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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 236

ある音楽プロデューサーの軌跡 #40 「近藤等則とTokyo Meeting 1985」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
photo by unknown photographers

1985年に開催された「Tokyo Meeting 1985」はいろいろな意味でジャズ史上ながく記憶されるべきイベントであったと思う。まず、ひとりのミュージシャンが自らリスクを負いながらマネジメントと損益折半の条件で国際的なイベントを敢行したこと。次いで、初めての本格的な日韓ジャズ・イベントであったこと(サブ・タイトルに、“東アジアのミュージシャンたち”、という用語が使われた)。さらに、「ソウル・ジャズ・バンド」として初めて、姜泰煥(カン・テーファン)、崔善培(チェ・ソンベ)、金大煥(キム・デファン)が日本の土を踏んだこと。

ひとりのミュージシャンとはトランペッターの近藤等則(こんどう・としのり)である。近藤は1948年、愛媛県今治市生まれ。京大を卒業後、東京を中心にフリージャズ系シーンで活躍していたが、まもなく渡米、NYに拠点を置いた。NYダウンタウン・シーンでの活動や人脈が帰国してのキャリアに資することになる。

近藤は前年の1984年に東京・渋谷のミュージック・クラブ The Live-Inn で日米独のミュージシャンによる「Tokyo Meeting 1984~IMA Festival vol.1」を開催している。このとき僕はアルク出版企画に協力してカセット・ブック「Tokyo Meeting 1984」(冬樹社)の刊行に携わった。カセット収録の演奏から出演ミュージシャンの顔ぶれを見てみよう。

近藤等則 : Trumpet, Chinese Oboe, Vocal, Speaker, Percussion
Peter Brötzmann : Tenor Sax, Alto Sax, Clarinet, Tarogato
Henry Kaiser : Guitar
渡辺香津美 : Guitar, Ektar
高橋悠治 : Piano, Ektar, Vocal, Toy-Piano
坂本龍一  : Synthesizer
Bill Laswell : Bass
Rodney Drummer : Bass
Cecil Monroe : Drums
仙波清彦 : Percussion, Ektar, Piano

僕が近藤と出会ったのは当時近藤が連絡場所に使っていた渋谷のジャズ・カフェ「メアリー・ジェーン」だった。勤務先と近く、ヨーロッパ系の新譜が聴けたので僕もほとんど開店と同時に通い出したのだが、1982年に近藤が浅川マキ(vo)と共同で制作したアルバム『CAT NAP』(東芝EMI)を聴いて、近藤が率いていたバンド「Tibetan Blue Air Liquid Band」のアルバム制作を決断した。ロドニー・ドラマー(el-b)、セシル・モンロー(ds)、豊住芳三郎(perc)に渡辺香津美(g)をゲストに迎え、香津美のためにトリオレコード内に設立したレーベル「DOMO」から『空中浮遊』としてリリースした。かなり戦略的な手法ではあった。

 

エンジニア 故・寺田正博

エンジニアの寺田正博君とはその後、尚美音楽院のスタジオで、NYから取り寄せた菊地雅章の大量のシンセ・ミュージックのマスタリングに取り組んだ。しばらくして、調布サッカー場で開かれたNHKの東京JAZZの会場でばったり出会った。Teamという会社を設立し、バックヤードを担当しているのだという。フジ・ロックのバックヤードも受け、順調に推移していると思っていたところ、急逝したという知らせを受けた。忘れられない人物である。東京JAZZ関係では、大学同期の初代プロデューサー大江宣夫も急逝してしまった。何れも別れの挨拶をするいとまも許されなかった。
セシル・モンローは遊泳中の事故死ということをしばらく経って知った。2011年の夏のことだった。

 

筆者

『空中浮遊』のスタジオは近藤の先輩が経営する鈴鹿山中のチェスナット・スタジオで行われた。所用があってメンバーには同行できず、一人横浜から当時の愛用車三菱ランサーを駆って鈴鹿まで出かけた。ナヴィなどまったくない時代、スタジオを見つけるのに大変苦労したことを覚えている。

