Tak. TokiwaのJazz Witness #03 ジョン・スコフィールドの想い出
Photo & Text by Tak. Tokiwa 常盤武彦
2017年に帰国して以来、アーティストのインタビューはもっぱら開演前のヴェニューの楽屋や、ホテルのロビー、部屋で行うことが多いが、在米中は自宅に伺って撮影する機会もあった。そのアーティストが日々練習を重ね、自らの歴史を語るアイテムに埋められている自宅でのインタビューは彼らの本質が垣間見える。ホテルや楽屋でのインタビューよりも、アーティストもフランクに話してくれて会話がはずむ。多くのアーティストの自宅を訪れたことがあるが、その最初を飾ったのはまだ移住する一年前の1987年の夏に1ヶ月ほどニューヨークに滞在していた際の、ジョン・スコフィールドのインタビューだ。1982年にマイルス・デイヴィス(tp)・グループにマイク・スターン(g)の後任として起用され、マイルス・サウンドをジョンスコ・カラーに染め上げた。1984年にグラマヴィジョン・レコードと契約し、1985年夏にマイルス・グループから独立、ヘヴィー級ドラマー、デニス・チェンバースを擁した自己のグループを結成した。『Still Warm』『Blue Matter』といった話題作をリリースし、ファンク路線を突き進んでいた頃だ。現在はハイラインとも言われているハドソン川にほど近いチェルシー地区の、芸術家のためにニューヨーク市が提供しているアパートのスコフィールド宅を訪れる。当時の筆者は、まだ英語が拙くて通訳を手配して、お話しさせていただいた。あの先鋭的なプレイと、マイルス・バンド時代に見せた鋭い視線とはうらはらに、自宅で寛ぐスコフィールドは、中西部出身の暖かい優しい人物だった。その数日前、ジャコ・パストリアス(el-b)が、フロリダで不慮の死を遂げる。教則ビデオで共演しているスコフィールドに思い出を訊くと「あのヴィデオ収録の時は穏やかだったけど、以前スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルで一緒になった時、深夜にホテルの部屋のドアを乱打して、俺だ俺、世界で最高のベーシストだって騒がれて参ったよ」と語っていた。この年の10月スコフィールドは来日、最終日の昭和女子大人見記念講堂でのコンサートをライヴ録音し『Pick Hits Live』としてリリースした。このアルバムを聴いた好敵手パット・メセニー(g)は「1982年のおよそ半年のツアーを全て録音し、全てのテイクを入念にチェックし選びぬいて『Travels』を制作したのに、ジョンはたった一晩のコンサートで、凄いアルバムを作ったもんだ」と驚嘆したという。
1988年に私がニューヨークへ拠点を移した頃、ジョン・スコフィールドはファンク路線から、ギター・トリオでスタンダードや、ニューオリンズのレジェンド・ドラマー、ジョン・ヴィダコヴィッチを起用したセカンドラインをフィーチャーした路線へとシフトした。そしてブルーノート・レコードに移籍、ストレイトアヘッドへと舵を切る。ジャズ・クラブ“Sweet Basil”のギグに伺って挨拶をすると、私のことを覚えていてくれて感激した。そして1990年の当時はまだ無名の若手コンポーザー/アレンジャーのヴィンス・メンドーサのレコーディングで、撮影のチャンスが巡ってきた。豪華メンバーが、メンドーサの複雑な譜面に苦戦している。バークリー音大の同級生だった盟友ジョー・ロヴァーノ(ts)と「バークリーに入学した頃は、スコアが読めなくって2人とも一番低いレベルのクラスに入れられたよな」と談笑していた。数テイクとオーヴァー・ダブで、メンドーサの音世界は美しく完成した。ピーター・アースキン(ds)に見出されたメンドーサは、のちにオランダのメトロポール・オーケストラの音楽監督を長く務め、2010年にスコフィールドはメンドーサ率いるメトロポール・オーケストラとアルバム『54』をリリースし、グラミー賞に輝く。スコフィールドの名が日本で知られるきっかけは、1977年の日野皓正(tp)元彦(ds)兄弟のツアーだった。そのリユニオンとも言える1993年の日野元彦のアルバム『It’s There』に、ゲスト参加し日野兄弟との友情に応える。