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~No. 201ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥R.I.P. セシル・テイラー

#30 セシル・テイラーの「京都賞」受賞を祝う

セシル・テイラーの「京都賞」 - 1 セシル・テイラーの「京都賞」 - 2

「セ~シル・テイラー・ユ~ニット!!」。レコードに針を下ろすといきなりMCの絶叫する声が耳に飛び込んでくる。悠 雅彦氏の壮年の声である。そして、その声にかぶるようにしてピアノが、アルトサックスが、そして、ドラムスが雪崩を打って出てくる。あとは、せき止めていたダムの水が一斉に放出されるように怒濤のような音の洪水の嵐となる。初っ端からメーターがピークを打ち、振れが戻ることはない。サウンドチェックもないままに始まったセシル・テイラー・ユニットのライヴ・レコーディング。それなりの覚悟はしていたものの、額に脂汗を浮かべるミキシング・エンジニアの横で記録用のノートを前にした僕の掌にも汗が滲む。海外渉外担当から制作に移籍して初めての仕事がセシル・テイラー・ユニットのライヴ・レコーディングだった。自ら志願したこととはいえ...。
セシル・テイラー・ユニット来日の報を聞いて招聘元のあいミュージックの鯉沼(利成)さんにすぐライヴ・レコーディングを申し入れた。鯉沼さんとは、事務所の初仕事マル・ウォルドロンで少々付き合いが始まった程度。しかし、いつまで経ってもセシルから返事は来ない。それどころか鯉沼さんはツアー自体の確認がとれずやきもきしている由。結局、来日するまで録音の確約はとれず。鯉沼さんとツアーに同行した悠さんにも側面援助を依頼して返事を待つ。返事が届いたのは公演先の大阪からだった。「とにかく、テープを回してくれ。試聴して内容に満足できたら発売を許可する」...。

セシル・テイラーの「京都賞」 - 3 

2部でまたハプニングが起きた。白いタイツに身を包んだセシルがダンサーとして登場したのだ。アルトサックスとドラムスをバックに切れ味鋭いダンス・パフォーマンスを披露する。詩の朗読をしているのだろう、「オバタラ、オバタラ」というフレーズがリピートされる。新鮮な驚きだったがピアノの抜けた演奏ではアルバムにならない。しばらくしてセシルがピアノに戻り、ほっと胸を撫で下ろす(4chで録音されたこの2部は、後日、三枝成章氏が主催した軽井沢音楽祭の暗転したスタジオで再生された)。終演後、ただちにラフ・ミックス、オープン・リールにダビングし、セシルの外出中にホテルの部屋にレコーダーとスピーカー、アンプをセットする。セシルがレコーダーのボタンを押せば、音楽は再生される。はたして、その日の夜、鯉沼さんを通じてセシルから発売同意が伝えられる。タイトルは「アキサキラ」。スワヒリ語でburning、燃えている、だ。コンサートを象徴するキーワードである。翌日、ホテルにオーディオ・セットを引き上げに行く。巻き戻されていたテープの量はわずかだった。演奏の内容が素晴らしかったのは演奏者自身がよく分かっている。むしろ、録音のクオリティを確認したかったようだ。鯉沼さんがイイノホールで秘かにセシルのソロを録音していた。オーディオ・マニアでもある鯉沼さんが起用したエンジニアは菅野沖彦さんだった。アートワークは鯉沼さんのスタッフにお任せした。ライヴ盤、スタジオ盤、ともに内容を見事にヴィジュアル化した素晴らしい作品が届けられた。ライヴ盤はスイングジャーナル誌のディスク大賞銀賞、ソロは最優秀国内録音賞を受賞した。時代を反映した受賞でもあったのだろう。アメリカのダウンビート誌でも高い評価を得た2作に対し、海外のファンからも次々に注文が舞い込んだ。CD時代に入って何度か発売が繰り返され、セシルの代表作として評価が定着しているようだ。数年後、NYを訪れた悠さんと私は、ユニットがファイヴ・スポットに出演していることを知り馳せ参じた。ふたりは楽屋に通され、着替えを待ってフライヤーに3人揃ってサインを所望するなど旧交を暖めることとなった。アルトサックスのジミー・ライオンズは惜しくも1986年に他界したが、ドラムスのアンドリュー・シリルとは時折りメールの交換をするなどの付き合いが続いている。

