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Tak TokiwaのJazz WitnessNo. 282

Tak TokiwaのJazz Witness #06 パット・マルティーノの想い出

 


Photo & Text By Tak. Tokiwa  常盤武彦

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早いもので、音楽撮影を生業として、30年を超えてしまった。1988年にアメリカに渡ってから、より近い距離感でアーティストと接する機会が増えた。その中で、私の人生観にまで深い影響を及ぼしてくれたのは、パット・マルティーノ(g)だ。熱狂的ファンの間では、“ギター神”と異名をとるこの唯一無二の天才ギタリストとの出逢いは、1994年だった。ミューズとの契約を終了したマルティーノとキング・レコードが契約を結び、レコーディングを敢行する。そのレコーディングと、プロモーションの撮影の依頼を受けた。パット・マルティーノの音楽は、高校生の頃ジャズ喫茶で、1972年のアルバム『Live!』を聴いたことがあった。大学のジャズ研の新歓コンパで、好きなアーティストにパット・マルティーノをあげていた新入生がいて、「渋い趣味をしてるなあ」と思ったこともある。まあ当時は、パット・メセニー(g)、ジョン・スコフィールド(g)、マイク・スターン(g)の全盛時代だったので、そう感じたのであろう。撮影にあたって、マルティーノの背景を調べてみたら、驚かされた。ジョージ・ベンソン(g,vo)と、ウェス・モンゴメリー(g)の後継者の座を争った好敵手。1976年に脳動静脈畸形による脳動脈瘤が見つかり、1980年に手術を受けるも、自らの父以外の全て記憶を失う。手術後の最初の一年は、自分が何者だかわからない恐怖で、目が覚めるとすぐに睡眠薬を飲み、また眠るということを繰り返していたそうだ。その後、昔の仲間の協力で、再びギターを手にする。ギター・プレイと共に、記憶も徐々に戻り始めた。そしてこの不屈の天才ギタリストは、1987年に奇跡のカム・バックを果たす。タイトなリズムと、弦高の高いセッティングから繰り出される野太い音色で、マシンガンのようなフレーズを繰り出すこのギタリストが、どのような人物か興味が高まり、スタジオへと向かった。メンバーは、マルティーノの地元フィラデルフィアでよく共演しているピアニスト、ジェイムス・リドル(p)と、マーク・ジョンソン(b)、ブラジル出身のジョー・ボナジオ(ds,per)。レコーディングしたアルバムは『The Maker』(創造主)とタイトルされた。激しいプレイはやや抑えめで、タイトルの通り、どこか敬虔で思索的、静的な雰囲気を持つ作品であり、まさに当時のパット・マルティーノが醸し出すスピリチュアルな空気感そのもののようなアルバムだった。

レコーディングから数週間後、プロモーション写真の撮影のため、マルティーノのフィラデルフィアの自宅を訪れた。両親が遺したタウンハウスに一人で暮らすマルティーノ。まだ明るいうちに、家の近所をロケで散策し、自宅での撮影もさせていただいた。どの部屋もチリひとつ落ちてなく、整然と片付いている。カジュアルなジーンズにも、ピッシリとアイロンがかかっている徹底ぶりだ。破綻のないフォーマットのマルティーノの音楽と、同軌するただづまいだ。書斎の机の上には、ライヴァルのジョージ・ベンソンの写真があった。1987年のNYのボトム・ラインにおけるカム・バック・ライヴの時も、ベンソンは客席からマルティーノの復帰を祝福していたそうだ。コンピューター・グラフィックスで描いたニュー・アルバムのカヴァーの抽象画や、取り組んでいるバレエ曲のスコアを見せてくれた。数時間の撮影は無事終了し、近所のマルティーノ行きつけの寿司屋で夕食を共にし一献を傾ける。世間話で「最近どうだい?」と聞かれたので、「仕事が忙しくって、なんかリラックスできないですね」と応えたら、「君はどうして忙しいと感じるのかね?私は1944年(マルティーノの生年)以来、常に忙しいけれど、一度も忙しいと感じたことがない。なぜなら私はいつもクリエイト(創造)しているからだ」とマルティーノは話してくれた。私に、ある種の衝撃が走った。以来この不屈の天才の言葉は、私が撮影に対峙する時に、いつも心に刻む金言となっている。翌年、初めてのマルティーノの日本ツアーのポスター用に、ブルーノートNYに出演したマルティーノを撮影した。最前列で、ドンペリをオーダーしている客がいる。なんとジョージ・ベンソンだった。残念ながら、この日本ツアーはキャンセルとなってしまったが、幻の第一回日本ツアーのポスターは、今も私の仕事部屋の壁を飾り、私に「常にクリエイト」と語りかけてくる。

