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No. 215カンザス・シティの人と音楽 竹村洋子

47. チャック・へディックス氏との “オーニソロジー” : チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉

47.” Ornithology” with Chuck Haddix: Charlie Parker historical tour 〈part2〉

text & photos by Yoko TAKEMURA 竹村洋子
special thanks to Chuck Haddix (UMKC, Miller Nichols Library, Marr Sound Archives), Larry Kopitnik ( Editor of Jam magazine ), and Missouri Valley Special Collections, Kansas City Public Library ( Kansas City, Missouri )

“オーニソロジーPart 2” は、カンザス・シティの街で、チャーリー・パーカー(以下バード)が関わっていたクラブやエンターテインメントの場所を中心に、カンザス・シティ・ジャズを語るに欠かせない場所を紹介していく。

バードは1920年生れ、この街の黄金期にバードはここカンザス・シティで過ごし、 民主党のボス、トム・ペンダーガストが1939年に脱税で失脚した時期とほぼ同じ頃に街を離れた。
カンザス・シティという街は、禁酒法の時代(1920~33年)民主党の腐敗政治により、ペンダーガストの庇護下に、アルコール、ギャンブル、売春等、何でも有りの大歓楽街となった。アメリカ全土から多くのミュージシャンや芸人が、違法営業によって乱立したナイトクラブやボールルームに集結した。1930年代の大恐慌の時でさえ、カンザス・シティは『天国の様な街』だった。
当時、ダウンタウンを中心に約120件程のナイトクラブやボールルームが集中していた、とメリー・ルー・ウィリアムズ(1910~1981)は回想している。
特に18th & ヴァイン地区(18th & Vine)とその周辺は『アフリカン・アメリカンのハート・オブ・ソウル』とか『アフリカン・アメリカの聖地』等と呼ばれ、ブラック・コミュニティのビジネス、エンターテインメントの中心であった。また、『ジャズ・ディストリクト』とも呼ばれていた。

♪リノ・クラブ (Reno Club)

ダウンタウンの中心にはパワー&ライト地区と呼ばれる所がある。ここは現在でもダウンタウンの繁華街の中心で、1931年に建てられた電力会社のパワー&ライト社のアールデコ・スタイルの高層ビルは、この地区のランドマークになっている。

『カンザス・シティのクラブの女王』と呼ばれていたリノ・クラブ(Reno Club)は、カンザス・シティ・ジャズを語るに欠かせない、最も有名なナイトクラブだ。1935年にカウント・ベイシーが9人編成のバンドを結成した時、初めて演奏したのがこのクラブである。1936年にここでのカウント・ベイシー・バンドの演奏がラジオで放送され、それを聴いていたジョン・ハモンドがカウント・ベイシーを見出した。
リノ・クラブではベーシー・バンドがホストとなって毎週月曜『スクープ・ブレックファスト・ダンス』が催されていた。月曜は、ほとんどのアフリカン・アメリカンのサービス業に携わる人達は休みだったので、皆、前の晩からクラブに集まって来ていた。そこではジャム・セッションとダンスが繰り広げられていた。バードは16才の頃、このブレックファスト・ダンスにシット・インしていた。ジャム・セッションの場で、ベイシーはバードに演奏する様に促したが、バードは何の反応もしなかった。バードが演奏を始めるのを待っていたドラマーのジョー・ジョーンズは、ダンスフロアにシンバルを投げつけた。辱められたバードは楽器を持って帰ってしまう。バードはこの時の事に刺激を受け、「あいつら、いつかとっちめてやる!みんなが僕を笑い者にしたけど、今に見てろ!」と言っていた、というジーン・レイミーの回想話は有名だ。
後にバードは、バスター・スミスやジェイ・マクシャンのバンドのメンバーでこのクラブで演奏している。
クラブは1938年に脱税により閉鎖となったが、 それまでに多くの常連ミュージシャン達が連日連夜このクラブでジャム・セッションを繰り広げていた。
クラブのあった、東602番地、12丁目(602E. 12th Street)は現在は駐車場となっている。

♪センチュリー・ルーム(Century Room)

