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特集『菊地雅章 77th Anniversary』No. 231R.I.P. 菊地雅章

菊地雅章 77th Anniversary 2 杉田誠一

菊地雅章 77th Anniversary特集

菊地雅章 77th Anniversary 特集
アーカイヴ 2

「菊地雅章の緋牡丹が栗に変転するとき」 雑誌「ジャズ」主幹 杉田誠一

*菊地雅章リサイタル — 「菊地雅章+ギル・エヴァンス・オーケストラ」(1972年6月27日〜7月2日) のために制作(あいミュージック株式会社)されたプログラムより筆者の許諾を得て転載

1970年 3月「リ=コンファメイション(再確認そして発展)」吹込み。
1970年 7月 ニューポート・ジャズ・フェスティバルにエルビン・ジョーンズ・コンポの一員として参加。
1970年11月 サンケイ・ホールにてリサイタ

1970年は、菊地雅章にとってさりげない鮮烈さを伴いつつ一画期を呈している。それは『緋牡丹博徒』(監督=山下耕作)で純白の牡丹が血ぬられた緋牡丹に変転したのと殆んど同じぐらいにあらゆる予感をさわやかに孕んでいる。

ロード・アイランド州ニューポートのフェスティバル・フィールドヘ、菊地はニューヨークから車でやって来た。羽田を発ったときと同じブルーのシャツとジーンの菊地は、あまり喋らなかった。貧血気味のあの優しいまなざしは、エルピン、フランク・フォスター、ジョージ・コールマン、ウイルバー・リトルらと現出した未踏の激しい静的な世界をすでに見すえていた。

7月11日の午さがり、私は正直なところシラケていた。ジャン・リュック・ポンティらのバイオリン・ワークショップ、ディジイ・ガレスビーらのトランペット・ワークショップと、決してファナティックになりえないステージだけのせいでもなかったのだが、そうとうに消耗していた。神経だけがまるで他人のもののようにビリビリと苛立っていた。今年のニューポートはツマンネエナ、という類の会話をバックステージでポソポソと統けられたことが、私にとってはある種の敦いであったのかもしれない。楽屋の一角からホットなピアノ・ソロがガンガン響き渡ってくる。「キース・ジャレット、うまいね」と、ポツリ。しかし、視線は全くといっていいぐらい静止したままだ。渡辺貞夫のステージが不完全燃焼のまま終末を迎え、エルビンらは各々の楽器を手ぎわよくセットしはじめる。

ヘンシーン、というわけではないが、エルビンのクヮルテットを従えて、といっても決してオーバーではないほど、菊地のプレイは突出していた。そのタッチの暖かさは特に印象に残る。99%以上が菊地のプレイをおそらく初めて聴いたであろうニューポートの聴衆の大半が、ファンタスティックという言葉を反射的にWらせた事実一つをとっても、いかに菊地のピアノが呪縛的であったか判る。人はよく、菊地がピアノを叩きながらの唸り声が耳ざわりだという。

「やめようと思うんだけど、自然に出ちゃうんだよね」と、いうのが菊地自身の弁。ピアノを叩きながら無意蔵に唸るなんて、私にはとても素敵なことだと思う。耳ざわりだと感じる耳は、それだけ教育されてしまったことの証しとなる。バド・パウエルの唸り声を今さら引き合いに出してみても仕方がない。パウエルはパウエル的に唸ったし、菊地も菊地的に唸っている、という説明をこと菊地に関する限り拒否したい。何故ならば、何よりもまず菊地の音楽が自律しているからだ。

位相あるいはレベルを相対的に問題にすることをやめてしまった私にとって、菊地の音楽をアメリカの、あるいはヨーロッパのそれと比較することは、殆んど無意味なことと思われる。「—— 的」というある種のファクターをいくら並べたてたところで、トータルな菊地ミュージックは全くみえて米はしない。たとえば、菊地の音楽はアフロ・アメリカン的だ、といってみてもドメクラが象の一部に触れただけにすぎない。アフロ・アメリカン的だという理由を丹念に語っていくことはそう難しいことではないかもしれぬが、それ以前に菊地は何よりもまず日本的なのだ。そのシステムの中に組み込まれた菊地の音楽を構造的にとらえることから始めなければならないのではないか。