近藤とはそういう素地があって「Tokyo Meeting 1985」を共催することになった。近藤は新結成の近藤等則&IMAで参戦、韓国からはサムルノリ、ソウル・ジャズ・トリオが参加、キャスティングは近藤がイニシアチブをとった。IMAは前身のTBALBを一新、新進気鋭の富樫春生(key)、酒井泰三(el-g,el-b)、Reck(el-g,el-b)、山木秀夫(ds)で結成された。サムルノリは1978年に金徳洙(キム・ドクス)によりソウルで結成され、1980年に正式に「サムルノリ」(四物遊撃)と名乗り、来日メンバーはその後レギュラー・メンバーとなる金徳洙、李光壽(イ・グァンス)、崔鐘實(チェ・ジョンシル)、カン・ミンソク。担当楽器は、それぞれチャンゴ(杖鼓)、ケンガリ(小鉦)、チン(鉦)、プク(太鼓)。
1982年に初来日を果たしたが当初は韓国の伝統音楽ファンの間での話題に留まっていたところ、ソウルでサムルノリの実演を聴いた芥川賞作家の故・中上健一が驚愕、1984年に芝・増上寺に招聘したところ一気にブレイク、オピニオン・リーダーやミュージシャンの熱烈な視線を浴びることとなった。僕自身もこの公演を目撃しており、近藤の申し出を受け入れる大きな要因となった。その卓越した技術、パワー、ダイナミズム、アンサンブルに圧倒され全身金縛り状態になったことを覚えている。「ソウル・ジャズ・バンド」はすなわち“韓国唯一のオリジナル・ジャズ・バンド”「姜泰煥トリオ」だったが、到着して「ソウル・フリー・ミュージック・トリオ」と呼んで欲しいとの希望が伝えられた。韓国では便宜上ジャズ・トリオと称しているが、自分たちが演奏しているのはジャズではなく、“フリー・ミュージック”であるという主張だった。情報の大きな欠落はもうひとつあり、姜泰煥がベジタリアンであるということだった。三十数年前のこと、東京でさえベジタリアン用の食事や食材を探すことは容易ではなかった。姜さんは韓国語以外は話さず、日本語を使う従兄弟で年配の金さんが通訳ということになった。バンドでは音楽だけでは生活ができず、姜さんはジュエル・デザイナー(可愛い小さな小銭入れをいただいた)、崔さんは放送局のビッグバンド、金さんは書家として生活費を稼いでいるということだった。崔さんとは英語でコミュニケーションを取ることができた。

このトリオが日本のミュージシャンに与えた衝撃も大きく、アルトサックス奏者の姜泰煥はこの時以来ソロを始め様々なプロジェクトに参加するため30回近い来日を果たし、トランペッターの崔善培、パーカショニストで書家でもあった故・金大煥(2004年没)もそれぞれ何度となく日本のミュージシャンと合いまみえている。

Tokyo Meeting 1985 by Asian East-coast musicians

近藤等則&IMA
サムルノリ
ソウル・フリー・ミュージック・トリオ

9月6日(金)東映撮影所第7スタジオ(東京・大泉学園)
9月8日(日)国営昭和記念公園「みんなの原っぱ」(東京・立川)

公演は2箇所だったが、どちらも本来のコンサート会場ではなかったため特設ステージを組むなど大きな労力と経費を要した。とくに昭和記念公園は一部が開園まもなく、だだっ広い原っぱに会場を設営することになった。極左勢力から反対デモの予告が入り、警察に特別警備を依頼するなどの騒ぎもあったことを付記しておかねばならない。
無謀とも思えるイベントではあったが、近藤等則の傑出した決断力と実行力によりこのイベントは参加したミュージシャンにそれぞれ大きな成果をもたらすことになった。ソウル・フリー・ミュージック・トリオは前述した通り、日本を大きな活動の場として確保することになり、近藤等則&IMAはアルバムの海外レーベル(西独・JARO)からのリリースとヨーロッパ・ツアーの実現など、サムルノリは1988年のソウル・オリンピックの特使として世界中を駆け巡ることとなったのである。僕自身も近藤等則に加えサムルノリのマネジメントを仰せつかり、NYの菊地雅章とハードコアなミュージシャンたちとまさにバブルの荒波に船を漕ぎ出したのだった。

@東映撮影所

@昭和記念公園

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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