ジャズ・ア・ラ・モード #14 クインシー・ジョーンズのセーター・ルック
14 クインシー・ジョーンズのセーター・ルック
14. Quincy Jones’ sweater look
text by Yoko Takemura 竹村洋子
photos: You-tube、Pinterestより引用
1960年、27歳のクインシー・ジョーンズは自己のバンドを率いて、ヨーロピアン・ツアーを行っている。この時、彼とバンドメンバーがユニフォームとして着用していたセーター・ルックが当時、如何に画期的なものであったか、この奥の深いテーマを探ってみた。
クインシー・ジョーンズ(Quincy Delight Jones Jr. :1933年3月14日生まれ) 。1950年代から第一線で活躍するジャズ・ミュージシャン、音楽プロデューサー、コンポーザー、アレンジャー。アメリカのみならず、世界のポピュラーミュジック業界に於ける帝王として君臨していると言っても過言ではない。
クインシーはイリノイ州、シカゴ、サウスサイド生まれ。全米でも有数の犯罪多発地帯として知られ、貧困、暴力、ドラッグ、ギャング、売春、極端な人種バランス(居住者の97%以上が黒人)と社会問題が山積みの地域だ。自叙伝『The Autobiography』によると、幼少期の生活は悲惨なものだったようだ。父親はシカゴ、ゲットーの黒人ギャングの仕事を請け負う大工だった。単純明快な性格で、物事を白黒はっきりさせないと気が済まない性格で、優しく穏やかな衝突を嫌う保守的な人でもあったようだ。「一度始めたことは投げ出さず、どんな仕事であれ、結果がどうであれ、最後までやり抜く。」というのが父親のモットーで、幼いクインシーと弟ロイドは物心つく頃からこれを叩き込まれた。
音楽は母親が教会の歌などをよく唄っていたこと、又、隣に住む少年からも影響を受けたようだが、音楽を楽しむ余裕すらなく、シカゴ時代は生きて行くためには何でもしなければならず、“愛情”にも飢えており、心は荒んでいたという。
母親はクインシーが9歳の時、精神を病み、精神病院に送られる。母親の病状のことは想像を絶するような凄まじい記述が自叙伝にある。母親の精神病が原因で両親は離婚。
その後、祖母と暮らすために、弟のロイドと共に未開地に近いケンタッキー州のルイヴィルへ移る。アメリカが世界大恐慌を未だ引きずっていた頃である。食料も充分になく、食べられるものは何でも食べ、特にネズミのフライは祖母の得意料理で食卓に上がっていたらしい。
1943年、一家はワシントン州、ブレマートンに移る。小学生のクインシーはある日、近所にある『レクリエーション・センター(the rec center)』に食べ物があることを知り、忍び込んでみるとそこには古いアップライト・ピアノがあった。ピアノの音一つ一つがー少年が抱えていた心の空洞を埋め、以後毎日のようにレクリエーション・センターに通うようになる。教会で聴いた音楽やブギウギなどを演奏していた。
ブレートマンのクイーンツ・ジュニア・ハイスクールで学んでいたが、そこは98%白人の学校で、差別をされるが、デニスという白人少年と友人になる。そこでクインシーは肌の色だけで全てが肯定も否定もされない事を理解するようになった、と語っている。ピアノに出会ったクインシーは、「生まれて初めて寂しさや苦しさ、恐れではなく、喜びや慰め、思いやりさえ感じた。私はいつも人前では笑顔を見せて、朗らかに振舞っていたが、心の中では涙していたが、ピアノの前に座り、鍵盤を叩き、コードを奏でた瞬間から、何故かすべてが一変した。私はやっと、心から信じられるものを見つけ、希望を持って真っ向から立ち向かう術を学びはじめた。」と回想している。
1947年に一家は音楽のメッカだったシアトルに移り、1951年までこの地で暮らすことになる。街にはどんなジャンルの音楽もあり、トップクラスのミュージシャン達がよく来ていた。クインシー少年はビッグバンドの追っかけになる。13歳の時、カウント・ベイシーのスモールバンドが演奏していた劇場の舞台裏に毎晩出入りし、クラーク・テリーに弟子にしてくれるように直談判し、ついに学校に行く前の2時間ばかりの時間、クラーク・テリーにトランペットの手ほどきをうけることになる。(後に1960年のヨーロッパツアーではクラーク・テリーはクインシーのバンドのメンバーになっている。)
