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Jazz and Far Beyond

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Concerts/Live ShowsNo. 304

#1268 「And the music continues to evolve vol.20
~Voice from the Future」

text by 野田光太郎 kotaro noda
photos by 長久保涼子  ryoko nagakubo

「And the music continues to evolve vol.20 ~Voice from the Future」

2023年7月9日 、本八幡「cooljojo jazz+art」

西川素樹 Motoki NISHIKAWA (piano)
永田利樹 Toshiki NAGATA (bass)
ノブナガケン NOBUNAGA Ken (drums)
松本ちはや Chihaya MATSUMOTO (percussion)


今回も自分の企画した即興演奏のライブについて報告する。出演者たちは、フリージャズに似ていながら既存のパターンを巧妙に回避し、誰も聴いたことのないような未知のサウンドを実現した。アルバート・アイラーやオーネット・コールマンを初めて聴いた(もちろん CD で)時の驚きとおののき、そしていくばくかの当惑、といった思いが私によみがえった。それこそが真の「フリー」だ。全員が潜在能力を最大限に発揮し、白熱と静寂を使い分け、有機的な化学変化を司る。ジャズに縁の深いピアノとベースに対し、ドラムと打楽器の二人の非ジャズ系リズム・セクションを配することによって、ピアノトリオ的なフリージャズの限界を乗り越える演奏が出現したと思う。そこは私の目論見通りと言ってもいいかもしれない。もっとも、編成のアイデアはゲイリー・ピーコックの1970年代の『Voices』(CBS/SONY)というアルバムを踏まえたものなのだが、自分の知りえる最高の奏者を組み合わせることで、過去の偉大なプレイヤーの達成をも乗り越えるような音楽が出てくることを期待した。

ピアノの西川素樹のタッチの硬質さと引き出しの多彩さ、そしてその取り合わせの突飛さはずば抜けているが、今回はいつものように「猫ふんじゃった」などで遊んでいるヒマはなく、内に秘めたる美的かつ狂想的サウンドの極致を見せてくれた。耽美から破壊性、喜遊曲までと曲想の切り替えが俊敏で、それを可能にする変態的なまでのテクニックと、共演者をプッシュする左手のドライブ感も何気にすごい。私はリッチー・バイラークやポール・ブレイを聴くと、いつもその良さを感じると同時に「あまりにも甘美すぎる」という不満を抱くのだが、彼は完全にそれを止揚している。クリスタルの輝きを放ちながらもそこへ耽溺することなく流れを切断し、舳先を変える明晰さと、放り上げたボールが中空で止まるようなタイム感覚の特異性は特筆すべき。

永田利樹のここまで激しい演奏を私は初めて聴いた。とどろくような低音の深みや、ジャズの伝統に基づきながらも、驚くほど多彩な技法を駆使し、瞬時にその場にマッチした流れを作り出す。豊富な経験から出てくる多彩なアイデアは常に刺激的で的確だし、四方から意表を突く音の洪水が襲ってきても、それらを全身で受け止め、力業で塊へとまとめ上げていく、その揺るがぬ存在感は、生半な楽器の鳴らしっぷりではない。ほとばしる熱い血潮か、ドロドロとした溶岩流のようなサウンドが、年季の入った分厚い手のひらによって、アコースティックな楽器から続々とひねり出される驚き。そして最後は自己をむき出しにして音楽の鬼神と化し、全身でぶつかってくるような気迫のこもったプレイ、これにも驚いた。彼のファンすらも知らないような姿を知った思いがする。

それにしても、松本ちはやこそ音楽の化身だ。ドラムと組むと打楽器はどうしても補助的になってしまうのだが、彼女は別格。メンバーの顔触れから、えてしてダークなサウンドに傾きがちなところ、じつに自由奔放な発想で意外な展開をもたらし、新鮮な驚きをあたえてくれる。感傷に浸るスキをあたえない、彼女は疾走する野生の風だ。多種多様な楽器を常に完璧なタイミングと鳴らし方で用い、冷静な判断力と、行くときは徹底して行く大胆不敵さを兼ね備える。乗りまくってくると誰にも手が付けられないほどの脅威のスピード感を発揮するが、その驚きは手わざだけでなくリズムの変幻自在さによる。

