#1144 松丸契 独奏
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
2020年9月26日(日) 下北沢・No Room For Squares
松丸契 (as)
1. Improvisation
松丸契がアルトサックスの独奏シリーズを続けている。演奏場所はさまざまである。この日のNo Room For Squares(NRFS)(下北沢)が3回目、他にNo Trunks(国立)、岡本太郎記念館(青山)、KAKULULU(東池袋)、そして次回の2020年10月にはCafe Beulmans(成城)。まだあったかもしれないと松丸は言ったが、それは模索をかなり積み重ねてきたことを意味する。スタイルは方法論として制約を課すためか、90分間の1セットのみに落ち着いてきた。
NRFSは開店から1年が経ったジャズバーだ。コロナ禍をなんとか生き延び、土日はライヴを行っている。なかでもこの独奏シリーズは際立ってユニークな試みであり、店主の仲田晃平も松丸にアイデアを出し、良い形で発展させようとしているようにみえる。
筆者が松丸の独奏シリーズを観るのは3回目だ。これまでの演奏を振り返ってみる。NRFSにおける独奏初回(2020年3月22日)では、旋律作りにフォーカスするという言葉通り、クリシェではないフラグメンツが出てきては構築されてゆくスリルがあった。ピアノや並べたグラスを共鳴体として利用することも試行した。前回のKAKULULU(2020年8月30日)でははじめて昼間の光が入る空間での演奏となり、それゆえ、周囲の風景との共存が観る者の心象に大きく影響する結果となった(おそらく本人にも)。また、楽器固有のメカニズムによる運動とどう折り合いをつけるのかという点が興味深く感じられた。他の日にはまた異なる展開があっただろう。
この日も暗闇の中で演奏された。松丸自身が時計を確認できるだけの明るさであり、観る者は松丸、サックスとピアノ、壁に描かれたハンク・モブレーの画くらいしか目に入らない。明らかに独奏者が自身の思考や行動に専念するための縛りであり、観る者もそれに否応なく集中させられる。やはり光は演奏を左右する大きなファクターだ。
90分間の展開はゆっくりではありながら野心的なものだった。大きな特徴は、アルトからの音波が壁やピアノや虚空でどのように響くかという「場のスキャン」ではないかと思えた。
ピアノのダンパーペダルを踏みながらアルトの単音をオーバルのように滑らかに変化させ、その結果、ピアノ全体の茫とした響きとアルトの響きとが時間差をもって追いかけっこをする。アルトのみを共鳴させる場合も、座って静かに吹くとき、座ったまま体躯を前後に動かすとき、立って歩いたりもしながら吹くとき、壁の隅に向けて吹くとき、壁に背を向けて吹くとき、立ってピアノに相対して音波のみでピアノを震わせるときなど、すべて異なる音色となって創出される。
音色はアルトの綺麗な単音のみによるものではない。重音や歪んだ音がさまざまに試される。ベルに布を詰めると、共鳴がアルト内部にとどまり、壁やピアノに音波が届かない。また、音と音との間隔を伸び縮みさせることによって、旋律の発展に響きも取り込んだ。
そして最後の数分間は、はじまりと同様にふたたびアルトからオーバルのような音を細心に出し、響きとも同調させ、全体の構成をかたちづくって終えた。
体感すると明らかにわかることだが、松丸契の独奏シリーズは狭義のサックスソロではない。もちろんサックス自体の旋律や響きも、その場で探索がなされる。それに加えて、サウンドは、サックスの管体や身体のみでなく、ピアノや壁や、場合によってはグラスや観客も共犯者となって創出される。そのプロセスでは、光のありようが演奏者のみならず観る者にも大きな影響を与える。それゆえ、観る者は音楽自体の物語から自分自身の物語へと意識を移し、語る者にもなる(語りの場はSNSでもある)。音楽学者の岡田暁生(京都大学)は、音楽の営為は「する」/「聴く」/「語る」のトライアングルによって成立すると説いた(『音楽の聴き方』、中公新書、2009年)。これがはからずも実現してしまったとも言うことができるのではないか。
サックスと場との共犯には、たとえば、大谷石採掘場でのジョン・ブッチャーの演奏、地下駐車場での清水靖晃の演奏、陸橋や地下鉄ホームでの白石民夫の演奏といった傑出した成果があった。松丸の独奏シリーズはそれとはまた異なる試みとして注目されるべきだろう。
(文中敬称略)