ジャズ・ア・ラ・モード #23. アビー・リンカーンのブラック
23. Abbey Lincoln in black
text by Yoko Takemura 竹村洋子
photos:Pinterestより引用
このコラムで女性のジャズ・ミュージシャンを取り上げようとすると、どうしてもシンガーが中心になってしまう。
今回は、その中でも生き方とファッションが、これほど密接ではっきりしている人はいないのではないか、と思うアビー・リンカーンについて。
アビー・リンカーン (Abbey Lincoln, 本名Anna Marie Wooldrige 1930年8月6日~2010年8月14日)ジャズ・シンガー、ソングライター、女優。
イリノイ州、シカゴ生まれ。後にミシガン州の田舎町に引っ越してそこで育つ。11人兄弟姉妹の音楽好きの大家族にはピアノもあり、幼年期から学校や教会で唄ったりしていた。
プロとしてのスタートは1950年代に入ってからで、その頃はアナ・マリー(Anna Marie)、ギャビー・リー(Gaby Lee)、ギャビー・ウールドリッジ(Gaby Wooldrige) などいくつかの名前で活動していた。
22歳の時、ミシガンの厳しい冬の寒さから抜け出すようにカリフォルニアに引っ越し、その後しばらくハワイのホノルルに移り、ナイトクラブで唄っていた。
1956年に彼女の最初のレコーディングをベニー・カーター・オーケストラと行った際、エイブラハム・リンカーンにあやかって、芸名をアビー・リンカーンとした。
この年、映画『女はそれを我慢出来ない:The Girl Can’t Help It』で女優デビュー。
1957年にリヴァーサイド・レコードに移籍し、ソニー・ロリンズ、マックス・ローチやポール・チェンバース、チャーリー・ミンガス、セロニアス・モンク等と活動を共にする。これらのミュージシャン達はアビーのヴォーカル・テクニックに大きな影響を与えた。幅広いレンジのヴォーカル・テクニック、詩を語るように唄うスタイル、特に歌詞の裏にある感情表現はビリー・ホリデイの影響が強かったようだ。
1957年の後半から、歌うことだけでなく、ソングライターとしての活動も始める。
この頃知り合い、一緒に活動をしていたドラム・プレイヤーのマックス・ローチはアビーを大きく変えた。2人は1962年に結婚し、1970年まで結婚生活を共にする。当時、人種差別、公民権運動に積極的に取り組んでいたマックス・ローチは、パートナーであり、同志であり、アビーに大きな影響を与えた。それは彼女の唄い方にも現れ、この頃のアビーは非常に逞しく、エネルギッシュな唄い方をしている。
1959年に『Abbey Is Blue』のアルバムを発表。1960年マックス・ローチの『 We Insist !』にも参加する。
1960年代は映画出演で女優としての活動が増えてくる。
マックス・ローチと離婚後、1970~1980年代はメジャーな音楽活動は停滞するが、1975年にアフリカを訪れた際、ギニアとザイールの政治家が彼女の政治的活動に対して、栄誉を贈っている。
1990年の『The World Is Falling Down』をきっかけに、再び勢力的にアルバムを発表するようになり、スターダムに返り咲いた。驚くべき事に1990年以降に発表したアルバムの数はそれ以前に発表したものとほぼ同じ数になる。晩年は初期の頃と同じように暖かく穏やかな唄い方に戻って行ったが、2010年に他界した。
本題のアビーのファッションについて見てみよう。
デビュー当時、1950年台から1960年代、マックス・ローチと出会う前のアビーは、他の女性ジャズシンガー達同様、セクシーなスタイルのドレス姿が多い。アビーは、とても初々しく可愛らしかった。体型もスリムで、いわゆる『女性』としての魅力を十分に備えていた。それをさらに強調する様なタイトフィットのドレス姿、とくに肩を露わにしたローブ・デコルテが圧倒的に多い。ヘアスタイルもドレスに合わせ、きちんとセットしている。
マックスローチと出会った頃は公民権運動に関わっていたこともあり、自分のルーツがアフリカであるという、ファッションからも肯定するようなアフリカンモチーフのチュニックや、70年代に流行った幾何学模様のドレスやシャツを多く着ている。髪も黒人独特のアフロスタイルだった。
マックス・ローチと離婚後から1980年以降のアビーは一貫してシンプルなブラックの服を着るようになる。とくに1990年のカムバック以降のアビーのブラックに身を包んだその姿は周りを圧倒する。私は90年代に入ってから2回、アメリカ、デトロイトで彼女のショウに行ったことがある。90年代後半は声がもうあまり出なくなっていても、目の前で見たアビーの存在感には圧倒された。
『ブラック』というカラーの服を着るのはとても難しい。
一番奥深い色で、着る人の内面が如実に出るカラーだ。一歩間違えればただの喪服になりかねない。
欧米では『リトル・ブラックドレス』というカテゴリーがある。黒一色で装飾の少ないドレス(主にワンピース)を指す。1926年、当時、黒のドレスはまだ喪服として着られるのが一般的だったが、それをファッション・ブランド、シャネルがモードの洋装として発表してから広まり、現在ではちょっとしたパーティーや改まった席でよく着られる。
一言でブラックと言っても赤みのかかったものからダークブルーに近いものまで、様々なブラックがある。また、素材によってその表情は違ってくる。
アビー・リンカーンがブラックの服を着始めた頃、ファッション業界では大きな変化があった。それまで、フランスのデザイナー達を中心としたパリの舞台で、初めて日本人デザイナーがコレクションを発表しファッション業界に大きな衝撃を与え、世界的にも評価された。川久保玲(1942~)、山本耀司(1943~)は西洋の女性を性的な対象として飾る立体的なカッティングの服(アビー・リンカーンのデビュー当時の服を参照)とは全く異なるコンセプトの服を発表した。
ブラック、グレイ、ホワイトの無彩色。平面的なカッティング、オーバーサイズ、引きちぎったり、穴があいたり非常にアヴァンギャルドな志向の服だった。この大胆で斬新な服はたちまち大センセーションとなり、その後この二人の日本人デザイナーの服は、世界中の多くのデザイナー達に影響を与え、ブラックを中心とする非立体的な服はポピュラーになっていった。このファッションは決して女性であることを誇示するものではない。体の形とは直接関係ない服と着る側が一体となり、着る側の個性が表現される、いう考え方が根底にある。服の主役は着る人であり服ではない。女性の社会進出が進んだ80年代以降、ある意味、女性を解放した服と言えるかもしれない。
年齢を重ね多くを経験したアビーは、そんなファッションに惹かれ、やっと自分に心地よい本当に自分に合うスタイルを見つけたに違いない。極端にアヴァンギャルドなデザインではないが、平面的なカッティングのブラックの装いであることがほとんどだ。編み込んだヘアスタイルや帽子も晩年の彼女のトレードマークにしていた。
彼女の初期の頃のように女性であることを媚びへつらうような姿とも、公民権運動に取り組む闘士とも全く違い、見事に別人に生まれ変わったようだ。晩年のアビーのシンプルなブラックの服は彼女の存在感をより一層、際立たせている。
彼女の唄う歌は軽く聴き流せない。ちょっと構えてしっかりと歌詞を理解して聴かせていただくという感じだ。しかし聴いた者の魂を激しく揺るがす。
ブラック・ファッションに身を包む。強烈な自己主張を持つ自立した女性がアビー・リンカーンならではの装いだ。
<Driver Man >Max Roach quartet with Abbey Lincoln 1964
< Midnight Sun>Abbey Lincoln Quartet – Lionel Hampton
*参考文献
The National Grove Dictionary of Jazz