ブルーノート時代には、ジョー・ロヴァーノとのコラボレーションに続いて、若手のラリー・ゴールディングス(org,p)、ビル・スチュアート(ds)を起用しグラマヴィジョン時代のソリッドなファンクとはまた一味違うファンキー路線、パット・メセニー、ビル・フリゼール(g)との共演アルバムと、ますます意気軒昂な活動を、スコフィールドは展開する。そしてヴァーヴへと移籍、初めてのアコースティック・ギター、バラードをフィーチャーした『Quiet』で新境地を聴かせてくれた。異色の若手との共演にも挑戦する。1990年代初頭からグラマヴィジョン・レコードから野心作を次々とリリース、スコフィールドと交代するようにブルーノートへ移籍して、全米の学生を中心に支持を集めてジャム・バンド・シーンのジャズ・サイドを牽引するトリオ、メデスキ・マーティン&ウッド(MM&W)と共演アルバム『A Go Go』を発表。MM&Wのファンに「なにやら摩訶不思議なギターを弾く上手いオッサン」として知られるようになり、若いリスナー層を拡大する。1999年には、ジョン・メデスキ(org,p)に誘われて、ジェイムス・ブラウン(vo)のファンク・リズムに大きな貢献を果たしたジョン・“ジャボ”・スターク(ds)とクライド・スタブルフィールド(ds)の教則ヴィデオ“Soul of Funky Drummer”の収録に参加した。オリジナル・メンバーのキャットフィッシュ・コリンズ(g)のトラでの出演だ。「ジャボとクライドだぜ、絶対参加したかった」とスコフィールドが、自らの音楽の源流を再確認したセッションだった。積極的にジャム・バンド・シーンに参戦し、ファンク・オルガン・トリオSouliveと共演したり、ジャム・バンド・シーンの若手を起用したニュー・バンドを結成する。筆者もジャム・バンド・シーンにコミットして日本に紹介していたので、スコフィールドとも深く関わることとなった。DJロジックのアルバムをリリースして注目を集めていたインディ・レーベル、ローパドープ・レコードのオフィスを訪れると、オーナーのアンディ・ハーウィッツからインターンの大学生を紹介された。彼女は1987年に初めてスコフィールドの自宅を訪れた時にまだ子供だった、スコフィールドのお嬢さんだった。その話を彼にすると「娘がニューヨーク大学に通っていて、学費が大変なんだよ。やっぱりジャム・バンドのアルバム作って稼がないと」と冗談を言って笑っていた。2000年に、アーティストの楽器コレクション拝見の特集を日本のPlayerマガジンから依頼を受けた時にスコフィールドに相談すると、実は30本近いギターを持っているとのこと。1977年の日野兄弟とのツアーの時に、アイバニーズから提供された長年愛用しているギターしか、ステージ、レコーディングでは見たことがなかったので驚かされた。子供の成長とともに、ニューヨーク郊外のカトナの閑静な住宅街に、だいぶ以前に引っ越していた。前年に世を去った日野元彦を偲び、なぜか「Tak.はトコに似てるな」と言われて恐縮する。ジャム・バンド・シーンの若手との共演について問われると「最近、やっとマイルスが私を雇ってくれた心境が、少し理解できる気がする」と語っていた。最先端の音楽をプレイする若手を起用し、自らの音楽をリフレッシュする。しかしマイルスは音楽のスタイルを変遷させながら、そのサウンドの本質は、チャーリー・パーカー(as)とプレイしていたビバップ時代から不動だった。スコフィールドのコンビネーション・ディミニッシュ・コードを駆使して、巧みにスケール・アウトするフレーズと、スペースを効果的に活かした彼独自のアーシーなブルース感覚とグルーヴ感も、どのようなビートに包まれても不変のワン・アンド・オンリーのスタイルだ。2003年に日野皓正の次男、日野賢二(el-b)のレコーディングに参加したスコフィールドに、プロデューサーを務めたプージー・ベル(ds)が「あの盛り上がっているジャム・バンドって、結局どういう音楽」と質問した。スコフィールドの答えは単純明快「あれはビートを強調した、フリー・ファンクだ」。この時代にもスコフィールドは、様々なレコーディング・セッションに参加し、唯一無二の存在感を放っていた。
