#486 風ぐるま~時代を超えて音楽の輪を回す/波多野睦美/栃尾克樹/高橋悠冶
2012年11月9日(金) @トッパンホール
Reported by 伏谷佳代 (Kayo Fushiya)
Photos by 林喜代種 (Kiyotane Hayashi)
<出演>
波多野睦美(ヴォイス)
栃尾克樹(バリトン・サックス)
高橋悠冶(ピアノ/作曲)
<プログラム>
パーセル:ばらよりも甘く/ダイドーのラメント
ロジャー・クィルター:もう泣かないで
ピーター・ウォーロック:アダムは横たわって/恋人たちの春
クープラン:葬式と白いシャツ
高橋悠冶:鳥籠/突然の別れの日に/六番の御掟について*
<休憩>
テレマン:ファンタジア第6番/第7番
バッハ:私を憐れんでください(「マタイ受難曲」より)
バルダッサーレ・ガルッピ:ピアノ・ソナタイ短調op.1-3
マラン・マレ:膀胱結石手術図
*世界初演
<アンコール>
服部良一:胸の振り子
高橋悠冶:眠れない夜
服部良一:別れのブルース
「音楽の輪」の回し方
現代音楽界の重鎮、高橋悠冶が企画する「風ぐるま」は、そのサブ・タイトルである「時代を超えて音楽の輪を回す」が示すとおり、エンドレスに輪が回転する現在(いま)の豊かな在りようを、さまざまな切り口で見せてくれる。革新性を売りものにしたどぎつさはステージのどこからも見当たらず、ほのぼのとした雰囲気が終始一貫する。主宰者ながら(それ故に?)、縁の下の力持ち的な飄々とした落ち着きをみせる高橋悠冶に、バロックから現代まで幅広く活躍する声楽の波多野睦美、多様なアンサンブルでも名高いバリトン・サックスの栃尾克樹が加わり、それぞれのソロからトリオまでを配したプログラム構成である。特筆すべきは、実際の演奏がソロであれデュオであれ、ステージ上にはつねに3人が揃っていることである。例えば高橋のソロのときには、譜めくりの位置に波多野と栃尾のふたりが待機している。こうしたさりげないステージのワン・カットも、アットホームさを醸し出すのに貢献する。「音楽の輪」は、バロック期のイギリスから現代日本に至るという時空的なものだけでもなく、楽器のソノリティのヴァラエティだけでもなく、現時点での共同作業の円滑化によってはじめて回りはじめるという事実を視覚的にも後押しするかのようだ。
小さなギャップの連続が拓く日常の新境地
当夜をおおきく振り返ってみておもうのは、枠組みとしては紛れもなくクラシックのコンサートであったとは感じるものの、ところどころにフラットな、平時との垣根のなさを感じた。まず波多野が受けもつパートが、ヴォーカルとも、ソプラノとかアルトとかいった声域の別でも表記されずに「ヴォイス」であること。たしかに冒頭のパーセルなどでじっくりと聴かせたその「うた」は、発音もクリアな、語尾の処理にも意識的なものであり、地声での詩の暗誦に近い。起伏のおおさで感情を煽るタイプのものでは全くなく、聴き手は一語一語に分割される、小刻みな抑揚の連続に子守歌にも似た心地よさを覚える。音楽というものが非日常的な体験ではなく、日常のひとこまにするりと溶け込んでくるような、着実な手触りだろうか。逆にその巨体ぶりも鮮やかなバリトン・サックスだが、こちらも外見とは裏腹に威圧感は鳴りをひそめる。筆者のようにクラシック以外の文脈でサックスの音を聴くことが圧倒的におおい者にとって、爆音でも特殊奏法でもない「きれいな一音」を堪能することは稀でもある。かくも奥ゆかしい音を出せるものなのか、と新鮮であった。テレマンの「ファンタジア」を迎えるころには、耳が完全にベルから出る音のみに傾注する癖がついてしまっており、ふだんジャズ界隈などでタッピングが生む音もひとからげに平等なサウンドとして飲み込んで聴いていたのとはまた違った感覚となっている(タッピング音が目立つと逆に違和感を覚えたり)。クラシック音楽において、バリトン・サックスのために書かれた曲というのは相当少ないであろうから、必定フルートなど他の楽器のために書かれた曲をアレンジすることになる。楽器の個体差がありすぎると合わせるのに大変だろうが、例えばヴァイオリンの前身であるヴィオールのために書かれた「葬式と白いシャツ」(クープラン)などでは、音量に比して必要とするブレスの量が大きい感のあるこの楽器と、奇しくも適合していると感じた。大きな音圧は弦楽器が風を孕む感覚を呼び起こさせる。
言霊とサウンドの相乗、奏者の個性も鮮やかに
この日が初演となる高橋悠冶の3曲、「鳥籠」「突然の別れの日に」「六番の御掟について」はすべて詩人の辻征夫の詩に曲をつけたもの(高橋自身のMCによると、辻はあまり音楽とのコラボレーションとは縁がなかった詩人で、これまでに矢野顕子による「風邪のひき方」が1曲あるだけだという)。ヴォイスとピアノ~ヴォイスとサックス~トリオという構成ですすんでいくが、詩はどれも日常や連想の延長線上にあるホラー的な怖さをもつもので(人魂の入った鳥籠、や、魂だけ遠くへ去る子どものうたなど)、プログラムにも収められている歌詞もひらがなが圧倒的に多い平易さにかかわらず、グロテスクさで溢れている。それらが、前述したように単語として明瞭で、どちらかというと陽的ななめらかさをもつ波多野の唇のうえに乗ると、一瞬時空が定まらぬ白昼夢的な空恐ろしさが広がる。言霊とサウンドが相乗するのに成功している。高橋悠冶のピアノは、じつに作曲家らしいピアノである。頭のなかで製図ができているものを、寡黙に訥々と紡いでいく感じだ。ヤマや重心は殊更目立つことなく、点描的。それがまた詩やヴォイスの味わいを高める。最後に奏されたマラン・マレの「膀胱結石手術図」は、歌詞はキワもの。結石手術の一部始終がシンプルな言葉でぶつ切りに。ほぼ爽快なほどのリアリズムである。この日地味に低音を担っていた感のある栃尾のサックスも、解き放たれたような張りを見せていた。高音の艶やかなハーモニクスも美しい。さまざまな時代・国境・ジャンル・楽器編成を鮮やかに横切るなか、アンコールの服部良一を迎えるころには、もはや「この三人による今」がその場を圧倒していた。静かに、だが確実に身体に廻る高橋悠冶マジックか。(伏谷佳代)
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