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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 249

ジャズ・ア・ラ・モード #18 メルバ・リストンのエレガンス

18. メルバ・リストンのエレガンス

18.Melba Liston’s Elegance : text by Yoko Takemura 竹村洋子
photos : Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Pintestより引用

メルバ・リストン(Melba Doretta Liston : 1926年1月13日~ 1999年4月23日)、ミズーリ州、カンザス・シティ生まれ。男性中心のジャズミュージシャン達の中で女性のジャズ・トロンボーンプレイヤー、アレンジャー、コンポーザーとして地味な存在でありながらも、最も偉業を成し遂げたミュージシャンの一人と言える。同じカンザス・シティ出身のメリー・ルー・ウィリアムスより、一世代若い。

音楽好きの両親の元に生まれ、7歳の時に母親にトロンボーンを買い与えられた。メルバの家族は彼女の音楽の才能に理解を示し、ギタープレイヤーだった祖父はメルバに音楽の手ほどきをしていたようだが、ほとんどは独学だった。8歳の時には既に地元のラジオ局でソリストとして演奏するに十分な実力をつけていた。10歳の時にロス・アンジェルスに移る。シニアハイスクールではメルバのクラスメートにデクスター・ゴードン、エリック・ドルフィーがいた。いくつかのバンドで演奏活動した後、1943年にジェラルド・ウィルソンのビッグバンドに参加。

1945年にアイダ・レオナルド(1915年生)率いる、女性だけで編成された『All American Girl Band』に第2次世界大戦の慰問バンドとして参加。この時のビデオが残っているが、1920~1940年代の女性だけで構成されたバンドは、音楽性はあまり重要視されなかった。ほとんどのバンドメンバー達は人形のように、とにかく可愛らしく美しくあることが求められ『見世物的要素』 が強かった。ネックラインが広く開いてたり、演奏には邪魔になったであろうフリルやリボンが沢山ついているフルレングスのドレスを着て、楽器を演奏するにはおよそ相応しくないスタイルでいることを強いられていた。しかも化粧もきちんとし、ホーンプレイヤー達であってもしっかり口紅をつけねばならず、ハイヒールを着用してドラムのペダルを踏んでいた。現在では考えられないようなことだが、ハープ、ピアノ、フルート以外の楽器を演奏する初期の女性ミュージシャン達は、『アブノーマル』な存在で、トランペット奏者は『ルイ・アームストロングの女性版』とかドラム・プレイヤーは『スカートを履いてドラムを演奏するジーン・クルーパ』等と呼ばれたりしていた。メルバもそんなミュージシャン達の一人だった。
『All American Girl Band』時代、人形のようなフリフリドレスを着なければいけなかった事をメルバ自身はどう思っていただろうか?屈辱と感じていただろうか?それとも、これも時代の流れ、演奏さえできれば良い、と割り切っていただろうか?

第2次大戦後、多くの女性ミュージシャン達は演奏することから教える事へ音楽活動の場を変えていった。
その中でも実力のあるミュージシャン達は稀に、男性バンドに引き抜かれて行った。ウディ・ハーマンはトランペット奏者のビリー・ロジャースやヴァイブラフォーン奏者のマージョリー・ヘイムズを、ライオネル・ハンプトンはサックス奏者のエルシー・スミスを、そしてジェラルド・ウィルソンは再び、トロンボーン奏者のメルバ・リストンを雇った。メルバはまさに男性支配のジャズ界の中での女性インストゥルメンタル奏者の草分けだった。
彼女は当時、男性ミュージシャンと一緒にツアーすることが如何に大変だったか語っている。彼女は黒人でもあるのだ。人種差別に加えて男女差別。女性として、宿泊時の身支度、洗濯や男性にはない多くの問題があった。現在では考えられないが、メルバは「当時、男性ミュージシャンバンドに入ってツアーを行うことは “レイプもなんでも有りという事だった。”」とインタビューで答えている。
能力がありながらも、黒人である為に、女性であるが為に、どれほど厳しい時代を送ったことか。とても悲しいことだ。

メルバは、1940年代後半からデクスター・ゴードンやディジー・ガレスピー、カウント・ベイシーのバンドに参加。その後数年間、ハリウッドでエキストラの仕事をし1950年後半にディジー・ガレスピーのバンドに戻ってくる。以後、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズや多くのミュージシャン達と活動をし、1959年にクインシー・ジョーンズ率いる<Free and Easy>のミュージカルの為のビッグバンドに参加。
同じく、1959年に初のリーダー・アルバム『Melba Liston and Her ‘Bones』を発表。

メルバの音楽人生に於いて最も重要な事の一つに、アレンジャーとしての功績が挙げられる。
1960年からスタートした、ピアニスト、ランディ・ウエストンとのコラボレーションがその代表だ。アルバム『Uhuru Afrika』(1960)、『Highlife』(1963)はランディ・ウエストンの作曲、アレンジは、メルバ・リストンが手がけ、傑作として高い評価を得ている。彼女は中〜大規模のバンドの為のアレンジを手がけていた。一方でジョニー・グリフィン、レイ・チャールズ、などとも共演し、同時にモータウン・レコードのためにアレンジャーとしても活躍していた。

彼女は数々のミュージシャン達の『ゴーストライター』としても作曲、アレンジの仕事をしていた。特に1960年代には、この業界では珍しいことではなかったようだが、クインシー・ジョーンズに起因するTV映画の主題歌の多くはゴーストライターが働いていたとも言われている。1960年代は彼女は匿名アレンジで多くの曲を完成させていたようだ。
ジュニア・マンスの『The Soul Of Hollywood ( 1961&1962 録音)』のアルバムに、彼女の功績を見ることができ、このアルバムにはメルバ・リストンの名前が正式なアレンジャーとして記されている。

1973年〜1979年まで、ジャマイカに移り、ジャマイカ・インスティテート・オブ・ミュージックで教鞭を執る。
1982年にディジー・ガレスピーのTVショウ『ドリーム・バンド』に参加。1985年に心臓を患い、音楽業界の第一線から身を引かざるを得なくなったが、ランディ・ウエストンの為のアレンジ活動は1999年に亡くなるまで続けた。

メルバ・リストンは彼女が極めて優秀なミュージシャンであるにも関わらず、非常に控えめな人で、それは彼女の地味なファッションからも良く解る。地味ではあるが、決してお洒落に無頓着な人ではなかった。

慰問バンドを辞めて、活動を始めた初期の頃は非常にシンプルなストラップドレスをよく着ていた。女性らしさを強調したデコルテのドレスも、肩ストラップが細いシンプルなものが多く、そこに彼女の慎み深さを感じる。トロンボーンを演奏する際、腕をスライドする事からまず動き易さが求められただろう。ステージ上で演奏中体から出る汗をどうやって拭いていただろうか?などと余計なことを考えてしまう。

1960年頃から、ホワイトシャツにスカート。時にジャケットといった現代の働く女性のファッションの基本アイテム、無個性なリクルートスーツの原点、といったようなスタイルが多い。多くはバンドのユニフォームの女性版といったところだろう。また、シャツやシンプルなニットセーターにスカートというスタイルも多い。
しかし、バンドと一緒でない時も、男性ミュージシャン達の中で仕事をするのに、溶け込んで行こうとしていたのか、決して露骨に色気を感じさせるようなスタイルはない。
晩年はゆったりとした身頃のトップスやドレス姿が多いが、やはりトロンボーン・プレイヤーとして一番重要な動きやすさを重視しての選択だろう。

私は、恥ずかしながら、このコラムを書く前には、彼女のファッションについて、全く色気がなくつまらないと思っていたが、彼女の演奏を聴いたり数々の写真を見て調べて行くうちに、それが大きな誤解であることに気がついた。若い頃の地味なファッションは自衛策でもあったのだ。

メルバは女性であることを全く媚びず、インテリジェンスをひけらかす事もなく、常に控えめなファッションに身を包み、あくまで男性陣の中に巧く溶け込み、やるべき事を完璧にこなして行っただろう。そこに『メルバ・リストンの真のエレガンス』がある。

今回、コラムを書くにあたり、多くのところから写真を集めてみたが、ほとんどがとても地味でありつつも上品なものばかりだった。が、一枚彼女がディジー・ガレスピーと一緒に演奏していた時に着ていたいた美しいバイヤスのドレープの入ったエレガントなドレスを見つけた。デザイン的に、おそらく1980年代のものと察する。現在、シカゴのコロンビア・カレッジのホーキン・ギャラリーに寄贈されている。これを見た時、メルバも可愛い普通の女性の一面が窺えた様な気がし、ちょっとホッとした。

彼女の1960年のクインシー・ジョーンズ・ビッグバンドでのメルバ自身のアレンジメントによる演奏、ドビュッシーの<My Reverie : 夢>を聴いても、彼女は繊細で、慎み深く、聡明で情緒豊かな人であることが更によく解る。
クインシー・ジョーンズは、「万能で並の男性ではとても太刀打ちできなかった。」と言っている。

*参考文献
Swing Shift “All- Girl’s Bands of The 1940’s: by Sherrie Tucker 2000

<Start Swingin> 1945

< My Reverie >クインシー・ジョーンズ・バンド、 1960 ローザンヌ

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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