#1123 高橋悠治&波多野睦美/冬の旅 – 歩き出せ 世界の外へ –
2020年1月31日(金)東京三軒茶屋 サロン・テッセラ
Reported by Kayo Fushiya 伏谷 佳代
Photos: provided by Dawland and Company
<出演>
高橋悠治(ピアノ)
波多野睦美(メッゾ・ソプラノ)
<プログラム>
シューベルト:歌曲集『冬の旅』op.89 D.911(全曲)
共演を重ねて10余年となる高橋悠治と波多野睦美、気心が知れたふたりによる『冬の旅』全曲演奏会。きりりとした肌に突きささるこの日の外気も、プログラムの気分を盛り上げる。演奏に先立つ20分ほどのプレ・トークで波多野より喚起されたテーマは、「演奏している身体」。高橋悠治はふだん何を考えながら弾いているのか。次の展開を意識しているのか。楽器との関わりでしばしば言及される脱力や自意識との兼ね合いなど。のらりくらりと躱(かわ)す高橋は、「考えるより感じろ」と答えてその場を捲いてしまった。
なるほど、続く実演はその禅問答のようなプレ・トークのひとつの解答である。音と言葉がコラボレーションする場合、音は言葉の深層や意味より先に、その外形的な特徴をひろってしまう。その単語がどんな響きをもっているかに左右されるものだが、高橋が牽引してゆく音の推移は、言葉の形を無視していきなり意味的な深層をぐさりと抉る。その唐突さは不意打ちに近い。音と言葉の類まれなる溶解—音は言葉になり、言葉は音になる—。この日の波多野とのデュオでも、クラシックやロマン派といったスタイル、精確にスコアを再現するという演奏家としての職務、シューベルトを取り巻く時代の咀嚼、といった「入れもの」はすべて乗り越えられ(無視されるのではない)、根源的な音の力だけがそっと時空に置き去りにされる。それは最早、モヤモヤとした波動の次元に還元されているかもしれないが、結果としてこの奇特な歌曲集がもつ本質に寄り添っている。
そもそも『冬の旅』は、決然とした音楽でも、背筋を正して聴く類の音楽でもないのだ。たゆたう音の残像のかけらに、シューベルトという「人間」の尻尾を捕える人もいる。そういう邂逅であってよい。
プログラムには高橋自身による歌詞の日本語訳が掲載されている。レトリックが排除された、素朴でむき出しの言葉たち。語感も自然体。目前で波多野が歌いあげるドイツ語の世界をさらに膨らませてくれる。
さて、ピアノとヴォイスの織りなす豊かなテクスチュアは、具象と抽象のあいだを自在に行き来する。楽曲が示すタイトルは各々に世界観を区切るのではなく、部分と部分が絶妙に浮かびあがっては呼応し、独特の「気分」としてうねり、高まってゆく。旅に喩えれば、国境をまたいで都市と都市とを飛行し、大陸の全体像を俯瞰するような感覚か。ふたりの音は相乗し、影を追い、衝突し、増殖しては時に揮発する。それにしても転調の多いこの歌曲集、高橋と波多野は柔から硬まで驚くばかりの豊富なニュアンスで、蠱惑的な調性の妙をさりげなく提示する。明と暗が浸食しあいつつ、縦横無尽に変化(へんげ)する。押しつけがましさのない、エゴの斜め上をいく流動性。シューベルトという人間から溢れて止まぬ歌心も、意志を超えた衝動だったはずだ。詩(うた)は、気づいたらそこに「在る」もの。そんな思いがふとよぎる。演奏を聴き終えたあとも、ドローンのようにさまざまな音像が軋みあう。それらはおそらく、時を隔てても突如記憶の底から蘇ったりする、生(き)のままの肉声だ。(*文中敬称略)
<関連リンク>
http://www.suigyu.com/yuji/
http://hatanomutsumi.com/
http://www.dowlandjp.com/