1987年にカム・バック後のマルティーノは、ミューズから散発的にアルバムをリリースしていて佳作はあるのだが、1960年代から1970年代にかけての全盛期に比べると、勢いの衰えは否めなかった。1997年にブルーノート・レコードと契約し、コンスタントに精力的なアルバム制作を開始すると、第2期のピークへと昇り始める。その頂点に達したのが、グラミー賞にノミネートされた西海岸の老舗ジャズ・クラブ、Yoshi’sでのライヴ・アルバムだ。若きハモンド戦士のジョーイ・デフランチェスコ(org)と、ヴェテランのビリー・ハート(ds)とのトリオは、火を噴くようなインタープレイの応酬とテンションの高いロング・ソロが繰り広げられ、パット・マルティーノが現代最高のインプロヴァイザーの一人であることを証明した。ブルーノート・レコードのNYオフィスで、久しぶりの撮影のチャンスをいただいたのも、この頃だ。変わらない穏やかな語り口の中にも、音楽活動の充実から力強さが蘇っていたのが印象的だった。当時のマルティーノは、ゲスト参加も多く、ウリ・ケイン(p.kb)、クリスチャン・マクブライド(b)、ザ・ルーツのクェストラヴ(ds)のユニット、フィラデルフィア・エクスペリメントでも、同郷の若いプレイヤーたちに囲まれて、鋭いギターを響かせる。そして1970年代半ばに行動を共にした盟友、ギル・ゴールドスタイン(p,kb)のディズニー・カヴァー・プロジェクトにも誘われて参加する。2人のスタジオ・レコーディングでの共演は、ほぼ25年ぶりだったそうだ。2000年代からは、精力的にギグにも乗り出し、ブルーノートやバードランドへよく出演していた。マルティーノと握手を交わすと、その細身からは想像できない強い握力にいつも驚かされる。そしてその真摯な演奏に触れると、私自身の撮影に対する姿勢をいつも問われているようで、襟をただす思いがした。2010年代に入ると、マルティーノは、ブルーノート・レコードから、かつてプレスティッジやミューズのプロデューサーを務めていたジョー・フィールズが主宰するハイノートへ移籍。オルガンを中核に据えた、ソウルフルなサウンドを追求する。

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2012年に再び、マルティーノのリーダー・アルバムの撮影を手がけるチャンスが、巡ってきた。レコーディング・パートナーは、ギル・ゴールドスタイン。マルティーノとゴールドスタインは、1970年代初頭に出逢い、交流を重ねた。70年代半ばには、マルティーノのフィラデルフィアの自宅に、ゴールドスタインのマイアミ大時代の親友で、まだウェザー・リポート加入前夜のジャコ・パストリアス(el-b)が居候し、3人でセッションに興じていたこともあったそうだ。マルティーノとゴールドスタインは、『Exit』『Starbright』、そしてデュオ作品の珠玉の名作『We’ll Be Together Again』を、この頃に録音している。その36年ぶりの再会セッションが、セッティングされたのだ。。1976年の『We’ll Be Together Again』は当初、ギターとピアノのデュオの予定だったが、ソーホーのスタジオのピアノが湿気でコンデションが酷く、急遽スタジオにあったフェンダー・ローズで録音されたそうだ。偶然の産物から、ギターとキーボードのデュオ・ミュージックの金字塔が打ち立てられたのだ。このゴールドスタインとの再共演のオファーについて「太陽系の惑星は、それぞれの周期で、同じ地点に到達する。かつて共演したアーティストとの再演も、また宿命のように定められている」と、語っている。グルーヴィーなハードボイルド路線を突き進んでいたマルティーノは、2011年の東日本大震災の被災者へのヒーリング、犠牲者への鎮魂歌となる、静謐な作品の制作を決意した。

6月初旬にNYのミッドタウンにあるMSRレコーディング・スタジオでのセッションの2日目の終わり頃に、私は撮影のためスタジオを訪れた。ちょうど最後の曲<Portrait>にOKが出て、スタジオの空気が和み始めた頃だった。スタジオには、マルティーノとゴールドスタイン、プロデューサーとエンジニアを兼ねたカーク・ヤノ、マルティーノの奥様のアヤコ夫人、マネージャーのジョー・ドノフィーノと数人の友人がいて、くつろいでいる。実際のレコーディングは、2人のアイディアを確認する簡単なリハーサルをへて、相互刺激によってスポンテニアスに展開していくサウンドを記録したそうだ。レコーディング・ルームで、軽くセッションをする2人の様子や、コンソールでモニターを聴く様子などを撮影させていただいた。

