JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 3,058

Concerts/Live ShowsNo. 328

#1375 竹内直 + 塩本彰 DUO 

text & photo by Shuhei Hosokawa  細川周平

2025年7月25日 大阪 Bamboo Club

竹内直 (ts, bcl)
塩本彰 (g)


ジャズの境地、境地のジャズ

二人は40年来のつきあいとまず塩本によって前口上された。気心の知れた仲というのだ。その気と心を二時間堪能させていただいた。こんな謙虚な気持ちにさせられるライブも珍しい。デュオはジャズ史のなかで小さいながら確実な分野を占めていて、近年もトリオ、コンボの縮小版というのではない独自の演奏形態として認められている。これもその一例だ。

二人はやりとり(かっこよくいうとインタープレイ)の名人芸を静かに展開した。速弾きへ向かう技巧の炸裂ではなく、互いに相手の出方に即興で反応するジャズの基本に立ち返る芸の確認で、二人の音楽的境地の達成と思えた。「境地」を(いつもの悪癖で)辞書で引くと、「何かを経験した結果到達した、心の状態」「その人独自の世界観。芸術観に基づくやり方」とある(『新明解国語辞典』)。暗に年季を含み、若さ、はつらつ、躍進、革新を超えている。「自由」というと何にでも使えて意味が広がりすぎるので、類語の「自在」で、二人の束縛も派手もない安心の境地を言い表わしたい。「スウィング老」と、おいぼれ化ではない二人の年季をダジャレてみたい(それでどうなるでなし)。

トリオ、コンボも即興の基本は変わらないが、それを二人で縮小・継承しているのではない。漫才とお笑いトリオやグループがまったく違うように、二人と三人以上は別の反応の場面と思う。慣れたどうしの縁台将棋のように、相方の出をみてこちらの手を打つようなやりとりで、手の面白さを競い合うようなところがある。驚かせてやろうという会話のようでもあり、それをきっちりわかってやっている。それが40年の年季だ。通常のコンボではリズム隊とソロ隊では役目が違い、サックスなどが順にソロを回す間にほかのメンバーには休みがある。ところがこの日の二人はひとりの時間帯があっても、聴くことは続き、いつでも加わる準備をしているのがスリルであり、楽しみだった。

ギターのリズムとコードにサックスが乗っているだけではなく、その逆もあり、お決まりから外れるのにツッコミを入れ、相手を真似たり崩すのはもちろん、ぐずったりくすぐったりするような時間帯もある。無視するのも芸だ。いつでも入る準備をしている。そう出ればこう返す、テンション・コードでつっぱると思いきや、お約束事のベーシック・フレーズで気持ちを休め、相手がいい加減にしろと叱る。言葉にするとばかばかしいこんなやりとりを間近で聴くのは、幸運としか言いようがない。

デュオならではのこととして、竹内はタンバリンをスネア用のブラシやフェルトつきのスティックでたたいたり、ただ振ったり指で面をこすり、標準ドラムセットに負けないぎりぎりの反応を示して相手を誘い出した。ハイハットとシンバルで定速ビートを刻むジャズ・ドラムスの基本部分を省き、スネアドラムのいわゆる「おかず」を最小限試して、ギターに練習問題を課しているかのようだ。するとギターはウォーキング・ベースのリズム感を少し強く出し、ギター・トリオのミニチュアのようにも聴こえる。小さな打楽器音はほんのお試しで、すべてを語るかのようだ。何かを「繰り出す」力技ではない。竹内がふだんコンボでドラムスの何を聴いているのかを想像させられる。一、二分は足でマラカスを踏み鳴らしながらサックスを吹いた。ジャズ奏者が足でリズムをとる姿には見慣れているが、ここでは小さいが、このデュオのなかではやや目立った音が連動している。反対に「ローンズ」では微細なギター音にもっと微細な、聴こえるかどうかのトライアングルで応じた。どこまで小さな音で反応できるか、その限界を争うような戦いは聴く側の集中を試すかのようで(だからといって緊張で縛るのではない)、驚きだった。昨年亡くなったカーラ・ブレイへの追悼の意が込められているそうだ。聴かなければ忘れていた。同じく彼女を敬するファンとして嬉しい回想の時間だった。

チェット・ベイカーのヴォーカルで知られる「前は恋していなかった」が一曲目で、「プレイズ・スタンダード」の一夜かと思ったら、二曲目はCCRの「雨に唄えば」でひっくり返された。ぼくには中学生時代の懐メロと言えなくもない。「アローン・トゥゲザー」が続くと今度はオーネット・コールマンの「グッドライフ」、それに後半ではヤン・ガルバレクの「ミッション」と幅広い。長いこと聴いたことのなかった曲、タイトルを思い出せない曲ばかりが選ばれた。オーネットの曲は40年前に塩本が書いて渡した楽譜を今も参照していると、竹内は客席にぴらぴらして見せた。しょっちゅう弾くのではないだろうが、忘れていない。初心の熱が今も続いている。

