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Concerts/Live ShowsNo. 306

#1272 現代音楽系即興サックス奏者・植川縁「夏の即興祭」2023

Text and photos by 野田光太郎 kotaro noda

ベルギーやオランダで現代音楽のテクニックを修めた即興サックス奏者の植川縁(うえかわ・ゆかり、as, ss, suling)がオランダから一時帰国し、広島を皮切りに東京など12か所でライブを敢行した。そのうち筆者が足を運ぶことのできた都内のライブをいくつかレポートする。

まずは8月27日、六本木のサントリーホールで行われた「三輪眞弘がひらく ありえるかもしれない、ガムラン Music in the Universe」なるコンサートの一幕。ここでは即興ではなく、植川のもう一つのライフワークであるガムランとの共演、および現代曲の演奏を聴く貴重な機会だ。植川は小出稚子作曲の〈Legit Memories〉(2023年)に出演した。共演はガムランのグループ「マルガサリ」、さとうじゅんこの歌。冒頭はほとんど植川のソロで構成されたパートで、クラシックのサックスゆえの優美だが引き締まった音色がホールに響き渡り、詰めかけた聴衆の関心が一点に集中する。静まりかえった空間に朗々と楽器が吹き鳴らされる緊張感が心地よい。端正なマルチフォニックなどさまざまな奏法を披露した後、ガムランが入ってくると荘厳な雰囲気が醸し出されるが、さとうのおおらかであくの強い歌謡(どことなく沖縄の民謡を連想させる節回し)とサックスのメロディアスでくつろいだ伴奏とにより、一気に「俗」へと空気が切り変わる。祝祭感を媒介にした聖なるものと俗なるものとの反転。ガムランと歌との共演が一般的なものなのか筆者にはわからないが、さしずめ架空のフュージョン音楽とでもいった趣だろうか。

8月30日は大泉学園の「IN F」(インエフ)にて、坂口大介(bs)、森紀明(as)とのサックス・トリオ。曲によってハンドサインを用いて異なるタイプの音のパターンを対置したり、バロック的な音階を使ったりと、三人ともいかにもクラシック/現代音楽出身者らしい頭脳的な演奏で、テクニックもフリージャズのそれとは発想が違う。複数の音を同時に出したり、ロングトーンの響きを微細にうねらせたり、軋みなど非楽器的な音響を発したりと、技術的には難しそうなことを易々と使いこなすが、激しく濁った音色を用いるとか、音を割るようなことはしない。身体感覚を嗅ぎ取らせないのだ。折り目正しいというか、即興にも拘らず整然として、直線的で冷ややかに抑制された演奏。この三人での演奏はほぼ初顔合わせということもあり、実験色の濃いぎこちない内容とも言えるが、私にとって日頃はまず耳にすることのないタイプの音楽で、ユニークな体験だった。

続いて9月3日は私が企画した渋谷「公園通りクラシックス」でのライブ。照内央晴〔テルピアノ〕のピアノ、クリストフ・シャルル(Christophe Charles)のコンピュータとエレクトリック・ギターという、現代音楽の影響の強い即興演奏家としては私が考えうる最良の共演者を迎えた。ここでの三人の演奏のすばらしさは筆舌に尽くしがたいものがあり、ダークでありながら光輝に満ちた音の数々が降り注ぐさまは、さながら嵐吹きすさぶ暗夜を曳航される巨大な船が時折り星明りに照らし出される姿を思わせ、粛然とさせられた。らせん階段を思わせる和音と不協和を錯綜させ壮麗な鉄壁を築くピアノ。その間隙に音の粒子を忍び込ませ鋭く亀裂を走らせるギター。縦横無尽に歌い、叫び、うなり、舞い上がり、未知の鳥類を思わせるサックス。その激しくもつややかに磨き上げられたサックスの音が照内にインスピレーションをもたらし、すさまじい雷鳴をとどろかせる。引き起こされた津波をテグスを伝って駆け上るがごときシャルルのギターは氷河の凍結する軋みを立て、植川はアルト、ソプラノのサックスだけでなく音量の小さいスリン(インドネシアの笛)でもひるむことなく流麗に大波を乗りこなしていく。私が初めて植川の演奏を聴いたのも照内との共演だったが、三年前のその時には彼女がこれほどまでの演奏家になるとは思っておらず、短期間での成長ぶりに驚嘆させられた。さらにシャルルのコンピュータが音圧の膨張と収縮により空間をデザインし、パースペクティヴを変容させ、あるいは大胆に自然音を用いては演奏行為という人間の営為を相対化してみせる。自分のこれまで聴いたあらゆるライブの中でもベストともいえる内容だっただけに、わずか四人という聴衆の少なさが悔やまれてならない。