セシル・テイラーの「京都賞」 - 5 セシル・テイラーの「京都賞」 - 6 セシル・テイラーの「京都賞」 - 7

セシル・テイラーが「京都賞」を受賞した。ユニットを率いて初来日したのが1973年の5月だから、ちょうど40周年にあたる年の栄誉だ。「京都賞」は、京セラの稲盛和夫社長が創業25周年を記念して200億円の私財を投じて稲盛財団を設立、同時に創設した賞である。“この世に於ける人類の最高の行為は、「人のため、世のために尽す」”という稲盛理事長の人生観に由来し、“少なくとも人一倍努力をし、人類の科学、文明、精神的深化の面で著しく貢献をした人を顕彰”することを目的としている。“現在、科学文明はますます発展をとげておりますが、人類の精神面における研究は、科学に対して大きく遅れをとって”(“”内は財団の理念から引用)いるという理事長の危機感から、「先端技術部門」「基礎科学部門」に特別の感慨を持って「思想・芸術部門」が加えられたことをわれわれは衷心より感謝すべきであろう。ちなみに、過去28回の「京都賞/思想・芸術部門」で受賞の栄に浴した音楽家は、オリヴィエ・メシアン(第1回)、ジョン・ケージ(第5回)、ヴィトルト・ルトスワフスキ(第9回)、イアニス・クセナキス(第13回)、ジョルジ・リゲティ(第17回)、ニコラウス・アーノンクール(第21回)、ピエール・ブーレーズ(第25回)の7人である。第29回の今年、8人目の音楽家としてアフリカン・アメリカンのジャズ・ミュージシャン、セシル・テイラーが選出されたのは、画期的なことである。もっとも、セシルは受賞の挨拶で、音楽と詩作に対する評価とコメントし、続く講演では20分にわたって詩を朗読しながらパフォーマンスも実演しているので、単なるジャズ・ミュージシャンと称するのは妥当ではないだろう。セシル・テイラーは1929年3月の生まれだから、今年84才。講演を要求される「京都賞」は、年齢的にも体力的にも最後のチャンスであり、今年セシルを推挙した選考委員の慧眼には世界中の心ある音楽ファンから万雷の拍手が送られることだろう。

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財団の広報からは念を押されていたのだが、顔を見るまでセシルの来日を信じることがほとんどできなかった。セシルが体調を崩し、昨年から今年に掛けてほとんどすべての欧米の公演をキャンセルしていたからだ。一時期セシルのマネジャーを務めていたNYのヴェリバー・ペデフスキからも、セシルはもう飛行機で長距離を飛べる身体ではないよ、とも伝えられていた。一方で、JazzTokyoのFacebookを通じて、「京都賞」授賞式のライヴ中継を予告したりしてはいたのだけれど。だから、ustreamを通じてMacの画面にセシルの顔が映し出されたときは思わず拍手をしてしまった。NYのヴェリバーにもメールを飛ばし、セシルが「京都賞」の壇上にいることを伝えた。セシルはしっかりした足取りで壇上に上がり、しっかりした声で謝意を伝えた。セシル T. 財団を設立し、賞金(5千万円)は若いアーチストの育成に使わせていただく、と述べた。“自分の努力をしたその結果が真に人類を幸せにすることを願っていた人でなければなりません。”“今後その面でのますますの発展の刺激になってくれればという気持からであります。”という、まさしく稲盛理事長の理念を反映した行動である。最後の最後まで「前衛」を生き抜いたセシルはヨーロッパで認められたとはいえ、経済的には恵まれた生活を送れたとはいえないだろう。その人生を振り返り、可能性を秘めた若いアーチストには手を貸したいという、財団の設立。“人知れず努力をしている研究者にとって、心から喜べる賞”といういわば「ご褒美」が、セシルの場合、「若手育成の基金」となるのだ。
翌日の講演会はさらに驚いた。何と、舞踏の田中 泯(1945~)と40分のステージをこなしたのだ。前半の20分は詩を朗読しながらのパフォーマンス、後半の20分はピアノ演奏である。詩の内容を聞き取ることができなかったが、「アフリカン・アメリカン」や「ニグロ」という単語が発せられたので、おそらくはアフリカン・アメリカンとしてのアイデンティティをメッセージしたものと思われる。84才にして枯れるどころか、「闘士」としてのスピリットはいささかも衰えてはいない。また、「闘士」としての矜持を立派に示すことのできた身体性も発揮することができていた。これは、ほとんど奇跡である。ピアノ演奏は、さすがに奔流のようなカスケードこそなかったものの(これは、田中 泯とのコラボレーションを慮ったものであろう)、音は確実に立っている。緊張感の漲ったステージに呪縛されたように身じろくこともできず、40分間ただパソコンの画面に見入るのみ。

終演と同時に、NYのヴェリバーから間髪を入れず、メールが飛んで来た。
- 何と言ったら良いか!まるで夢をみているようだ。去年の4月にセシルに会った時、2ヶ月以上はもたないのではないかと思った。体調は最悪だった。セシルも、あとどれくらい生きられるかわからない、と弱音を吐いた。しかし、今日のセシルはどうしたんだ!まったく元気じゃないか!奇跡以外の何ものでもない。あと数ヶ月で85才だろう。田中 泯はセシルより16才は若いはずだ。僕が90年代の半ばにNYCで企画したセシルとミンの歴史的なパフォーマンスを思い出した(主催は、グゲンハイム美術館)。ソーホーのマーサ・ストリートだった(註:グゲンハイム美術館はアップタウンにあるが、アネックスがダウンタウンのソーホーにある)。ノイズをシャッアウトするためにストリートの交通が遮断されたんだ。セシルとミンがステージを分けた(当時、ミンは自分のダンスを“ボディ・ウェザー”と称していたと思う)。今日の演奏はミンとのコラボを意識していたね。でも、やはりあの演奏はセシル・テイラーそのものだよ。何と言っても、セシルの演奏をもう一度聴けたことが何とも素晴らしい!友達にも今日のネット配信を伝えてあるよ。みんな驚いているだろう。東京でも公演があるって? 信じられないけど、今から飛行場で駆け付けたいほどだ。

https://youtu.be/tYEmoP3odm4

 

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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