同じ頃、フロリダから来たクインシーより2歳年上の16歳のレイ・チャールズと友達になり、一緒に演奏活動を始め、お互いに刺激し合う仲となる。クインシーとレイ・チャールズは以後、現在までずっと良き友人であり音楽仲間だ。
1947年、クインシー14歳の時、初めてチャーリー・テイラーのバンドでプロとしての第一歩を踏み出す。
1951年、シアトル・ユニヴァーシティーで、スカラシップをとるが、1学期終了後にバークリー音楽大学に移る。大学卒業後、トランペット・プレイヤーとしてライオネル・ハンプトン楽団に参加。そこでアレンジャーとしての才能を評価され、以後、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーン、ジーン・クルーパなどのジャズ界のスーパースター達のアレンジを手がけるようになる。
1952年、18歳の時、ライオネル・ハンプトン楽団と共に、ヨーロッパでツアーを行う。アメリカ国内でも、トミー・ドーシー・ショウのホストやテレビショウのスタジオバンドなど仕事の幅を拡げていく。
1956年、ディジー・ガレスピー・バンドでアメリカ合衆国後方文化交流局の派遣使節として中近東、南米ツアーに参加。この年、初のリーダー・アルバム『This Is How I Feel About Jazz : 私の考えるジャズ』を発表し、コンポーザー、アレンジャーとしての地位を築く。
1957年、24歳の時にフランス、パリに渡る。クラシックのコンポーザーで教育者、ナディア・ブーランジェや、現代音楽の作曲家、オリヴィエ・メシアンに師事する。パリ移住中の、1959年〜60年にかけ、ヨーロッパで数々のビッグバンドを率いて活躍し、自己のバンドでも大きな成功を収めていく。
クインシーは、1961年マーキュリー・レコード・ニューヨーク社に初の黒人の副支社長に就任。1960年以降はミュージシャンとしてだけでなくプロデューサーとしては活躍を始める。マイルス・デイヴィスやフランク・シナトラらとの超一流ミュージシャン達のプロデュースと同時に、映画音楽の分野に興味をもち始め、1964年にシドニー・ルメット監督の映画『質屋:Pownbroaker』を機に『夜の大捜査線(1967)』『ジョンとメリー(1969)』『マッケンナの黄金(1969)』『ゲッタウェイ(1972)』などのサウンドトラックを担当。当時、この分野は黒人のミュージシャンに未だ門戸が開かれていなかった。テレビ番組でも『鬼警部アイアンサイド(1967〜1975)』や『ルーツ(1977)』などのサウンドトラックを手がける。こうやって、ハリウッドを拠点に活動範囲と人脈を拡げていく。
1978年にはマイケル・ジャクソンのプロデューサーとなる。マイケル・ジャクソンとの活動は二人のアーティストとしての地位を不動のものにしたのは周知の通りだ。
1985年アメリカのスーパースターを一同に会して録音した、エチオピア難民救済のためのチャリティー曲<We Are The World>のプロデューサーの一人として、またコンダクターとして参加。
1990年代以降もクインシーはポップ・スター達のプロデュースや、85歳の現在に至っても若手のミュージシャン達のプロデュースを積極的に行っている。2008年、グラミー賞レコーディングアカデミー50周年の大使に任命される。
ざっと、クインシー・ジョーンズの略歴を書いたが、この略歴なくして、ここからこのコラム本題の『クインシージョーンズのセーター』については語れない。
先に、1959年〜60年にかけ、ヨーロッパで数々のビッグバンドを率いて活躍し、自己のバンドでも大きな成功を収めていった、と書いた。
クインシー・ジョーンズ26〜27歳の時の話である。パリに滞在していた時、一旦ニューヨークに戻ったクインシーはハロルド・アレンとジョニー・マーサーが共作した「Free and Easy」というミュージカルの音楽を依頼され、その為にビッグバンドを結成しヨーロッパ巡業を行い、最終的にブロードウェイで上演する、という話になった。
