#938 東京都交響楽団第825回定期演奏会Cシリーズ
text by Masahiko Yuh 悠雅彦
2017年2月26日 14:00 東京芸術劇場コンサートホール
1.交響詩「魔法使いの弟子」(ポール・デュカス)
2.交響詩「ローマの噴水」(レスピーギ)
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3.幻想交響曲 作品14(ベルリオーズ)
東京都交響楽団(コンサートマスター:矢部達哉)
指揮:ダニエーレ・ルスティオーニ
プログラムを一瞥した瞬間、都響の定期に初めて登場した指揮者、ダニエーレ・ルスティオーニの果敢な意気込みが強烈に伝わってきた。ラインアップを飾る全作品(3曲)が定評ある管弦楽法によって聞こえの高い作曲者たちの代表的楽曲だったからだ。フランス近代の傑出した作曲家の1人、デュカスの「魔法使いの弟子」の演奏が始まってすぐ、指揮のルスティオーニ、それに応える都響の一体感みなぎる演奏(コンサートマスターは矢部達哉)の熱気を浴びたとたん、この日のエキサイティングな達成を確信した。
ルスティオーニの指揮から溢れ出す音にはまやかしもなければ、妙な取り繕いもいっさいない。といって、作品の色彩感を強調しようとして、不用意にマジシャンの真似事をして聴衆を煙に巻くようなことはない。3年前に初来日して東京二期会の「マダム・バタフライ」を振ったときの評判を耳にしていたので、オペラの指揮で評判をとった明快な構成美を発揮するだろうという期待は当然あった。だが、これほどまでに都響と一体となった入魂の演奏を実現してくれるとの予想は立たなかった。一瞬たりともおろそかにしない、いや寸分も気を抜かない「魔法使いの弟子」の指揮ぶりを目の当たりにして、これでその後のレスピーギやベルリオーズの大作まで彼の神経や体力が持つのかと、実は正直に言って心配になってくるくらい、スコアのすべての音符1つひとつに精魂を傾注している彼のタクトからほとばしる熱気が、まるで熱風のように耳に飛んでくるのだ。こんな経験は初めてだった。
通常のコンサートならオペラの序曲か軽快な小品で幕開けを飾るところを、ルスティオーニはデュカスの交響詩を敢えて選び、その「魔法使いの弟子」をあたかもオペラのクライマックスを呼び込む大ファンファーレ然とした演奏で、のっけから観客を惹きつけて放さない手順をひらめかせたのだ。そう思ったとたん、いよいよ目が離せなくなった。
「ローマの噴水」。かつて「ローマの泉」と呼んでいたこの曲をルスティオーニが振ると、まさしく「噴水」以外の何ものでもなくなる。ときにカラフルに、ときに激しく噴き出すように、ときに水滴の粒が不思議な舞いを演じるかのように、優美でドラマティックな噴水のオペラが活きいきと跳躍する。レスピーギならではの色彩豊かなオーケストレーションがゴージャスな豊かさをたたえた都響のアンサンブルと見事に一体化して会場に舞った。
繰り返すが、「魔法使いの弟子」にしても「ローマの噴水」にしても、ルスティオーニのタクトから導き出される音にはまやかしが一切ない。「ローマの噴水」にしたって色彩感を強調するために色をこてこてに塗りたくった演奏には決してしない。オペラの指揮で名声を確立した人らしく、全体を束ねるのに細部を丁寧にコントロールして積み上げた跡が歴然としてあり、その結果として明快な構成美を印象づける音楽に仕立て上げる術を心得ているのだ。
そして、ベルリオーズ。この「幻想交響曲」については前回の本誌 (JazzTokyo) のCD評で、ジャズの渋さ知らズの新作『渋樹 JUJU』(地底)を紹介した中で触れた。この新作で何とフリー・ジャズ系の渋さ知らズがこの「幻想交響曲」の全編を演奏していたからだ。もちろん渋さ知らズならではの捻りの利いたアプローチで演奏していることはいうまでもないが、一般にはアヴァンギャルド系と思われている渋さ知らズが19世紀前半に作曲されたこの大曲を取り上げたことで、この曲がいかにジャンルを超えて多くの人々の心をとらえて放さないかを改めて痛感させられた。固定楽想による全5楽章の構成やグレゴリア聖歌「怒りの日」の使用など、また優美なワルツ(第2楽章)や凄絶な行進曲(第4楽章)など印象深い展開もあり、150年を超える今日でも最も人気高い交響曲の1つとなって聴く者を魅了している。
この大曲でもルスティオーニの指揮ぶりはまったく変わらなかった。私ごとだが、私にとっての指揮者とオーケストラによる演奏の原点は、カラヤンがベルリン・フィルを率いて来日した公演(1957年11月)で振ったブラームスの1番。不必要な動作を排してひたすら優雅にタクトを振るカラヤンとそれに一糸乱れぬ演奏で応えるベルリン・フィルの演奏が、長らく私の永遠の理想像であり続けてきた。その後ジャズにのめり込んでクラシック音楽とは縁が薄くなったため、時たまNHKテレビでオーケストラ演奏を目にするだけとなった私には昨今の、たとえばアンドレア・バッティストーニのパッショネートな指揮ぶりなどを目にすると、時代が変わったことを痛感せずにはいられない。まるで1音1句に表情をつけ、それに見合った演技を重ねるがごときルスティオーニの指揮ぶりなどはとりわけ典型的な例といわなければならないだろう。だが、音楽が雄弁かつ的確にベルリオーズの世界をあたかもオペラのステージを彷彿させるように、ストーリーの展開をダイナミックかつドラマティックに1音、1フレーズの根幹を集中的に甦らせるルスティオーニの幻想交響曲は、その意味ではまさしくまるで5幕のオペラを鑑賞しているかのような錯覚をしばしば覚えさせるほどだった。こんな体験はむろん私には初めて。とりわけ主人公(ベルリオーズ)が処刑されて刑場の露と消える「断頭台への行進」(第4楽章)、この世を去った主人公が魔女たちの奇怪な宴に翻弄されながら、<死者のためのミサ>(グレゴリア聖歌の「怒りの日」)に彩られた狂騒の中をさまよう終楽章の「魔女の夜会の夢~魔女のロンド」で、ルスティオーニが描くドラマにはかつてない感動を経験して夢見心地になった。それはベルリオーズ~リムスキー・コルサコフ~デュカス~ラヴェル~レスピーギらへと続くオーケストラ書法の展観を味わい体験する例外的な機会だったといっていいかもしれない。「魔法使いの弟子」にしても、この「幻想交響曲」にしても、あたかも全力で格闘技を試みているかのような彼の一挙手一投足、あるいはステージ上の俳優が身体を張って演技するかのように彼のタクトに応える都響の迫真の熱演に、会場を埋めた聴衆の誰も彼もが思う存分酔わされたのではないだろうか。
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