#908 照内央晴「九月に~即興演奏とダンスの夜 茶会記篇」
2016年9月3日(土) 四谷三丁目「喫茶茶会記」
照内央晴 (p)
横山祐太 (tp)
白石美徳 (ds)
藤田恵理子 (dance)
佐藤有紀恵 (dance)
Text and photos by 齊藤聡 Akira Saito
即興演奏家/ピアニストの照内央晴は、最近では身体表現とのコラボレーションをいくつも手掛けている。この日、札幌在住のトランぺッター・横山祐太が東京に来る機会をとらえて「何かやろうと思った」のだという。
ファーストセット、その1(照内+横山+白石)
白石が静かに足でバスドラムを鳴らし始め、横山は低音のトランペットで形を模索してゆく。照内のピアノが静かに入り、一方、ドラムスのブラシとトランペットの息が擦音のクラスターを創出。鍵盤は激しくなり、それを合図とみてかトランペットが高らかに吹きならされる。再び、照内自身が笑みを浮かべてしまうほどの緊張した静寂へと戻る。手も用いて一音ごとに気を遣うドラムス、訥々としたピアノ、トランペットのノイズ、ここにきて3人のプレイがようやく有機的に交錯し、音圧が高くなってきた。ピアノが和声や装飾音を展開するたびに音風景が変わり、横山のロングトーンや白石の擾乱がそれに応える。照内のピアノには<間>をコントロールせんとする意思があるように聴こえた。
ファーストセット、その2(横山+藤田)
床に座した藤田は、かろうじて関節がつながっているだけの存在だ。それが、横山の発する風によって血流が刺激されたかのように、まるで人形が次第に生命を吹き込まれていくかのように、立ち上がってくる。やがてトランペットが放つ微妙なトーンと円環が、物語を呼び起こす。この人形は、苦しみ諦念もみせる、哀れな生命だ。会場の椅子に何ものか大事なものを見出し、そのコミカルな仕草はドラマへと昇華していった。
ファーストセット、その3(白石+佐藤)
佐藤の踊りは、その前の物語的な藤田のそれとは異なり、体躯全体をメカニカルにくねらせ、幾何学的に展開する<運動>である。それはむしろ壊れゆく人形であり、ピアノを笑顔で叩く姿からは<狂>も漂っていた。白石はその生きたインスタレーションに対し、サウンドによって直接的な刺激を与えんとばかりに、シンバルを擦った。
セカンドセット、その1(照内+藤田)
木魚様の玩具を叩き、弦を触ることによって不穏さを醸し出す照内。ピアノの音数は少なく、ペダルでのコントロールに依存することなく、残響を創りだした。その音空間の中で、藤田が優雅に舞った。
セカンドセット、その2(照内+佐藤)
大きな波が、佐藤の体躯をなんども往来する。やがてピアノは静かな和声を提示し、なんと、<運動>であったはずの佐藤は、微笑みながら動きをぴたりと止めた。ここに、動かないことによる<運動>と緊張とが出現した。
セカンドセット、その3(全員)
ダンサーふたりが背中を合わせた。静かであり、外からは虫の声が聴こえる。白石の軋みと横山の風がそれに取って変わり、あたかも大きな生命体の息を創出するようだ。横山のペットがうたい、照内は奇妙な笛を吹く。藤田は「45!50!88!」と叫んだ。それはおそらく、誰もが逃れられない、矮小な生への執着そのものであった。一方、佐藤は椅子に座り、チェーン店の店員となり、マニュアルの笑顔を浮かべ、マニュアルの台詞を滔々と発する。藤田は「来ない、来るかもしれない」と憑りつかれたように乱れ、佐藤は世界から去る。生への妄執か、生の放棄か、どちらが<狂>なのか。そして再び現れた佐藤は、半狂乱の藤田に「来たよ」と告げた。
照内は、初顔の組み合わせや、落ち着かないところがあっても、それが即興の面白さを生む原点だと、筆者に言った。即興音楽も、即興ダンスも、その場で模索とシンクロの過程を経なければならない。それはもはや、表現者から鑑賞者に与えられる一方向のショウではなく、同じ時空間における出来事の共有だと思えた。
(文中敬称略)