9月5日は高円寺「ORIENTAL FORCE」にて、ウチダヨシノブとのデュオ。ウチダはコンピュータの自動読み上げ機能を使い、アニメ声の女声、それもとりわけおかしなイントネーションで読み上げるソフトでネット・スラングなどをしゃべらせ、さらにそれをレコードのスクラッチのようにバラバラにしたり、しつこく反復したりする。これはテクノの「電気グルーヴ」が2000年に発表した『VOXXX』というアルバムでも用いていた手法で、illな(異様な)ムードを醸し出す。悪意に満ちた可愛さ、とでもいうか。同時にプロジェクターからもどぎつい蛍光色のコラージュや図表などが投影される。店のアクの強い内装とも相まって、いかにも高円寺のアンダーグラウンドなライブハウスに似つかわしいサブカルな雰囲気満載だ。さらにエレクトリック・ベースとエフェクターを駆使し不規則なノイズを撒き散らす。そんな聴き慣れない邪悪なサウンドにも植川は自分のスタイルを貫きつつ、美麗なサウンドで一歩も引かず吹きまくり、かつ相手の曲想の切り替わりやエスカレーションのタイミングを巧みにつかんで流れに介入するなど、インプロヴァイザーとしての成長ぶりを発揮していた。

9月8日は再び「公園通りクラシックス」にて、私の企画した五十嵐あさか(チェロ)、松本ちはや(パーカッション)、梶山真代(フルート)との通称「即興カルテット」のライブ予定だったが、折悪しく台風のため松本が来場できず、三人での演奏となってしまった。即興のエキスパートであり「司令塔」ともいえる松本の不在により、いささかダイナミズムを欠いたプレイになってしまったが、その分パストラルな雰囲気や個人技が冴える内容となった。こういうハプニングの際はたとえ一人でも演奏を成り立たせる意志の大切さを痛感させられる。動物の形態模写、日本の現代音楽が愛用してきた日本情緒あふれるメロディの風雅さ、肉声を用いた即席のアンサンブル、12音技法風のトレモロなど、各々が得意とする共通領域の素材を注ぎ込んでいく。管の対位法的なインタープレイから、チェロの弦が最初は優しくなでるように、次第に鋭く吹きすさぶ風を送ると、フルートとサックス、スリンが飛び回る鳥の群れのように無数の音をまき散らし、旋回しながら果てしなく舞い上がっていく。いわば音の点描ともいえるこうしたサウンドを耳にすると、私などはどうしてもムハール・リチャード・エイブラムスの〈バード・ソング〉や富樫雅彦の諸作などを思い起こしてしまうのだが、この日の出演者たちはそういったフリージャズの系譜とはおそらく一切つながりがない。それがいいことなのか悪いことなのかわからないが...手法は似通っていても根本にある発想は過去のそれらとは異なっているといえる。荒々しく鋭利な場面があっても、あくまで優美で温もりに満ちた安静なる世界の嬉遊曲を指向する、このカルテットの特徴が表れたステージだった。

その翌日の9月9日には阿佐ヶ谷の「イエローヴィション」で林栄一、吉野繁とのアルト・サックスそろい踏み。大ベテランである林との共演は三度目で、植川と林は音のピッチを微細に操り、マルチフォニックや循環奏法を駆使しチェイスしたりハーモニーを作り出す一方、吉野は野太くざらついた音色でしゃくりあげるようなうめきを上げ、そこへ荒々しく踏み込んでいく。典型的なフリージャズと現代音楽系の奏者の共演ということだが、不思議と溶け込んでいたのは植川の音色が前回よりもさらに強度を増していたためだろう。尊敬するという林のプレイに果敢に挑み、肉薄していく植川の姿勢はさすがで、サックスで「歌い上げる」というフリージャズ特有の局面からも確実に何かをつかんでいたようだ。後半のセッションタイムでは多数のサックス奏者やドラマー、パフォーマーまでが次々と登場し、あらん限りの大騒ぎを繰り広げた。

