#535 舘野泉フェスティヴァル—左手の音楽祭2012-2013/ 左手の世界シリーズvol.5 世界を結ぶ
2013年5月18日 (土) 東京文化会館小ホール
Reported by 伏谷佳代 (Kayo Fushiya)
Photos by 林喜代種 (Kiyotane Hayakshi)
舘野泉 (pf.)
ヤンネ舘野 (vn)*
ブリンディス・ギルファドッティル (vc)**
《プログラム》
塩見允枝子;ソリトン 薄明の大気のなかで ヴァイオリンと左手のピアノのために
(ヤンネ舘野と舘野泉に捧げる 委嘱作:世界初演)*
ソールデュル・マグヌッソン;チェロと左手のピアノのためのソナタ**
(舘野泉とブリンディス・ギルファドッティルに捧げる 委嘱作:世界初演)
ユッカ・ティエンスー;Egeiro (委嘱作:世界初演)
<休憩>
ソールデュル・マグヌッソン;アイスランドの風景 (委嘱作:世界初演)
Coba;Tokyo Cabaret(チェロとピアノのために)** (委嘱作:世界初演)
アンコール
Coba;Tokyo Cabaretより
谷川賢作;「sketch of jazz」より “old grandpa’s simple joke”
舘野の「左手」に触発された、エネルギーの大スペクタクル
左手のピアニスト・舘野泉による「左手の音楽祭」。世界を結ぶ、とタイトルづけられた第5回は、愛息のヤンネ舘野、そしてアイスランドを代表するチェリストであるブリンディス・ギルファドッティルを共演者にむかえ、これまた舘野を崇拝する気鋭の現代作曲家の曲が奏せられるという試みである(しかもそのすべてが世界初演)。
左手の音楽、というとあたかも両手で奏される音楽とは異質の音楽に聞こえるかもしれないが、エネルギー放出の量は両手のそれをも凌ぐ。要はエネルギー分配の問題であり、むしろ左手に集約されることで「舘野泉その人」がより一層のマグマのような濃度をもって迫ってくるのだ。冒頭、フルクサスでも活躍した塩見允枝子の”ソリトン”は、ピアノの低音とヴァイオリンの高音という音程の乖離が、独自のひんやりとしたテンションを生みだす。実際の音が波形の輪郭を形づくっているとするならば、聴き手の想像力を掻き立てるのは、むしろ音の間やひずみの深遠さのほうである。パッション溢れる音色から、漆黒の闇が顔をだす。いわば音の絡みは流氷の先端同士のクラッシュであり、眼に見えぬ個性をその背後や水面下に湛えている。作曲家の意図がどうであれ、筆者にはそのように聴こえた。ヤンネ舘野のヴァイオリンは、音色の安定に天性のたくましさを感じさせたが、もう少々不穏な流動性を表現してほしい気もした。
この日2曲でチェロを披露したギルファドッティルがおおきな収穫であった。作曲者のひとりであるマグヌッソンとはプライヴェートでもパートナーということもあってか、楽曲に内面から寄り添うような自在な伸縮力、楽章間の緩急対比の鮮やかさ。大きなコントラストが決まるほどに自由に泳ぐ細部のリズム。たしかにクラシックの枠組みに位置しながらも、即興的な引き出しの多さを感じさせるフィーリング豊かなプレイだ。舘野のピアノと、互いに追い追われ影をふみつつ、それぞれが造りだした鏡像を叩き割るかのような強靭さが、クライマックスとともに加速されてゆく(“チェロと左手のピアノのためのソナタ”)。まさに、スコアに息が吹き込まれる実況の醍醐味。cobaの<Tokyo Cabaret>も、ギルファドッティルの鋭敏でしなやかなリズム感覚が洒脱に反映された好演。倍音もユーモアたっぷりだ。
舘野のソロによる<Egeiro>では、テクニックや音型による構造ではなく、もっと直截的な音のぶつかりと跳躍がまず火花を散らす。粘土を叩きつけたような衝撃には、むしろ彫刻などに近い具体的な手触りがある。反対に”アイスランドの風景”では、楽曲名が示唆する叙情性を一旦棚上げした、シェイプされた乾いた明るさが清冽な後味。
舘野泉の左手に触発された世界が多様にせめぎ合い、人間の身体に始まり身体に還る、広い意味での「アート」の意義をふかく体感する昼下がりとなった (*文中敬称略。Kayo Fushiya)。