クインシーは直ぐに『夢のオール・スター・ビッグバンド』を結成した。
リーダーは勿論クインシー・ジョーンズ。アルトサックスにフィル・ウッズ、ポーター・ギルバード。バリトンサックスにサヒブ・シハブ。テナーサックスはジェローム・リチャードソン、バド・ジョンソン。トランペット&フリューゲルホーンにはベニー・ベイリー、クラーク・テリー、サイド・リーシンガー、フロイド・スタンディファー、レオナード・ジョンソン、ロジャー・ゲリン。(何人か入れ替わっている)トロンボーンにジミー・クリーブランド、メルバ・リストン、クインティン・ジャクソン、エイク・パーソン。ベースはバディ・キャレット。フレンチホルンにジュリアス・ワトキンス。ドラムにジョー・ハリス。ギターはレス・スパン。ピアノはパッティ・ボウン。という、錚々たるスター・メンバーだ。クラーク・テリーとクインティン・ジャクソンはデューク・エリントン・バンドを辞めてまでこのバンドに参加した。
このバンドの凄さは、人種、性別、国籍など全く関係なく、真に実力のあるメンバーで構成されている事だ。フィル・ウッズは言わずと知れた白人。トロンボーンのエイク・パーソンはスウェーデン人。トランペットのロジャー・ゲリンはドイツ人。また、メルバ・リストンやパティ・ボウンといった才能と美貌に恵まれた女性メンバー(とクインシーは言っている)も2人いる。
1960年というと未だアメリカでは公民権法も制定されていない。(公民権法制定は1964年)白人と黒人、そして女性もがミックスしたビッグバンドというものが存在したことは画期的なことだったのではないだろうか?おそらく、ベニー・グッドマン以外ほとんど皆無だっただろう。
話は少しそれるが、アメリカという国は非常に人種に対して敏感な国だ。その人種差別を多少解きほぐしていったのが1940年代後半から50年代にかけてのジャズだっただろう。「特にビー・バップは差別に対して寛容だった。チャーリー・パーカーは様々な人種を受け入れた。チェット・ベイカーを気に入りアルバムも出している。が、アメリカ南部においてその差別は甚だしいものだった。チャーリー・パーカーがスタン・ケントン・バンドとツアーした時の差別は良い例で、1965年になってもバディ・リッチ・バンドがカンザス・シティに来た時にはストリート・ホテルという黒人専用のホテルに泊まったのは有名な話だ。アメリカでは、いくら肌の色が明るくても一滴でも黒人の血が混ざっていれば『黒人』とみなされる。」とUMKC 、マー・サウンド・アーカイブス・ディレクターでチャーリー・パーカーの伝記の著者のチャック・へディックスは語っている。そんな時代だった。
1950年代、多くのジャズミュージシャンがパリへ移った。パリをはじめとし、ヨーロッパはアメリカに比べて比較的差別には寛容だったかもしれないが、フランスはアルジェリア問題を抱えていた。
ミュージカル「Free and Easy」ヨーロピアンツアーはパリで公演を行なったが必ずしも良い評価ではなかったようだ。当時、アルジェの戦い下でミュージカルを観に行くのはフランス人には非常に困難だったようだ。ミュージカルはすぐに大赤字になり、6週間で打ち切りになる。
クインシーが何とかパリに残ろうと模索していた時に、オリンピア劇場出演の話が舞い込んでくる。このコンサートは満員御礼の大成功を収めた。その後、クインシーはこのバンドの素晴らしさに自信を持ち、バンドに更に磨きをかけてツアーを組むことにした。バンドはスウェーデン、スイス、ドイツ、イタリア、ベルギー、フィンランド、などを約10カ月ほど廻っている。しかし大所帯のビッグバンドを維持する、と言うのは大変な事である。この大所帯は18人のバンドメンバーの他、クインシーの妻、娘、フィル・ウッズの妻でチャーリー・パーカー未亡人のチャン・パーカー、彼女の子供達、フィルの義母など、総勢30人、加えて2匹の犬までいた。ミュージシャンに払うギャラ以外にもホテル代や交通費でバンドの財政状態は常に最悪だった。悲惨なツアーだったようだが、バンドのメンバーたちの結束は強く、クインシーは常にミュージシャン達がどれくらいのお金が必要か聞き、ただのバンドではなく、一つのファミリーだった、とフィル・ウッズの妻チャン・パーカーは回想している。