バードはカンザス・シティに越して来た7才から13才頃まで、ウエストポートという地区に住んでいた。ダウンタウン中心部の繁華街から南へ約3~4km程の所だ。
バードが住んでいた家からすぐ近所に、ボールルーム、センチュリー・ルームがあった。
ボールルームは赤レンガブロックの建物の2階にあった。ここでバードが1938年に演奏した、という記録が残っている。
この場所は2013年にブロードウェイ・ジャズクラブ(The Broadway Jazz Club)として再開し、地元のミュージシャン達に支持されていたが、この2015年10月、ジャズクラブは経営不振で惜しまれつつ閉鎖となり、新しい経営者によるレストランに変った。
(所在地:3605 Broadway, Kansas City)

♪プラ・モア・ボールルーム(Pla Mor)

プラ・モール・ボールルームは、アメリカに於けるインドアで最大のスケールを持つ複合的なエンターテインメント施設の一つとして、1927年11月24日に建てられた。アイスホッケーアリーナ、スイミングプールやボウリング場などに加えて、このボールルームがあった。内装は美しいアールデコのデザインの天井に、豪華なカーテンとカーペットが使用されていた。4000人近くのダンサーが収容でき、カンザス・シティ一の『百万ドルのボールルーム』と呼ばれていたゴージャスなボールルームだった。
カウント・ベイシーはじめ、アンディ・カークやジャンゴ・ラインハルトやホーギー・カーマイケル等もここで演奏した。バードはジェイ・マクシャン・バンドと一緒にアイスホッケーアリーナで演奏したことがある。
第2次世界大戦中もオープンしていたが、1957年に閉鎖となった。現在は建物もない。現在の写真もないが重要なボールルームとして記しておく。
(Linwood & Main Street)

♪エル・トレオン・ボールルーム(El Torreon Ballroom)

プレイ・モア・ボールルームと並んで人気を競っていたのが、エル・トレオン・ボールルームだ。
1927年の12月にオープンした。2000人のダンサーが収容でき、10万ものミラーのイルミネーションにデコレーションされ、『クリスタル・ボール』と呼ばれていた。フィル・バクスター&エル・トレオン・オーケストラがハウス・オーケストラを1933年まで務めた。ベニー・モーテン、アンディ・カーク、クラレンス・ラヴのオーケストラはこのボールルームのレギュラーバンドだった。キャブ・キャロウェイもここで演奏した事がある。
1936年にアヴァロン・サパー・クラブとなり、1960年にスケート・リンクになり、70年代にはカウタウン・ボールルームとして、ヴァン・モリソン、ニッティ・グリッティ・ダート・バンド、ジョン・メイオール等のフォーク・カントリー・ミュージック、ブルースやロック・ミュージシャン達の演奏の場となっていた。1年程前に屋根の一部が崩壊したため、教会に買い取られ、現在は使われていない。
1935年14才だったバードはローレンス・キーズが結成した『テン・コード・オブ・リズム(Lowrence Keyes Ten Chords of Rhythem)』に参加し、プロとして初めてのキャリアをリンカーン・ホールでデビューする。バンドは次第に大きなホールであるプレイ・モアやエル・トレオンといったボールルームで演奏をする様になる。
これらのボールルームはエアー・コンディションがなかったため、夏の暑い時期は休業していた。それに代わってフェアリーランド・パーク(Failyland Park)といったアウトドアのアミューズメントパークがミュージシャン達の活動の場となっていた。
(Gillham Plaza at 31th Street)

♪クレア・マーティンズ・プラザ・タヴァーン( Clair Martin’s Plaza Tavern )

ナイトクラブのほとんどはダウンタウンにあったが、カントリー・クラブ・プラザにあった唯一のクラブが クレア・マーティンズ・プラザ・タヴァーン。 アフリカン・アメリカンのジャズ・ミュージシャンを初めて雇ったクラブとしても有名であり、重要なクラブ。
1938年11月、バードはジェイ・マクシャン・バンドにいた時にここで演奏した。
西 210番地,47丁目(210W.47th Street)にあり、現在は奇麗に改装されてブラジリアン・ステーキハウスとなっているが、建物のファサードは当時のままだ。

♪ブルー・ルーム(Blue Room)~ホテル・ストリート・サイト(Hotel Street Site) ~

ジョーンズ・レクリエーション・パーラー(Jones Recreation Parlor) ~サブウェイ・クラブ(Subway Club) : 18th & Vine 地区