それから1ヶ月ほどのち、私は、18年ぶりにフィラデルフィアのマルティーノ邸へ向かった。。アルバムのカヴァー写真の撮影と、ライナー執筆のためのインタビューをお願いした。マルティーノと、今回はアヤコ夫人も笑顔で迎えてくれる。アヤコ夫人は、キャンセルになった1995年の初来日ツアーの翌年に実現した日本ツアー中に開催された、ギター・ワークショップの唯一の女性参加者だったそうだ。その後、縁あってマルティーノと結婚、公私に渡って彼をサポートしている。まずは、インタビューからスタートし、印象的なエピソードがあれば写真に反映させたいと考えた。ギル・ゴールドスタインとの出逢いのエピソードから、マルティーノの若手時代へと遡った。マルティーノの父も、フィラデルフィアのローカル・シーンで活躍したギタリストであり、パット・マルティーノという芸名は、父から受け継いだそうだ。(本名はPatrick Azzara)15歳になった1959年にニューヨークのハーレムに拠点を移す。公民権運動の真っ只中で揺れていたハーレムで、強盗に遭うようなこともあったそうだが、ジャズの本質に迫るためにかの地で修行を続け、やがて“The Kid”と異名を取るようになる。19歳になった1963年、135丁目にあったスモールス・パラダイスで演奏していると、レス・ポール(g)が聴きにきてくれたそうだ。ブレイクの時に、2ブロック南の、カウント・ベイシー(p)がオーナーのベイシーズに出演中のウェス・モンゴメリー(g)を聴きに2人で向かった。レス・ポールはそのまま残り、マルティーノは、最後のセットの演奏にスモールス・パラダイスに戻った。午前4時にギグが終わってベイシーズ寄ってみると、ウェスとレス、グラント・グリーン(g)とジョージ・ベンソンが待っていてくれた。5人で朝食を囲んだというエピソードを楽しそうに話してくれた。まさに最高のジャズ・ギタリスト・サミットと言える、豪華な朝食だ。

新旧のゴールドスタインとのデュオ作について質問すると、「アルバムの成立のプロセスが全く違うし、比較することはナンセンス。ジャズとは、瞬間のリアリティである。スタジオ、楽器のコンディション、アーティストのフィーリング、全ての要素が重なって音楽へ結実し、二度と同じことは起こり得ない」と、マルティーノは断言した。36年の長い時間は、2人の音楽を芳醇な香りを放つワインのように熟成させ、新たなアスペクトへと導いた。前作と共通するスリリングな緊張感の中に、リラックスした安堵感が広がる音宇宙が構築される。完成したアルバムは、『We Are Together Again』と、タイトルされた。

その後も、マルティーノとは、ジャズ・クラブや、フェスティヴァル、帰国後は東京でもお目にかかる機会があった。パット・ビアンキ(org)、カーメン・イントーレ(ds)のトリオでの演奏が基本だが、2018年のデトロイト・ジャズ・フェスティヴァルでは、アルバム『Fomidable』のレコーディング・メンバーの2ホーンも加わったクィンテットのプレイを聴くことがができた。分厚いアンサンブルの中でも、マルティーノの太いギター・サウンドは際立っており、トレード・マークのマシンガン・フレーズを繰り出している。昨年、メールでマルティーノの病気治療費用のファンド・レイジングの依頼が届いた。呼吸器に疾患を抱えているという話は聞いていたが、その後の消息は、まだ届いていない。またどこかで、復活したパット・マルティーノにお会いして、あのサウンド・シャワーを思う存分浴び、穏やかで慈愛に満ちた人柄に触れたい。今は1日も早い復帰を祈るばかりである。

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常盤武彦

常盤武彦 Takehiko Tokiwa 1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、『ジャズでめぐるニューヨーク』(角川oneテーマ21、2006)、『ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ』(産業編集センター、2010)がある。2017年4月、29年のニューヨーク生活を終えて帰国。翌年2010年以降の目撃してきたニューヨーク・ジャズ・シーンの変遷をまとめた『New York Jazz Update』(小学館、2018)を上梓。現在横浜在住。デトロイト・ジャズ・フェスティヴァルと日本のジャズ・フェスティヴァルの交流プロジェクトに携わり、オフィシャル・フォトグラファーとして毎年8月下旬から9月初旬にかけて渡米し、最新のアメリカのジャズ・シーンを引き続き追っている。Official Website : https://tokiwaphoto.com/

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