#1036『藤山裕子×レジー・ニコルソン×齋藤徹』
2018年10月1日(月) 横濱エアジン
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Yuko Fujiyama 藤山裕子 (p, vo)
Reggie Nicholson (ds)
Guest:
Tetsu Saitoh 齋藤徹 (b)
1. 響きの彼方に(藤山)
2. くりかえす(谷川、藤山)
3. Piano Peace(ニコルソン)
4.~6. 即興
7. Night Wave(藤山)
ニューヨーク在住のピアニスト藤山裕子が、18年ぶりに日本ツアーを行った。ウィリアム・パーカー、リー・コニッツ、ワダダ・レオ・スミス、マーク・フェルドマン、ダニエル・カーター、グラハム・ヘインズなど、錚々たる面々と共演して音楽世界を作り上げてきた人である。同行のレジー・ニコルソンもまた、ヘンリー・スレッギル、マイラ・メルフォード、アミナ・クローディン・マイヤーズ、ムハール・リチャード・エイブラムスなどシカゴの唯一無二の音楽家たちとともにキャリアを積み重ねてきたドラマーだ。そしてゲストとして、意外と言うべきだろうか、齋藤徹が加わった。
藤山の独特さは、冒頭の「響きの彼方に」からあらわれた。ピアノの内部奏法を行うのだが、まずは弦ではなくフレームを叩くことによる響きを提示し、さらには弦を片手で押さえつつ逆の手で対応する鍵盤を弾き、音を創出させるとともに消失させた。藤山は演奏後、この曲のことを、音が消えていったあとの余韻を活かしたものだと話した。彼女がニューヨークにおいて日本人の特性だと感じたところのものだった。
それが音の余韻であるならば、次の「くりかえす」は言葉の余韻を味わう曲だと言うことができた。谷川俊太郎の同題の詩を自ら朗読してはピアノの旋律を差し挟み、具体が消えた言葉の余韻の上に音の響きが、そして、音の余韻の上にまた具体の言葉が、重ね合わされる。
レジー・ニコルソンがある想いをもって作曲した「Piano Peace」(小品のpieceではなく平和のpeace)を経て、ゲストの齋藤徹が加わった。アジア、南米、ヨーロッパの要素を音楽に取り込み、アメリカのジャズには複雑な距離感を置いてきた齋藤と、アメリカのジャズシーンにおいて日本的なものに想いを馳せてきた藤山とは一見対照的に思える。だが、藤山は20年ほど前にニューヨークで齋藤の演奏を聴き、いつか一緒にという話をしたという。それは西村朗作曲の「覡」(かむなぎ)であり、沢井一恵(箏)らとの共演だった。藤山の日本的なものへの視線は、かつて、確かに、齋藤の活動にも向けられていたのだ。視線の交差から20年が経ち、はじめて共演が実現した。
ニコルソンと齋藤のデュオにより即興演奏がなされた。齋藤は弦の下に入れたコマを自在に動かしつつ、濃淡を付けて弾いた。ニコルソンが気持ちよさそうに追従する。齋藤が弦や胴を擦るとき、まるで音がはみ出るように感じられる。また、ピチカートに移行すると紛れもない齋藤徹の音が出てくる。自然体というのか、<あるがまま>と地続きだ。ニコルソンが仕掛けてきて、ふたりとも一気に落下するがごとき演奏となり、齋藤は指で風を切るユーモアを見せた。齋藤は、コントラバスの倍音を吸ってしまうという理由で、ドラムスとの共演は難しいと話しているのだが、このデュオは見事な回答であったと言えまいか。
藤山と齋藤のデュオ。互いの合間に入るような、達人同士の対話である。ふたりとも相手の演奏を阻害せず、しかし緊密な相互干渉を行った。藤山の明晰で切れのよい鍵盤さばきがあってこその成果でもあった。
そしてトリオの演奏となった。ニコルソンのブラシ、藤山の内部奏法、齋藤の弓と指が音の数々を繰り出してゆく。齋藤はコントラバスを横たえた。誰が時間を操っているのかという問いには誰も答えられないであろう、時間の共有である。
藤山のピアノは結晶の内部のように乱反射し煌き、かつて多大な影響を受けたというセシル・テイラーを想起させる(1980年、イーストヴィレッジにおいて、誰かが流しているテイラーのカセットテープの音が藤山の耳に届いたのだという)。しかし、テイラーがアブストラクトな無数の旋律により唯我の大伽藍を構築し続ける音楽家であったのに対し、藤山の指向する音楽は明らかに異なっているように思える。それはたとえば対話者を見つめているかのごとき穏やかな間であり、また、風景や言葉との分かち難さだ。
齋藤の見事なピチカートがあり、また息を抜いて弦を擦り、藤山とニコルソンが間合いを見て再び加わった。やがて藤山が発したゆっくりとしたシグナルに呼応して、演奏が収束した。
アンコールに応えて、藤山とニコルソンが「Night Wave」を演奏した。ふたりともマレットを多用し、大きな響きが消えてしまわないうちに、また大きな響きを重ね合わせる。一転して藤山が棒で擦ると、ニコルソンはそれに応じてシンバルを使った。この曲は、藤山の同タイトルの近作(innova、2017年)にも収録されており、そこではスージー・イバラがやはりマレットで大きな山々を作り出している。常に全体を俯瞰し、土の匂いがするようなイバラのドラミングとは対照的に、ニコルソンのプレイには、90年代にマイラ・メルフォードの諸作においてその存在を知らしめたシンプルな鋭さがあった。
(文中敬称略)