しかし松本だけだと演奏が遊戯性に傾いてしまうかもしれないところ、ノブナガケンが入っていることで演奏に「重し」が効いた。まさかドラマーが演奏を抑制する側に回るとは、ノブナガならではのいぶし銀の役まわり。音を出すことで逆に沈黙の大切さを意識させるとは、彼にしかできない芸当だ。不動のスタンスから繰り出す「ボヲン」と残響を利かせた低音と、幕を断ち切るようなシンバルの一閃が空気を引き締める。たった一つの音で夜の闇を感じさせる、とにかくストイックでスタイリッシュでムーディーなミュージシャンなのだ。植物性のブラシや細い菜箸を用い、音量を極力抑えたプレイだが、目立たないところで揺るがぬ存在感を示し続ける。あらゆるタイプのプレイヤーと共演を重ねてきただけあって、いかなる混とんとした局面でも一貫した集中力を切らさないが、その根底にあるものは演奏を通じて卑小な自我を超越したいという意志だろう。つまり彼の演奏は一種の瞑想のような雰囲気を醸し出す。

もちろん現代の即興音楽界は、さまざまなポスト・フリージャズの諸経験を経ているので、出演者はそれぞれの経由で新しい要素を消化して、その成果を持ち寄っている。では何が一番違うかというと、「音楽」の概念の拡張だろう。既存の音楽のパターンを解体するとはいっても、無機質な音響に還元するのではなく、インスタント・コンポジション的に常に「音楽性」を意識しつつ、同時に共演者と背反するものをぶつけたり、急激にパターンを変えてしまう。お互いにやってることを的確に読みあいながら、調子を合わせるだけでなく、内なる声に従って大胆に自分のオリジナリティをぶつけてくる。それが「異質なものの衝突」や「ジャンルの継ぎ接ぎ」に聴こえないのは、プレイヤーが音楽の構成要素を非常にミクロなレベルまで細分化して把握しているからだ。ようするに過去の音楽体験を自分の身体を通じて消化しているということ。この集団即興で出現している状態は、音楽にとっての「生命のスープ」みたいなものだ。彼らは無音やカオスティックなノイズといった音の「ゼロ地点」をいったん意識したうえで、なお構成的に音楽を目指すことを全員で心がけている。それも即興のコミュニケーションでやり遂げている、というか、これは即興だからこそできることだろう。

まあ、何も知らない人が聴いたら、「みんなが勝手にめちゃくちゃやってる、わけのわからない演奏」と思うのだろうけど、フリージャズやデレク・ベイリー的な演奏までもが既成の音楽ジャンルの一つのように見なされている現在、それよりラディカルな音楽がそのように聴こえるのは、まさに「してやったり」ではある。自分もこれまでいろいろと先鋭的な即興表現を聴き巡ってきたからこそ、彼らのやってることにかろうじてついていくことができているわけで、リスナーもまた能力が試される場面でもある。でも「めちゃくちゃで面白い」と感じてくれる人がいたら、本当に大成功だ。

あえて強調すると、やはり松本の特異性がすばらしい。彼女はフリージャズのセオリーを知っていて、あえてそこを外すサウンドをぶつけてくる。それでいてじつに自然にふるまっている。知的な洞察力と直感的なひらめき、意表を突く発想、そして決断の速さと、それを貫く意志の強さ。そして彼女のリズムの特色は、まずプリミティブなパターンを打ち出しておいて、そこに加速と減速、打点と打点の間の伸縮を加え、音をミュートするなどしてアクセントを付けることで揺らぎを生じさせるなど、非常にオーソドックスな手法なのだが、自分のやっていることが他の奏者にどんな影響を与え、展開している音楽の流れにとってどんな意味を持つか、よく知り抜いている。最近よく見る、複数のリズムパターンを掛け合わせて複雑さを出そうとする手法は、よほど考え抜いていないとすぐに増殖が飽和して身動きが取れなくなってしまうので、じつはシンプルな松本の戦略こそが自由度が高いのだ。単純でも微細な調整のほうが、細かく変化させやすいゆえである。そして、なんといってもそこには音楽の可能性を切り開こうという志があり、また同時にそのことは松本にとって面白くてしようがない「最高の遊び」でもあるのだということ、その歓喜のエネルギーは即興演奏の未来にとって何物にも勝る大切な、そして「新しいもの」なのだ。

野田光太郎 

野田光太郎 Kohtaro Noda 1976年生まれ。フリーペーパー「勝手にぶんがく新聞」発行人。近年は即興演奏のミュージシャンと朗読家やダンサーの共演、歌手のライブを企画し、youtubeチャンネル「野田文庫」にて動画を公開中。インターネットのメディア・プラットフォーム「note」を利用した批評活動に注力している。文藝別人誌「扉のない鍵」第五号 (2021年)に寄稿。

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