-silence/
やっと先日、映画『ECMレコード サウンズ&サイレンス』を観ることが出来た。見ている途中から様々な感情が湧き上がって来たので、改めてこの映画から感じた事をまとめてみた。
映画が始まると、キース・ジャレットの「Reading of Sacred Book 」の緊張感のあるピアノの連打の音と共に、ミュンヘンのECM本社の様子が映る。思っていた通りの空気感をそこに感じる。
創設者であるマンフレート・アイヒャーはコントラバスの奏者だったが、奏者としての自分の力量を見極めてプロデュースする側に回り、ECMを立ち上げた。そしてこう語る。
-「奏者として聞いている音と、録音で聞く音との隔たりを感じた。だからまず、私は沢山の様々な音源を聴いた。」
冒頭でECMというレーベルのアイデンティティである「音の質」の問題が、アイヒャー自身から語られた訳だ。そしてこの後、映画の中では、アイヒャーの「音の質」の追求の過程が、実際にどのように現場で行われるのか、様々な音楽家達との録音の様子を通して紹介される。
教会でアルヴォ・ペルトの「レナルトの追憶に」を、トヌ・カリユステの指揮で演奏するタリン室内管弦楽団。母国エストニアの亡き大統領へ捧げたレクイエムの祈りの音が、静かに聖堂に響きわたる。
その音は厳かで神聖そのものだが、その演奏を聴いているアイヒャーもペルトも、妥協をせずに細かいニュアンスを奏者に伝えていく。
ある事を思い出す。私は欧州でオーケストラの演奏を聴くと、音が天から舞い降りて来るように感じる時がある。そして、その原因を考えた時に、「欧州の人たちは我々日本人が知らない音を想像しながら演奏しているのではないか?」と。
ECMの音は教会で音楽を聴いている音を想定して、あの独特のリバーブがかかった音を作っているわけだが、結局それは彼らにとっては非常に身近で、「自然に聴いてきた耳馴染みのある音」なのだ。これが耳に染み付いている人と、そうでない我々日本人の音への認識の違いは恐らく大きいのではないか。この録音の様子を見ても、改めてそのような事を考えた。
そして、ニック・ベルチュ”ローニン”のレコーディング現場の様子。ここでも録音の音に対して、アイヒャーからエンジニアに細かい指示が出される。この映画のパンフレットにある、原雅明氏によるニックのインタビューが非常に示唆に富んでいるので、少しだけ重要な部分を引用させて頂く。
-「マンフレートは、常に若いアーティストに対して聴く耳がある人だ。それは、それまでのトラディショナルな音楽の新しい解釈に対するコンセプトを持っている若いアーティストたちを、常に探してきたということなんだ。マンフレートは、クラシック音楽のように作曲された音楽に対する耳も持っているし、ジャズのようにインプロビゼーション主体の音楽に対する耳も持っている。ECMはその両者を融合させた音楽であり、その両方の音楽が好きな人にアピールするような音楽を求めてきたので、それを、新しい形、新たなレヴェルとして打ち出そうとしていたと捉えている。」
ECMの音楽のメインターゲットはヨーロッパで普段クラシックを聴く人であり、彼らにJAZZも聴いてもらう事を念頭に置いているわけで、ニックの言葉はそれを裏付けている。
アイヒャーの活動の素晴らしいところは、この映画にも沢山の例が取り上げられているが、誰よりも世界中の音楽に対して彼の耳が開かれている事だ。
アイヒャーは毎年信じられないほどの数のプロデュースをしながら、旅をし、西洋と東洋の異なる文化風土を背景に持つ世界各地の音楽を、自身の耳で判断して結びつけ、新しい音楽として提示し続けてきた。この映画にはウード奏者のアヌアル・ブラヒムが出てくるが、私自身ウードはECMの音楽を通して初めて知ったのだ。
しかしそれらのアイヒャーの耳によって取り上げられた音楽は、ただその土地の伝統を受け継いでいる、というものではない。それは同じくこの映画のパンフレット冒頭の村井康司氏の言葉を借りるが、アイヒャーが注目する音楽家とは、「自分の文化的アイデンティティをそのまま表出せずに、オリジナリティというフィルターを通して唯一無二の音楽をクリエイトするタイプ」なのだ。その典型がブラジルのエグベルト・ジスモンチであり、この映画にも登場するアルゼンチンのバンドネオン奏者ディノ・サルーシである。
ディノとチェリスト、アニヤ・レヒナーのアルバム『OJOS NEGROS (邦題:黒い瞳)』はとても好きな作品なのだが、映画内で紹介されたこのアルバムの制作風景は本当に胸を打つ。相手の音と僅かな呼吸の間合いや変化を感じながら丁寧に紡がれていく音。正に音を通した深い対話そのものである。
ニック・ベルチュのインタビューに戻る。彼はマンフレート・アイヒャーというプロデューサーの特徴をこのように語る。
-「まず、マンフレートは聞き手として素晴らしい耳を持っていて、録音したものを後から修正するのではなくて、その場で演奏されるものに対する鋭い耳を持っている。そのことが場の雰囲気、躍動感、動きといったものを作り出していたと思う。(中略)そして、彼は、自分たちにも聴こえていないものが聴こえている。彼がそこで聴いたものを指摘してくれると、自分たちもようやくそこに耳が行くようになるんだ。」
また、ニックはECMというレーベルの世界観をこのように語る。
-「マンフレートには、演劇のように一つの物語を構築することにすごくこだわりがあって、それはアルバム全体の構成にも必要で、そのことによって作品が一つの方向性を持つことにもなる。」