さらに明くる9月10日は武蔵境の「810 OUTFIT cafe」にて、私の三回目の企画ライブ。ここでは鈴木美紀子(エレクトリック・ギター)と本田ヨシ子(ヴォイス)という、東京の即興シーンきっての個性派との共演を試みた。ロック系といえる鈴木と分類不能な本田だが、両者の相性は良く、強烈にサイケデリックな効果が期待できる。そこへクラシック出身の植川がどう対峙するか、レアで予測困難な組み合わせだ。鈴木はエレクトリック・ギター特有の長く伸びるサウンドで蚊が飛ぶような音を宙に放ち、減衰する残響を陽炎のように揺るがせながら、錘で水深を計るがごとく波紋を広げる。探りあいの神経戦が続くかと思われたが、本田の惑乱するヴォイスが急速に不穏なムードを引き出していく。妖しげでつややかな美声を張り上げたかと思うと、異国のテレビのコメンテーターがシニカルにしゃべっているような語りに替わり、次は憤る老婆のうめきのような低く潰れた声へ、やがては狂乱するシャーマンの金切り声へと、次々とキャラクターを変化させる。それが曲芸じみた百面相のようにではなく、流れのある一連の「演奏」として聴こえるのは、たとえばラジオのチャンネルをメチャクチャに回し続けた時に聴こえるランダムな音の羅列が、次第に何らかの意味ある劇の一部のように錯覚されてくる作用にも似ている。植川はその「声の音楽」を楽器に翻訳したかのような演奏。両者のインタープレイに鈴木の水面のうねりのようなエフェクティブなサウンドが対置される。ギターからありとあらゆる特異な響きを目まぐるしくひねり出しつつも、時に無造作なほどロック的なリフが挿入されたりと、アメーバのような様相を見せるが、そこにはダークでありながらカラフルに光り輝き、無限に下降していくような感覚がある。

連日のライブでも緊張感を切らさない植川のタフさにも感心したが、ギターのコード感覚とヴォイスの語調によるリズムという、およそ異質な二つの要素に同時に呼応しようとするようなプレイには驚いた。ノイジーな展開にメロディアスな旋法をぶつけるなど発想も豊かで、技術だけではなくインプロヴァイザーとしての「見識」においても長足の進歩を遂げているのだ。そして最後は虚空に天界の花が咲き神々しい鳥が飛ぶような壮麗なバラードで締めくくる。全員がポテンシャルを出し尽くした魔境ともいえるステージだったが、客席はほぼ埋まっており小学生の観客もいた。

9月12日は照内央晴の率いる「チーム照内」の一員として、入谷の「なってるハウス」にてKagari(dance) と森下こうえん(身体)との共演。ここではKagariのトリックスターともいえるいたずらっぽく天衣無縫の振る舞いと、放心した少年を装った森下の老獪な挑発により、楽器と踊りの共演という枠を超えた、全身参加のパフォーミング・アートが繰り広げられた。照内はピアニストとしての自己から離れ一人の「存在」としてうろつき回り、植川はサックスを他人の身体に押し当て、より直接的なコミュニケートを試みる。無言の音楽劇ともいえるこのシチュエーションにおいては、楽器も体の動作もすべてが同じ地平に並び立っているかのようで、全員が絡み合いもつれ合ってはまた離れていく筋書きのないドラマのうちに、それぞれの価値観の持ち方や人間性の複雑な本質があぶりだされてくるようであり、ちょっと文学的でもある不可思議な時間だった。普段の演奏中とは異なり生身と感情をあらわにした彼らの姿からは、「即興」とは自分がここにあり生きることそのものだという「教え」が浮かび上がってくるようだ。この東京での最後の公演を終えて、植川は次の出演の地である長野へと向かった。オランダに帰国した後、再び訪日するのは来年の冬になる予定だという。演奏家として一回りも二回りもスケールを増した彼女の今後の躍進に期待したい。

野田光太郎 

野田光太郎 Kohtaro Noda 1976年生まれ。フリーペーパー「勝手にぶんがく新聞」発行人。近年は即興演奏のミュージシャンと朗読家やダンサーの共演、歌手のライブを企画し、youtubeチャンネル「野田文庫」にて動画を公開中。インターネットのメディア・プラットフォーム「note」を利用した批評活動に注力している。文藝別人誌「扉のない鍵」第五号 (2021年)に寄稿。

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