ツアーから戻ったメンバー達は、皆疲れ果てていた。結婚生活に終始府を打った者。1年も経たないうちに他界した者、アル中になった者、自殺した者など人生に破綻をきたした者が何人もでた。オールスター・バンドを結成し、最高の演奏でヨーロッパツアーの成功を夢みていたクインシーにとって、ようやく夢が実現した時に、皮肉な事にその過酷なツアーで精根尽き果て、大きな負債を背負っていた。
残念なことに、このバンドのメンバーは2018年の現在、クインシー以外、全員他界している。
このコラムは、ファッションを通してミュージシャンを見てみよう。という趣旨なのだから、話を冒頭に述べた『クインシー・ジョーンズのセーター』に戻そう。
バンドのコンサートは1960年の事である。
若きクインシーが率いるバンドメンバーはステージ上で全員がセーターにパンツ、というスタイルで演奏している。一説によると、バンドはスーツやジャケットを調達する程の経済的余裕がなかったので経費節減の為セーターにした。という。その真偽の程は確かではないが、その通りかもしれない。
しかし、この時代にユニフォームをセーターにした事は、バンドのメンバー構成と同じ位、画期的な事だ。
1960年代は戦後アメリカの若者から始まったファッションのカジュアル化が進み、大量生産化が進み、カジュアルウエアも新しい段階に入ろうとしていた。既製服業界が急速に成長し、素材も化合繊が急速に普及してきた。
クインシーとメンバー達のセーター姿をよく見てみると、プルオーバーのリブ編み(畝編み)のセーターの下に薄手のハイネックセーターを着用してパンツを着用している。
Vネックのセーターはネックにラインが入ったスポーティーなデザイン。IVYルックのチルデンセーターによく似ている。(#6. マイルス・デイヴィスから始まったジャズ・ミュージシャン達のアイビー・ルック参照)白黒写真からカラーははっきりしないが、メンバーは黒かダークカラーの地に白っぽいライン入りのプルオーバーの下に少し明るめのカラー、もしくはグレイのハイネックセーターを着用。クインシーはメンバーとは逆配色で一人目立っている。ひょっとすると、赤だったかもしれない。(本人と事務所に直接問い合わせたが返事がなかった。)
大量生産の機械編みセーターなのは一目瞭然だ。ニットセーターというのは横編みと丸編みに大きく分かれる。横編みは編み目が横方向に連続した編み地。殆どのセーターは横網である。丸編みは螺旋状の連続したループによる円筒状の編み地で現在のトレーナーやT-シャツがこれにあたり、“カット&ソー” 仕立てのものが多い。丸編みカット&ソーは編み地を身頃、袖など個々のパーツについて、カットし、縫い合わせたもの。
クシンシー・ジョーンズ・バンドのメンバーが着用しているセーターは、身頃は横リブ編みだが、襟、カフス、裾は横平編みを縫い合わせた、日本の業界で言うところの“ニット&ソー” 仕立てになっている。ニット&ソーは編立て段階 から半成型編みを行い、それらを裁断して形状の調整を行い縫製して作られる。 Vネックのラインがはっきりとしており、この辺りからもニット&ソーだと察する。ニット&ソーはデザイン面での小回りが効く上、生産コストが安価である。
素材はどうだろうか?ユニフォームという事から、耐久性や取り扱い易さを考えると、おそらくアクリル製だろう。アクリルは1950年にデュポン社が羊毛に似せて化学的に作った合成繊維である。ふっくらとして柔らかく、軽く保温性にも優れている。シワになりにくく、洗濯しても縮んだり型崩れしにくい。メンバーが自分たちで洗ったか如何かは分からないが。発色も良い。保湿性がなく、毛玉が出来やすいのが欠点だが、何よりも羊毛より安価である。
クインシー・ジョーンズは自己のビッグバンドのステージ・コスチュームに『お洒落な安物のセーター』を選んだのである。それ以前の、タキシードやスーツが当たり前とされていたビッグバンドのコスチュームから考えると、これは大革新ではないだろうか?