上記2つのニックの言葉は、私が過去に聞いたECM所属ギタリスト、ドミニク・ミラーのインタビュー中の言葉を完全に裏付ける。ドミニクはこのように語っていた。
-「マンフレートはレコーディングの時に演奏を間違えても修正をさせないんだ。でも、私は改めて昔のECMの作品を聴いて気がついたんだ。ジスモンチが高い音程の所で運指に苦労しているような様子がアルバムを聴くとわかるんだ。しかし、それがなんとも言えない魅力になっている事に、私は気がついたんだ。」
ドミニクによれば、ただでさえ時間がないECMのたった2日のレコーディングの時に、それまで彼が何週間もかけて準備してきた事を、アイヒャーが「もっと自由になれよ。君はもっと良いものができるはずだ。」と言って覆すこともあるようで、その録音作業は「ミュージシャンとしてはかなりハードな体験だ」と。でも、「最終的にはマンフレートの言ってた事は絶対的に正しいことだとわかるんだ。マンフレートは映画監督のようなものなんだ。」と言っている。
これらのドミニクの話は、筆者による今年4月のドミニクの来日直前インタビュー (Jazz Tokyo#319号)でも触れているので、是非参照していただければと思う。
このニックとドミニクの言葉を通してわかることは、マンフレート・アイヒャーという人は演奏者の耳を持ち、頭の中で、恐ろしく超越した目線で全体の音を組み立てているプロデューサーだという事だ。
マンフレートの頭の中にある全体の音の世界観は、ミュージシャン自身が見ている世界よりも恐らくもっと高いところから見た俯瞰的なものなのだろう。ただ、もしそれがミュージシャン自身が見たい景色と違っており、受け入れられない場合は、彼らはECMを去る事になるのだと思う。アイヒャーが時にコントロール・フリークなどと言われるのは、おそらくこのような見た景色の違いから来るのだろうと感じた。
では、これらの俯瞰した音楽の景色を実現する為には何が重要なのか。それはそのミュージシャンの持つオリジナリティが表出されている『音』そのものが、やはり非常に重要なファクターなのではないか。ミュージシャン自身を表し、彼らのオリジナルな世界を達成するための『音』だ。
この音の重要性については、アイヒャーの元でプロデュースを学んだ後、独立して2020年に『Red Hook Records』を立ち上げた サン・チョン氏のインタビュー (2023年、原雅明氏によるもの)でも理解する事ができる。(このインタビューの内容は本当に素晴らしい。)
サン・チョン氏の言葉を簡単に紹介すると、このような事だ。
ー「今はJAZZもテクニックが優れた人は掃いて捨てるほどいるが、テクニックを磨くことに注力すると、本人の精神に基づく音楽性がダイレクトに出てこなくなる。テクニックと音楽性のバランスは非常に重要で、それらのバランスの取れた良い音楽を可能にするためには、『良い音』がベースにあることは前提で、音楽の深遠さを追求するために私は『音』を気にかけて大事にしていく。」
私は知人のピアノの教育者からこのような話を聞いた事がある。日本人のピアニストが海外で学ぶと、現地の教師から「そんなに大きな音で弾かなくてもいいよ。」と言われる事があるそうだ。どういうことかというと、部屋の容積を考えておらず、全体に鳴っている音を聴かず、自分が演奏することにのみ気が向いているという指摘だ。これは非常に日本の音楽教育を象徴する話だと私は思っている。
周りの音を聴かなければ自分の音は探せないが、日本で音楽を学ぶ時、その事はしばしば後回しにされる。しかし、自分の音楽を裏付ける音を得ることは重要だ。それには聴く事だ。聴いて、自分の音を得なければ始まらない。
アイヒャーの耳によって選ばれたECMに所属するミュージシャンたちは、皆『自分の音』を持っている。「ECMの音はリバーブがかかった音」と、一括りにそう語って終わりにしてはいけない。その前に彼らは自身の音を確立しているのだ。
ディノ・サルーシとアニヤ・レヒナーの録音風景。アイヒャーは2人の様子を言葉少なく静かに見ているが、私がこの映画の中で見たものは、単にプロデューサーではなく、その耳でミュージシャンとして音楽に参加しているマンフレート・アイヒャーの姿だ。
アイヒャーは彼らミュージシャンたちが持つ、オリジナリティが表出した『音』を、鍛え抜かれた耳で、できるだけ場の雰囲気、躍動感、動きなどをストレートに再現する事を通して、生身のミュージシャンの姿を記録しているのだ。だから私は、例えその記録された音楽が非常に静謐なものであっても、ECMの音楽の中に強い生命感を感じてきたのだ。そしてきっとそれが、ECMレーベルの音楽の一番の魅力なのだと思う。
ECMレコードというのは、マンフレート・アイヒャーという「耳の音楽家」によって選ばれ繋がれた、膨大な量の世界の音の図書館である。私はそこに収められた「音」を心の耳を開いてしっかりと聴き、これからも自分の耳をもっと育てていきたいと思った。
浮田美奈子 Minako Ukita
厳格なクラシック音楽教師の家庭に育つ。自身も2歳半から大学卒業までピアノとフルートを学ぶ。得意だったのはフランス近代作曲家。同時に13歳で洋楽ロックやJAZZにも傾倒し、バンド活動を行う。感動したものであればどんな音楽ジャンルも問わずに聴くが、基本的に実際に会場で聞かなければ真価は解らないと思っている。現在ドミニク・ミラー本人の承認の元、Dominic Miller_Fan Page JAPANを運営。