ジャム・バンド・シーンが沈静化した後、スコフィールドは再び一作ごとに多彩な作品をリリースする。スティーヴ・スワロウ(el-b)とビル・スチュアートとのトリオ、ジャック・ディジョネット(ds)とラリー・ゴールディングスとのトニー・ウィリアムス(ds)の”Life Time”へのトリビュート・バンド“Trio Beyond”も印象深い。「まだティーン・エイジャーで、バークリーの学生だった頃、イースト・ヴィレッジの“Sluggs”(リー・モーガンが射殺されたクラブ)に“Life Time”が出演すると知って、当時のイースト・ヴィレッジは治安が悪くってかなり怖かったけど、仲間と車でボストンから聴きに行ったよ。ホントに凄かった」と昔話を語ってくれた。2009年のセレブレイト・ブルックリン!での久々のSouliveとの共演の時、いつもはマネージャーとして帯同する奥様ではなく、お嬢さんを連れて来ていた。「来週、彼女の結婚式なんだ」と、ちょっと寂しそうだったが、演奏はもちろん、エリック・クラズノー(g)との火を吹くようなギター・バトルを聴かせてくれる。ジョン・クリアリー(vo,org,p,g)とミーターズのメンバーと録音した『Piety Street』も、ニューオリンズ賛歌の素晴らしいアルバムだ。2013年の4月にバードランドで、久々にマイク・スターンと共演すると聞いて、また取材に駆けつける。アコースティック・トリオのフォーマットで、ギター・バトルを聴かせるという盛り上がるギグだった。ファースト・セットの合間に楽屋でコメントをもらっていると、スコフィールドはしきりにスマホを気にしている。「何かあったんですか」と訊ねると、「実は息子の体調が悪くって、ニューヨークにいるときはワイフと交代で病院に詰めているんだ。インタビュー中なのにすまないね」と応えてくれた。私も2000年の自宅訪問した時に会ったことがある中学生ぐらいだった息子さんだ。「息子のPTAに出席したら、私のこと知ってる父兄がいて喜んでくれて、嬉しかったよ」と話していたことを思い出した。夏の終わりに、デトロイトでスコフィールドと再会する。ジャム・バンド・ムーヴメントのころに率いた“Überjam Band”の再結成ツアーでデトロイト・ジャズ・フェスティヴァルに登場した。リリースしたアルバムは、お嬢さんに生まれた初孫の写真がカヴァーを飾っている。出演前にホテルで顔を合わせた時に「息子さんの容態は、いかがですか?」と問うと「残念ながら亡くなったんだ」と悲痛な表情をしていた。その夜の“Überjam Band”のパフォーマンスは、圧倒的だった。60を超えるバンドがプレイしたその年の同フェスティヴァルの中のベストだったと思う。のちに会った時に、それを伝えると「音楽があったから、息子との別れを克服できたのかもしれない」と、しみじみと話してくれた。“Überjam Band”の活動に続いて、MM&Wとの共演もメデスキ・スコフィールド・マーティン&ウッドとして再開した。スコフィールドの凄みは、リユニオン・バンドも単なる過去の再演ではなく、別のアスペクトからグループの魅力を新たに輝かせるところにある。そしてスコフィールドはジョー・ロヴァーノとのリユニオン・アルバム『Past Present』、スティーヴ・スワロウ、ビル・スチュアートのトリオに、ラリー・ゴールディングスを加えて、愛してやまないカントリー・ミュージックにフォーカスした『Country for Old Man』で、連続してグラミー賞を授与された。アルバムは発表されてないが、ブラッド・メルドー(p.kb)&マーク・ジュリアナ(ds)のエレクトロニカ・デュオ“Mehliana”にも参加し、新たな色彩をブレンドした。学生時代以来というエレクトリック・ベースもプレイしたが、ギターほど流暢でないのはご愛嬌だった。また全員ハドソン川沿いに住んでることから命名したジャック・ディジョネット、ジョン・メデスキ、ラリー・グラナディア(b)との“Hudson”も好評を博している。昨年は、若手のジェラルド・クレイトン(p,org)をフィーチャーした“Combo 66″で来日。クレイトンは、スコフィールドのリクエストで、初めてオルガンをプレイしたそうだが、若き日のラリー・ゴールディングスを彷彿させるプレイだった。インタビューで次回作を問うと、スティーヴ・スワロウ曲集だという。そのアルバムが、先日ECMからリリースされた『Swallow Tales』だ。70年代から共演しているスワロウとのコラボレーションは、今なおフレッシュさを失わない。ジョン・スコフィールドは、今後もその唯一無二のスタイルで、広大な音楽曼荼羅を展開してくれるのだろう。次に会うときは、どのようなフォーマットで、どんな音楽を聴かせてくれるのか?今から期待が膨らむ。