#1298 中村善郎ソロ
2024年 4月12日 京都 アイガットサロン
text by Shuhei Hosokawa 細川周平
放念の境地
そのサロンは京都の街はずれにある30人定員の木調スペースで、ふだんは古楽などをかける。部屋の奥にはJBLのパラゴンが置いてある。贅沢な趣味のオーナーらしい。客席と同じ高さにギタリストが座っている。
中村善郎を聴くのは久しぶりだった。登場するや、この頃あまり歌わないんで覚えているか心配ですととぼけたが、一曲目「あの子リオの子」を歌いだすや否や安心、いつもの艶の輝く声が聴こえてくるだけで満足、あとは任せておけばよい。ゴンドラに乗って船頭の歌にからだを委ねているようなものだ。実際、ゆらゆら感の歌を意識して続けた部分があった。ブラジルが南半球の夢の国のように持ち上げられた1960年前後の数年間、ボサノバは豊かさを享受した中間層の幸せ感をふくらませた歌として、まず国内で愛された。サウンドだけでなく、歌詞も前向きで他愛なく、浮遊していると説明された。それは解説がないとわからない。たとえば少し後の曲だが、「三月の水」は夏の終わりの大水で、いろいろなものが流れてくるのを見ながら、あの子を思い出す季節感込みのセンチな歌だそうだ。なぜ歌うのか、どんな歌なのか知ると、30人は歌手に気持ちで近づく。
プレイリストを用意せず、その場でおしゃべりしながら曲を決めていく進行で、語りは客への解説と同時に、歌手の気持ちを導く重要なパートだ。親密さが会場に漂う。歌詞を忘れているかもと何度もぼやいていた。若い頃から愛唱しているのにと本当は言いたいのかもしれない。ボサノバ以前、嫉妬、悲嘆など恋のどす黒いもつれはサンバ歌謡のお得意だったが、ドツボに落ちる前に踏みとどまって粋にかわし、それもどこかで崩れているのがお好みだそうだ。ずいぶん微妙だが、いろいろあるなか、そういう歌だけが彼のストックに残ったというほうが正しいだろう。「あなたは恋を知らない」を選んできた。ブラジル音楽一世紀の歴史の大きな流れでボサノバに近づいている。休憩中にボサノバのデビュー曲「想いあふれて」をリクエストしたら、第二部で歌ってくれた。後でお礼すると、もっと上のキーで歌えばよかったかもと返事が返ってきた。曲だけでなく、キーもその場で決めるらしい。それはブラジル流ギターを覚えていればの対応だろう。
ボサノバの名曲は複雑なコード進行で知られているが、それはジャズ経由で(つまり楽譜で)考える人の発想で、ブラジルのギター弾きはもっと簡単に、決まった指使いを平行移動するだけで弾いている。その抜け道を覚えれば恐れるまでもない、あとは歌がついてくると何度も実例を示してくれた。彼がボサノバを発見したのは1970年、バーデン・パウエルが大阪万博イベントで来日したのを見て衝撃を受けた。ギターを弾き始めたものの、周囲の大学生がフォークやブルースに突っ走り、政治的主張や演奏スキルの競争に向かうのには距離を感じた。そんななかブラジル音楽のありようは別格で、1977年、満を持して渡航、しかしボサノバはとうに廃れ、若い世代が聴くものではなかった。遥かな国から懐メロを追っかけてやってきた天然記念物のような目で見られた。
それでもリオ下町のバールで、歌好き連中が安ギターを思い切りたたいて歌うのには、南北ひっくり返ったような衝撃を受けた。ギターのことをよく「ひとりのオーケストラ」というが、こんなやり方もあるのかと驚いた。粗放を奔放の美学に磨き込んだのが、ジョアンたちだった。善郎さんにはジャズはパズルや幾何学のように綿密すぎて馴染めないのだそうだ。普通ブラジリアン・ジャズと言えば、あるリズム・パターンの洒落た雰囲気を指しがちだ。反対に彼が心を寄せてきたブラジルの歌は血が通い、フォークに近い。
ジョアン・ジルベルトはブラジル北東部の奴隷貿易で栄えた旧都バイーアの出身で、その地方はバイオンという民謡で知られる。リオ人には田舎臭く聴こえたはずだ。それがトム・ジョビンとヴィニシウスのおしゃれな編曲・歌詞と合流したのが新しいノリの原型だった。その夜はそう断って、バイーア讃歌のバイオン「ふるさとのサンバ」を歌いだした。
トム・ジョビンはステージ歌手ではなかったが、よく自作を合唱楽団つきで歌い、後年にはピアノ弾き語りを録音した。歌い上げるとは正反対、くすんだ声質で地味、普通のオーディションだったらきっと落ちたが、味がある。歌っている人がそこにいるという意味だ。こんな風にスタジオでは歌手に歌って聴かせたのか、これが調子外れの極意なのかと思うと感慨深い。よく知られるように彼の名曲「調子外れ(デサフィナード)」で、ジョアンが「♪これが新しいノリ(ボッサ・ノーヴァ)、とっても自然」と歌ったのがきっかけで、60年代初頭、ブラジルでは彼らが引っ張る歌の新風がそのあだ名で呼ばれた。それまでのサンバ歌手とは一線を画したバイーア訛りの拍子感覚(ボッサ)で、新しい曲想の歌を歌った。調子外れは確信犯だった。革新に対する事後承諾だった。その意味には語るのか歌うのかわからない(ように最初は聴こえた)ジョアンの声のスタイルも含まれている。
当時意表を突いたそのヴォーカルを年若の日本人がやろうというのだから、妙と言えば妙だが、その外れそうな調子をいつもながらとても自然に歌っていた。その日、初めのうちに歌った「コルコヴァード」も「ワンノート・サンバ」も、アンコールで歌った「悲しみ」も「ソーダンス・サンバ」も、その新しいノリを世に知らしめたお決まり曲だ。普通ならカバーと呼び、影響や近似の具合を聴き込もうとするが、彼の場合、その段階を超え、無邪気の域でブラジルの歌手に近づき、あとは声質の違いだけに聴かせどころを置いているかのようだ。
ジョアン・ジルベルトは30代でアメリカに招かれ人気を得たが、北米を中心に海外に広がるジャズ界では熱帯風おしゃれ味に終わり、60代にはブラジルにもどってフォークっぽい弾き語りに回帰した。彼には知る限り3曲しかオリジナルはないが、どれもビンボン、パラララなどお気楽な調子ことばでほとんど歌い通し、せいぜいサビでこんな歌を心から歌って君に聴かせましょうと恋を打ち明けるだけ、その曲では歌っている状況、歌がつなぐ気持ちそのものを他愛なく歌っている。スキャットというと洒落ているが、日本ではもともと口三味線という。原始的だが、世界中どこでも歌の極意は歌詞以前の声の遊びにある。
中村善郎はそのうちの「ウンディウ」を元のままに歌って、ジョアンに敬意を表した。それは境地と呼ぶ域に達していた。今ある姿を無理せず、そのまま歌っているからだ。曲ごとの記憶を声で表わし、彼の半生を聴くようだった。PAなしでその声を至近距離で聴けたのは、いつもより大きな満足だった。出来や技術とは別の域にあって、通常の批評鑑賞文は意味をなさない。人柄や気分をそのまま語りと歌にして、わずかなオーディエンスと思い(サウダージ)を分かち持った。