すさまじくリリカルで激しい音楽を煽情的にくりひろげた菊地は、ト二ー・ウィリアムズのライフ・タイムにはそう大した興味も示さずにニューヨークヘもどっていった。その夜、ケニー・バレル、デクスター・ゴードン、ドン・バイアス、ニーナ・シモン、ハービー・マンらがそれなりに自らの世界を凍結していったが、どのステージを抽出しても菊地の烈しいパワフルな静を踏襲しえたものはいなかった。
1972年1月 再びエルビン・ジョーンズ・コンポに参加。トリオでレコーディング。
1972年2月 『ヘアービン・サーカス』吹込み。
1972年6月 菊地雅章十ギル・エヴァンス・オーケストラ。
まぎれもなく、現在の菊地は『再確認そして発展』の延長線上にある。『ヘアーピン・サーカス』で再び弟の菊地雅洋を起用、そして近々富樫雅彦をパーカッショニストとして自己のレギュラー・グループに参加させるということは、素直に納得できよう。「菊池雅章は俺が裏切れないミュージシャンの1入だ」(リサイタル・パンフレット)と、かつて書いたように、個的なジャズとのかかわりからすれば、菊地はまさにジャズ風景における一旋回基軸だ。この度のギル・エヴァンス・オーケストラには、私なりに相当期待乗数が高くなっているのだが、その対極として『ポエジー/菊地雅章十富樫雅彦』(1971年)の成果があげられる。『ポエジー』をより深化させた形でソロ・アルバムが企画されるのもそう遠い未来ではないかも知れない。わが幻のソロ・アルバムを想起しつつも、菊地十ギル・エヴァンスオーケストラに一つの照射を試みることは正当だ。

ギル・エヴァンスの下でトータ・レに覚醒された音群と菊地の叩き出すピアノの一音一音が桔抗してバランスを永続的に保ちうる可能性というのは決してそう多くはあるまい。オーケストラにおけるおびただしく意識された音群と菊地のまさに一音とが交感しうるには両者がいかに沈黙と測りあえるかだ。日本的とは何か、という設問をひきずりながら、「サウンド・オブ・サイレンス」の恐ろしさを認識したとき、武満傲と菊地が出会うことも必然のように思われる。

とまれ、私は菊地雅章の緋牡丹が変転するあのゾッとする瞬間を夢想する。それは黒へと変転するときだ。

  • 編集部注:60年代、70年代の学士運動華やかなりし頃は、党派ごとにカラーの異なるヘルメットをかぶって自派のアピールをした。そんな中にあってどの党派にも属さず自立の道を歩んだ学生は黒いヘルメットをかぶりアナーキーと呼ばれた。筆者はこの黒いヘルメットを想起しているものと思われる。 


    菊地雅章リサイタル
    菊地雅章+ギル・エヴァンス第1部 菊地雅章カルテット
    菊地雅章(ピアノ/ エレクトリック・ピアノ)
    峰厚介(テナーサックス/ソプラノサックス)
    鈴木良雄(ベース/エレクトリックベース)
    中村よしゆき(ドラムス)

    第2部
    菊地雅章ピアノソロ

    第3部
    菊地雅章+ギル・エヴァンス・オーケストラ
    菊地雅章(エレクトリック・ピアノ)
    ギル・エヴァンス(ピアノ/編曲・指揮)
    ビリー・ハーパー(テナーサックス/フルート)
    マーヴィン・ピーターソン(トランペット)
    オーケストラ

    6月27日   新宿厚生年金会館大ホール
    6月30日  大阪フェスティヴァルホール
    7月   1日   和歌山県民文化会館
    7月   2日   名古屋市公会堂

    後援:アメリカ大使館/アメリカセンター/スイングジャーナル/ニッポン放送
    プロデューサー:鯉沼利成

杉田誠一

杉田誠一 Seiichi Sugita 1945年4月新潟県新発田市生まれ。獨協大学卒。1965年5月月刊『ジャズ』、1999年11月『Out there』をそれぞれ創刊。2006年12月横浜市白楽にカフェ・バー「Bitches Brew for hipsters only」を開く。著書に、『ジャズ幻視行』『ジャズ&ジャズ』『ぼくのジャズ感情旅行』他。

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