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Tak TokiwaのJazz WitnessR.I.P. チック・コリアNo. 275

Tak.TokiwaのJazz Witness #05 チック・コリアへの追憶

 


Photo & Text by Tak. Tokiwa 常盤武彦

チック・コリア(p,kb)の訃報には、本当に驚かされ、揺さぶられるような大きなショックを受けた。コロナ禍でも、自宅からの配信や、リモートで日本の中学生のブラス・バンドを指導する元気な姿を見ていただけに、信じ難いニュースだった。最後にお会いしたのは2019年春の東京。9月に出演の東京ジャズのインタビューの撮影だった。演奏に触れた最後は2018年のデトロイト・ジャズ・フェスティヴァル。4日間のフィナーレを飾る、フル・オーケストラでの”Spain”は、圧巻だった。円熟味がまし、ますます進化を遂げている。私が生きている限り、絶対に忘れないパフォーマンスだ。まだまだ10年以上、ジャズ・シーンの最先端をリードし続け、後進たちを励ましてくれるだろうと思っていた。自らの死を予期した別れのメッセージは、いつもインタビューで語っていたように、自分の音楽を実現できる、素晴らしい友人たちに恵まれたことへの感謝と、若いアーティストへの暖かい励ましに満ちており、最後までポジティヴな姿勢を崩さない。今は、チックの遺した膨大な音楽を聴きながら、その偉大な業績と、素晴らしい人柄を偲びたい。

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チック・コリアを初めて聴いたのは、中学生の頃だったと思う。廉価盤で再発売された『Friends』を聴きその音楽に惹かれ、メンバーが重複している『Three Quartets』に衝撃を受ける。アルバムを収集し、来日公演のラジオ・オンエアがあれば、エアチェックした。今もその頃のテープを愛聴している。初めてコンサートで聴いたのは、パコ・デ・ルシア(g)を連れて来日した『Touchstone』のツアーで、昭和女子大の人見記念講堂だった。フラメンコ・タッチのプレイが、私のチック・コリア・ライヴ体験の始まりだ。

NYへ渡った1988年の年末、初めて直接お会いして撮影するチャンスが巡ってくる。チックはこの年の、大晦日をを挟んだ年末から年始にかけて、ジョン・パティトゥッチ(b)、デイヴ・ウェックル(ds)ら若手と結成したニュー・トリオ、”Akoustic Band”を率いて、ブルーノートNYに出演し、年明け早々に、デビュー・アルバムを録音する。その密着取材の依頼を受けたのだ。まだ英語が拙かった私にも、優しく接してくれたおかげで、初めてのビッグ・ネームとの仕事は、まずまずの成果を上げて終えられた。チックは、大晦日の夜、朝4時までブルーノートNYでプレイ、元旦には、アルバム・カヴァーのフォト・セッション。そして2日からは深夜までレコーディングという、過酷なスケジュールだった。若いパティトゥッチやウェックルですら疲労は隠せず、不機嫌になる瞬間もあったが、チックは常にスマイルを絶やさず、創造的にアルバムを仕上げていく。新曲のタイトルに、同行していた当時のジャズ・ライフ誌の編集者だった熊谷美広氏が、「”Night Sprite”という曲があるから、この明るい曲は”Morning Sprite”というのはいかがですか」と提案すると、「それはグッド・アイディアだね」と笑っていた。このタイトルは採用され、アルバム『Akoustic Band』の中のハイライトとなっている。2018年夏の終わりのデトロイト・ジャズ・フェスティヴァルのオープニングにAkoustic Bandが登場し、一曲目、長いイントロに導かれて”Morning Sprite”のリフが顕れたとき、30年前のクリントン・スタジオの夜が鮮やかに思い出された。チックと過ごした1988年から89年の一週間は。29年に渡った私のNYジャズ・ライフの幕開けを飾る、まさにエポック・メイキングな瞬間だった。

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1990年代のチック・コリアは、Elektric Band、Akoustic Bandだけでなく、盟友たちとの再会セッションと、縦横無尽な活動を繰り広げていた。残念ながら撮影の機会は、あまりなかったが、客席から聴いていて精力的な姿にはいつも圧倒されていた。1999年に復活したヴィレッジ・ジャズ・フェスティヴァルのオープニング・イヴェントで、ワシントン・スクエアの野外ステージにニュー・バンドのオリジンを率いて登場した姿も印象に残っている。2006年には、アメリカ国立芸術基金が顕彰する、米ジャズ界で最も権威ある賞の一つであるNEAジャズ・マスターズに推挙された。その授与式と同時に開催されていたIAJE(国際ジャズ教育者協会)の年次総会では、ノルウェーのトロンハイム・ジャズ・オーケストラとの共演、エディ・ゴメス(b)、ジャック・ディジョネット(ds)とのスペシャル・トリオで登場。功なっても、さらなる進化を追求していた。2010年には、多大な影響を受けたビル・エヴァンス(p)へのトリビュートとして、エヴァンスの未発表曲を含むライヴ・アルバム『Further Explorations』を、エヴァンスのパートナーだったエディ・ゴメス、ポール・モチアン(ds)とブルーノートNYで録音する瞬間に立ち合えた。