親密なやりとりは、それに向いた会場の雰囲気に助けられていた。バンブー・クラブは十人ほどの客でいっぱいになる場所で、幸いにも深々とソファに座って3メートル先の演奏者と目が合った。早めに店に到着した贅沢だ。客の半分は二人の知り合いで、残り半分はこの場所の常連のようだった。知らない出演者だがとりあえず聴いてみようか、みたいな。塩本のホーム・グラウンドで、その日調子の悪かったギターを取り換えにいったんもどったほどで、気楽さが極まっていた。途中で天神祭りの花火が聞こえてきたのが、俗を離れて雅の特別小スペースに閉じこもっている感を深めた。演奏は無理に走らず、悠々と今の気力体力に合っていた。

第二部ではまず竹内が自分の楽器について話し始めた。第一部でバスクラを初めて見た客より「それ何ですか」と質問があったのが、頭に残っていたのだろう。テナーサックスのリードがクラシック向けの特製で温かみの音が出ることや、フルートがB♭管で標準よりも低い音が出ることがぼつりと話された。どれも金属の艶が消え、見るからに年季の入った愛器である。彼はステージで話す人ではないし、あまり聞かない話題だ。

その話のあと、この日唯一のソロを頼まれて持ってきたというのが「ナイーマ」だった。竹内がいろいろなかたちで吹いてきたコルトレーン・スタンダードだ。原曲はところどころ顔を見せるだけで、後は自由なカデンツァ展開。昔ならフリーといった。作曲者への深い敬愛を感じさせつつ、それにはまりこまず、最後に旋律全体を吹き通してエンディング。年季のこもったコルトレーン解釈から、インパルス盤を愛聴した半世紀前を思い出した。彼とはその頃知り合ったが、こちらの不安定なジャズ熱のために、会ったり会わなかったりの繰り返し、それがよくぞここまで来たもんだ、と妙な感慨に襲われた。

「ナイーマ」の後、ヴォーカリスト高橋明子がサプライズで客席から呼び出された。今は横浜を中心に直さんとよくライブをしているが、うん十年前、塩さんからプロになるのを応援され、「うたの心はバンドを聴き込むことにあり」と教訓されたのだそうだ。恩師と信頼している。まず二人の定番らしい「酒とバラの日々」を歌ったあと、彼女の挙げる数曲がはねのけられ、残ったのが「バイバイ・ブラックバード」。師匠のそのときの気分に合った。直さんはこの間、後ろに引っ込み、頃合いをはかってエンディングに花を添えるだけ、曲のフレーズを切り取るだけで、トリオというよりヴォーカル・デュオ+ゲストという仕立てだ。

時間制限のある会場で「ブルー・モンク」がアンコールなしの締めの曲と紹介された。当日唯一のブルース形式の曲で、ジャム・セッションなら飛び入り歓迎でにぎやかに盛り上がるはずだ。そこでもほかならぬモンクを選ぶのが二人の境地で、4ビートを繰り出すでなく、ジャズ教室で教えるような決まりのフレーズを連射するでなく、音量を上げるでもなく、モンクの個性的なラグタイム・ノリ(スウィング)で締めくくった。

それに心動かされ「ラウンド・ミッドナイトをお願い!」と叫んだら、何と聞き入れてくれ、数分のおまけがついた。瞑想的テーマをそのまま弾きつつところどころ崩して、モンク自身の自在な境地を思わせる。モンクがヒムセルフなら、二人はゼムセルヴズだ。仕事を終えたあとの深呼吸のような静かな気持ちにさせられた。昨今、まさにその時間、夜の10時前に深夜(ミッドナイト)の気分とからだになる早寝老ダウン者には、またとない贈り物だった。

細川周平

細川周平 Shuhei Hosokawa 京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター所長、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は音楽、日系ブラジル文化。主著に『遠きにありてつくるもの』(みすず書房、2009年度読売文学賞受賞)、『近代日本の音楽百年』全4巻(岩波書店、第33回ミュージック・ペンクラブ音楽賞受賞)。編著に『ニュー・ジャズ・スタディーズ-ジャズ研究の新たな領域へ』(アルテスパブリッシング)、『民謡からみた世界音楽 -うたの地脈を探る』( ミネルヴァ書房)、『音と耳から考える 歴史・身体・テクノロジー』(アルテスパブリッシング)など。令和2年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください