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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 304

Extra: トニー・ベネットのこと
Thank you very much, Mr. Bennett!RIP.

text and illustration by YokoTakemura 竹村洋子

♪ アメリカで聴いたベネット

『今世紀最後の偉大なジャズ/ポップ・シンガー、トニー・ベネット』の訃報を知ったのは7月23日の日曜の朝、ベッドの中で夜中に来たメールをチェックをしていた時だった。フェイスブックを開いてみると、友人たちや多くのメディアが次々にベネットの訃報をアップしていた。
1926年8月3日 生まれ。2023年7月21日没。享年96だった。あ~、やっぱり。残念!という思いしかなかった。
私が初めてベネットの歌を聴いたのがいつだったのか記憶にはないが、大好きで、いつも心地よく聴いているシンガーの一人だった。

彼のコンサートには、何度か足を運んだ。アメリカでは5回ほど。日本では1989年のゆうぽうと簡易保険ホールへ1回のみ。日本の公演は全部行きたかったがどうしても都合がつかず、行けなかった。1988年にオープンしたブルーノート東京の柿落としにも行けず、後からプレスで入った友人からいろいろ聞かされ、悔しい思いをした。

1990年8月5日から20日まで、私は仕事とバケーションを兼ねてアメリカに滞在していた。この時、当時フランク・フォスターが率いるカウント・ベイシー・オーケストラのロード・ツアーに参加した。ニューヨークを拠点に、ニュージャージー、ワシントンCD、ボストン、デトロイト周辺のミシガン州のいくつかの都市をバンドは廻った。私はこのツアーのニューヨークからデトロイトまでの1週間、バンドのツアーに同行した。ほとんどワンナイターの公演で、スケジュール的にも強烈にタイトだった。長時間のバス移動に疲れ果てた。それでも、バスの中ではメンバーと一緒に映画を観たり、お喋りをしたりし、とても楽しかった。特にロード・マネージャー/リード・トランペッターのソニー・コーンとリード・トロンボーンのメル・ウォンゾが、私の面倒をよくみてくれた。ニューヨークで3日ほどの仕事を終え、その後デトロイトまでのツアーに参加したのも、デトロイトにメル・ウォンゾの自宅があり、ツアー後、彼らの自宅で1週間ほど過ごせるからという理由からだった。
そしてもう一つ大きな理由があった。
トニー・ベネットがこのツアーのいくつかに合流して一緒に演奏する予定になっていた。このパーフェクト・チャンスを見逃すわけには行かなかった。

カウント・ベイシー・オーケストラとトニー・ベネット・グループの移動はもちろん別々。各都市すべての公演にベネットが参加したわけではないので、ベネットの公演がある時に合流する、というツアーだった。
ベネットはこの年、新しいアルバム『アストリア:Astoria : Portrait of the Artist』というバックにシンフォニーを抱えたアルバムをリリースしたばかりだった。アルバムの制作は1989年。カウント・ベイシー・オーケストラとの公演はこのアルバムのプロモーション的な意味合いもあったようだ。この時のベネットのバックのリズムせく
ちなみに、ベネットはカウント・ベイシー・オーケストラが初めて共演した白人シンガーである。

『アストリア』はニューヨーク州、クイーンズ区のアストリア地区のことで、ニューヨークから北へ15キロ程のところになる。ベネットが生まれ育ったところだ。アルバムはスタンダードナンバーに加え、ベネットのアストリア時代の思い出を表現したような選曲になっている。
父親は食料品店で働くイタリア移民。母親は裁縫士、という貧しい家庭に育ったベネットはこのアストリア地区での生活を生涯忘れることなく、多くのことを自伝などに書いている。この辺りのことや、歌手としてのベネットの履歴、功績はもう誰もが知るところなので、この場では割愛させて頂く。

アルバム『Astoria: Portrait of The Artist』

トニー・ベネットとカウント・ベイシー・オーケストラのコンサートはすべて素晴らしかった。本場のアメリカで聴くとまず聴衆の反応が日本とは全く違い、盛り上がり方も当然違う。コンサートは『アストリア』からの曲が殆どだったが、18番のノーマイクで唄う<思い出のサンフランシスコ>も素晴らしかった。聴衆は1曲ごとにスタンディング・オベーションをするし、立ったり座ったり、忙しかったのも覚えている。特に圧巻だったのは<ボディ&ソウル>だった。毎回のコンサートのハイライトだった。ベイシー・バンドのメンバーも「トニーの<ボディ&ソウル>は最高!」と言っていた。
ベネットはこの時、64歳。円熟期の頂点にあったような気がする。声の伸び、張りもまだ十分にあり、ノーマイクでのパフォーマンスも健在で、素晴らしくリラックスした美しい歌満載のコンサートだった。夏ということもあってか、コンサートはほとんどがアウトドアステージだった。私はほとんど毎晩疲れ果てた体で、彼らのパフォーマンスを堪能した。

バンドのコンサート・ツアー同行の最後はミシガン州ロチェスターという片田舎の街。そこにあるオークランド大学のパビリオンでだった。メドウ・ブルック・ミュージック・フェスティバルという催しの中の一つのイベントだった。
ソニー・コーンが、私を楽屋に連れて行きベネットに会わせてくれる、という約束だった。ビッグ・スターのベネットはガードが堅く、そう簡単には会えないらしい。コンサートの前にだいぶ時間があり、広い楽屋に行った。スタッフ数人と私たちだけで、ほとんど人がいない状態。最初にソニーがベネットに、私が東京から来ていてベネットのファンであることなど紹介してくれたことは覚えている。
恥ずかしながら、私はすっかり興奮して舞い上がっていた。何を喋ったのか全く記憶にない。しかし、ベネットはとても気さくに話しかけてくれ、(これも何を話したのか記憶なし)終始、笑顔だった。そして私の目をずっと見て視線を離さなかったのを覚えている。あのブルーの目で見つめられたら、こちらは心臓がバクバクになるのはのは当然では?
素晴らしい紳士だった。そんなことから、サインをもらうことも、写真を撮ることなどもすっかり忘れてしまい、残ったのはリハーサル時の遠景写真1枚のみ。
演奏中の写真撮影は禁止なのでそれしかないが、私の頭の中にはあの時のベネットの笑顔と強い視線がしっかり残っている。サインや写真などはどうでもよかった、と今は思っている。

ミシガン州、ロチェスター、オークランド・ユニヴァーシティのパビリオン、リハーサル風景

♪ 画家トニー・ベネット

ベネットは画家でもある。自ら、「私はpainter: 画家」と言っている。彼はマンハッタンにある、ハイスクール・オブ・インダストリアル・アート・イン・マンハッタンという美術学校で学んでいる。プロのシンガーになる前はイラストレーターとして生計を立てていたこともあるようだ。
シンガーになってからも、絵にも歌にも同じように情熱を持ち続けていた。常時スケッチブックを持ち歩き、自宅のアトリエ以外でも常にスケッチをしていたようだ。
住まいのニューヨークの風景、静物、人物など身の回りにあるものを描いていたが、特に自然が好きで旅先の景色やセントラルパークの自然をよく描いていた。ベネットの絵はミケランジェロの様に天才的に巧くはないが、対象物の雰囲気、内面をよく捉えた、とても上手い嫌味のない楽しい絵が多いと感じる。
レンブラント、マネ、ベラスケスなどに画法だけでなく、絵の本質的なことや描く対象物の捉え方など多くのことを学び、影響を受けたと言っている。個人的には英国の画家、デヴィッド・ホックニーからレッスンを取った時期もあった様だ、色使いなどにその影響が見られる。
が、一番影響を受けたのはスーザン夫人からではないだろうか?スーザン・ベネットはローカルな公立の美術学校の教師だった。絵を描く事は、ふたり生活の大きな柱だったことは間違いない。なんとも羨ましいカップルだ。

ルイ・アームストロングと彼のポートレイト、トニー・ベネット、1970年、ロンドン、サヴォイ・ホテルにて

そのスーザン夫人との共同プロジェクトがある。
1999年、ベネットとその妻のスーザンは、公立高校教育における芸術の役割を強化するために Exploring the Arts (ETA) を設立した。 ETA は、民間の資金提供者、個人アーティスト、文化機関をパートナースクールに結び付け、あらゆる背景を持つ若者に対するリソースを提供した。 ETA プログラムは、学校の校長や教師が予算削減に直面しても芸術を維持し、芸術をより効果的に活用して生徒の学習と参加を強化できるよう支援することを目的としている。 ETA の最初の取り組みは、トニーとスーザンがニューヨーク市教育省と提携して 2001 年に設立した公立高校、フランク シナトラ芸術学校 (FSSA) の設立だった。 FSSA は、トニーの故郷であるクイーンズのアストリアに新しく建設された建物内にある。
と、いうようにアート(絵画など)教育活動にも大変熱心だった。

ベネットの絵画は世界中の数多くのギャラリーで展示された。 2001年のケンタッキーダービーの公式アーティストに選ばれ、国連から50周年記念の作品を含む2点の絵画の制作を依頼された。「ホックニーへのオマージュ」は、オハイオ州ヤングスタウンのバトラー・アメリカン・アート研究所に常設展示されている。 彼の『帆船に乗った少年、シドニー湾』はニューヨーク市のグラマシーパークにある国立芸術クラブの常設コレクションに収蔵されている。 ベネットの絵画や素描はART NEWSやその他の雑誌で特集され、1枚あたり8万ドルもの値がついたこともある。 作品の多くは、1996 年に出版されたアートブック『Tony Bennett: What My Heart Has Seen』に見ることができる。2007 年には、彼の絵画に関する『Tony Bennett in the Studio: A Life of Art & Music』がアートブックのベストセラーになった。
『Tony Bennett What My Heart Has Seen』は、私自身も絵画を観たり描いたりする事が好きなので、この本は発売と同時にアメリカの友人に頼んで買って送ってもらった。今でも、私の大好きな画集の1冊で、時々見て楽しんでいる。もう1冊の『Tony Bennett in the Studio: A Life of Art & Music』は、やはりベネット・ファンである姉の誕生日に送った。

アルバム『アストリア』はアメリカから帰国後、毎日CDが擦り切れるくらいまで聴き、特に夏になると、あのアメリカでのトニー・ベネットと会った時の事を思い出す。

ベネットには到底及ばないが、同じ絵を描く事と歌が好きなファンの一人として、感謝と敬意を込めて描いたスケッチを添え、追悼コラムとしたい。
Thank you very much, Mr. Bennett! RIP.

(2023年7月26日記)

参考資料
*Tony Bennett: What My Heart Has Seen:1996 Rizzoli International Publication  Inc.
*Tony Bennett in the Studio: A Life of Art & Music : 2007 Rizzoli International Publication  Inc.
*Tony Bennett Life Is A Gift: 2013 Omnibus Press

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竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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