翌年、久しぶりにチックにインタビューをする機会があった。オリジナル・メンバーのスタンリー・クラーク(b,el-b)、レニー・ホワイト(ds)に、ジャン=リュック・ポンティ(vln)、フランク・ギャンバレ(g)を加えて再始動したReturn To Forever Ⅳの来日公演への事前取材で、モントリオールへ飛んだ。インタビュー当日、前夜のコンサートを終えてツアー・バスで移動してきたチックは、早朝に国境の入管でトラブルがあり数時間足止めをされたそうで、さすがにお疲れの様子だったが、来日公演への抱負を熱く語ってくれた。音楽曼荼羅の如く、膨大に広がるその演奏活動について問うと、「映画監督や、小説家が一つの作品を完成させると、全く別の作品に取り掛かるのと同じ。私の音楽的アイディアを実現してくれる、素晴らしいミュージシャンの友人に恵まれていることに感謝している」と語ってくれた。スタンリー・クラークには、RTF結成の経緯を聞いた。チックとスタンリーは、ジョー・ヘンダーソン(ts)のグループの同僚だった。ツアーでスタンリーのホームタウンのフィラデルフィア滞在時にクラーク家を訪れ「ポップでダンサブルな、多くの人に支持される音楽をプレイするバンドを結成しよう」と、意気投合したという。デイヴ・ホランド(b)、アンソニー・ブラクストン(as)とのサークルの、商業的不成功が背景にあるのではと類推された。その夜のRTF Ⅳのパフォーマンスは、単なる70年代のリユニオンではなく、進化したRTFサウンドを聴かせてくれた。70年代のRTFのサウンドの核だったチックのフェンダー・ローズや、アナログ・シンセのミニ・ムーグは、すべてキーボードのヤマハ・モティーフにサンプリングされ、切れ味がましている。

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2012年にはゲイリー・バートン(vib)とのリユニオンに、ハーレム・ストリング・クァルテットが加わったツアーを展開していた。9月のレイバー・デイ・ウィークエンドにデトロイトで聴き、半ばにブルーノートNYでインタビューを行った。このときは、ヤマハ・ピアノ125周年の記念インタビューで、音楽についてだけでなくパーソナル・ヒストリーについて深く話を聞くことができた。ブルーノートでのサウンド・チェックを終えると、食事をしながらインタビューを受けようと、ジョン・レノン&オノ・ヨーコ夫妻もよく訪れていた近くのマクロビオティック・レストランのソーエンへ向かった。2010年ごろからチックは食事制限でダイエットに成功し、体調はとても良いとのことだった。マサチューセッツ州チェルシーでの、幼少時の思い出を訊く。「父はローカル・シーンで活躍するジャズ・トランペッターで、そのSP盤もあるレコード・コレクションを聴いてジャズに目覚める。父のバンドのメンバーがギグの後、我が家に来て母の作ったパスタを食べながら談笑している雰囲気が大好きだった。母は、キャンディ工場で包装の仕事をして、父と私を献身的にサポートしてくれていた。ピアノが欲しいとねだると、母の知り合いが亡くなったとき、その家のアップライト・ピアノが不要になったと聞いて、安く譲ってもらってきてくれた。あのピアノが家に来た日の嬉しさは忘れられない」。チックのトレード・マークともいえるラテン・タッチのプレイについて問うと、モンゴ・サンタマリア(per)のバンドに在籍中に身に付けたと語ってくれる。最後にいつもアーティストに訊く、自らの音楽キャリアの中でエポック・メイキングな瞬間を問うと「マイルスや、スタン・ゲッツ(ts)、ジョー・ヘンダーソン(ts)ら、レジェンドたちとプレイしてきたけど、高校を卒業した夏、ラスヴェガスでの演奏の仕事をもらって、故郷を旅立ったときだね」と、遠い思いを馳せていた。

2018年のデトロイト・ジャズ・フェスティヴァルで、チック・コリアはアーティスト・イン・レジデンスを務める。オープニングのAkoustic Band、残念ながら雨天で中止となったElektric Band、そしてフル・オーケストラで1999年にリリースした『Corea. concerto』の再演は、4日間のフェスティヴァルを締めくくるにふさわしい壮大な演奏だった。インタビューをお願いしたが叶わず、秋に小曽根真(p)との共演コンサートで来日したときに東京で、デトロイト・ジャズ・フェスティヴァルについてと今後の精力的な活動予定について話を聞けた。最後に会った2019年春は、インタビュアーは、31年前と同じ熊谷美広氏で、A&R担当もAkoustic Bandデビュー作録音時にスタジオで立ち会った靑野浩史氏が同席していた。「あのときのリユニオンだね。”Morning Sprite”のタイトルありがとう」と、インタビューはいつものように盛り上がって終え、撮影でもサーヴィス精神旺盛にポーズを決めてくれた。まだまだこれからも繰り返されるルーティンだと思っていたが、まさかこの瞬間が最後になってしまうとは。まだ現実を受け入れるには、時間が必要だ。今は、生前のご厚誼に感謝して、ご冥福をお祈りしたい。チックさん、本当に長い間、ありがとうございました。

 

 

常盤武彦

常盤武彦 Takehiko Tokiwa 1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、『ジャズでめぐるニューヨーク』(角川oneテーマ21、2006)、『ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ』(産業編集センター、2010)がある。2017年4月、29年のニューヨーク生活を終えて帰国。翌年2010年以降の目撃してきたニューヨーク・ジャズ・シーンの変遷をまとめた『New York Jazz Update』(小学館、2018)を上梓。現在横浜在住。デトロイト・ジャズ・フェスティヴァルと日本のジャズ・フェスティヴァルの交流プロジェクトに携わり、オフィシャル・フォトグラファーとして毎年8月下旬から9月初旬にかけて渡米し、最新のアメリカのジャズ・シーンを引き続き追っている。Official Website : https://tokiwaphoto.com/

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