少年時代の貧困や悲しみ、屈辱、人種偏見、ネガティブな感情なをバネに、ポジティブに生きて来たクインシー・ジョーンズ。驚くべき才能を持ち強烈に上昇志向の強い、型にはまらないクインシー・ジョーンズならではのチョイスだろう。お金がなかったからスーツではなくセーターにする、という単純な話ではない。アメリカ黒人青年が率いるバンドメンバーが着用するカジュアルなセーター・ルックが、ファッションの本場パリをはじめとするヨーロッパの観客達の目にどう映っただろうか?それが安物であったとしても、新鮮でファッショナブルだったに違いない。バンドの演奏をよりフレッシュで活動的で、さらに素晴らしくする事に大きく貢献していたと思う。
クインシーはこの頃セーターが好きでよく着用していた様だ。ヨーロッパツアーからアメリカに戻り、1961年にニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演し、その時のアルバムカバーにあるクインシーもセーターを着用している。クインシー本人がどこまで考えて、ヨーロッパ・ツアーであのセーターを着用することを意識したかは定かでないが、『たかがセーター、されどセーター』である。
2018年の夏、『85歳バースデー・セレブレーション・ツアー』をスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルや、イタリアのウンブリア・ジャズ・フェスティバルを含めて行なった。クインシーは「ジャズはカテゴライズされるべきでない。」と言っている。ツアーで共演したメンバーはディディ・ブリッジウォーター、イヴァン・リンス、リチャード・ボナ、ジョン・クレイトン、Take6、アルフレッド・ロドリゲスなど、国籍、人種、ジェンダー、ジェネレーション、政治観などを超えた相変わらず超一流メンバー達。これも1960年のあのセーター姿のクインシー・ジョーンズ・バンドの姿勢と変わっていない。
ブタペストでツアー終了後、「私が偉大なライオネル・ハンプトンとはじめてヨーロッパ・ツアーに行こうと準備していた時、ベン・ウエブスターが私にどこに旅行するのかと聞いた。彼は『とにかく食べ、音楽を聴き、あらゆる言語で30〜40の言葉を学べ。それは他の文化に接する時の慣わしのようなものだ。』と言った。それは私が18歳の時の事だった。以来、私はずっとその事を続け、まだ学んでいる。『85歳バースデー・セレブレーション・ツアー』を終えた今、私を迎え入れてくれた美しいの国の全ての人達に感謝したい。全ての年齢、人種、宗教、およびクラスの人たちが各会場に満ちているのを見て、私のソウルは喜びに満ちていた。なぜなら、それは『音楽』が作り出したものだから。」と言っている。
『Quincy Jones Big Band in Belgium』
*参考文献
The Autobiography of Quincy Jones : 2001
My Life In B-Flat by Chan Parker:1993