現在のジャズクラブ、ブルー・ルームは18th ストリートとVine ストリートの角にあるアメリカン・ジャズ・ミュージアム内にあるが、オリジナルのブルー・ルームはホテル・ストリート・サイトの中にあった。ブルー・ルームは、プロフェッショナルのエンターテインメントがある素晴らしいナイトクラブだった。そこに集まるアフリカン・アメリカン達にとっては『みんなに会え、見たり見られたりする社交の場』だった。ホテル・ストリート・サイト内にはローズ・ルームというレストランもあり、街の有力者達が集い、長い間この地区の重要スポットだった。ホテルがあった場所には現在2件の新しいビルが建てられている。(1508 East, 18th Street)
ホテル・ストリート・サイトの隣が ジョーンズ・レクリエーション・パーラー。ここは1911年に出来たビリアード・パーラー。カウント・ベイシー、ベニー・モーテン,レスター・ヤング等,数多くのミュージシャン達がここでビリヤードに興じていた。このビルは1886年に建てられ、このエリアで最も古いビルとして現存する。
(1514East,18th Street )
サブウェイ・クラブはジョーンズ・レクリエーション・パーラーの隣にあった。パイニー・ブラウンによって経営されており、1940年にデッカ・レーベルで録音されたビッグ・ジョー・ターナーの<Piney Brown Blues>はこのクラブ経営者の事。
現在は新しいビルになり、18th & Vineジャズ・ディストリクト再開発コーポレーションがある。
(1516 East, 18th Street)

♪エルクス・レスト・クラブ & エル・キャプテン・クラブ(Elks Rest Club & El captain Club)

エルクス・レスト・クラブ は1906年に設立されたメンズクラブ。エル・キャプテン・クラブは1940年代初めに栄えたジャズクラブ。この場所は現在アメリカン・ジャズ・ミュージアムになり、その一角に現在のジャズクラブ、ブルールームがある。(1610 East, 18th Street)

♪ベニー・モーテン・レジデンス

カンザス・シティ生れの最も有名なジャズ・バンドリーダー、ベニー・モーテン(1894~1935)が1920年代の初め頃から、1935年に亡くなるまで住んでいたアパート。
(1616East, 18th Street)

♪リンカーン・ビルディング( Lincoln Building )

18th&Vineの角にある一番目立つビル、リンカーン・ビルディング。1921年に建設され、1981年に改装された。このエリアのランドマークとなっている。1階にリンカーン・ファニチャー・カンパニーが経営する家具屋や洋服屋があり、2階に医者、歯医者,弁護士等の事務所があり、3階がダンスホールだった。
前出のエル・トレオン・ボールルームの箇所で記した様に、 1935年8月4日の日曜日、14才だったバードはローレンス・キーズの『テン・コード・オブ・リズム(Lowrence Keyes Ten Chords of Rhythem)』に参加し、プロとして初めてのキャリアを、このビルの3階にあったリンカーン・ホールでデビューする。
また、1938年11月に参加したハーラン・レナードのバンドの仕事で初めてもらったギャラ75セントの小切手を、このビルの中にあったマトロウズ(Matlow’s)という洋服屋で現金化した記録もある。 (1601East,18th Street)

♪ジェム・シアター(Gem Thater)

18th Street にあるひと際華やかなファサードのジェム・シアターは1912年に建てられた。サイレント映画が全盛だった頃から1927年にトーキー映画が出来、ポピュラーになり始める1929年頃までには、このエリアで映画館としての地位を築いていた。映画館としての歴史は1960年代頃終わったが、1980年代に入りこのエリアの再開発で復活。現在はアメリカン・ジャズ・ミュージアム傘下となり、客席数500を有する劇場に生まれ変わった。
(1615East,18th Street)

♪ルシールズ・パラダイス・バンド・ボックス(Lucille’s Paradise Band Box)

カンザス・シティ・コール社の西にあるナイトクラブ、ルシールズ・パラダイス・バンド・ボックス。バードは、1938年にバスター・スミスのバンドにいた時、ここで演奏した。
(1713East, 18th Street)

♪カンザス・シティ・コール・ビルディング(Kansas City Call )

1919年に設立した、アフリカン・アメリカンを対象としたウィークリー新聞、カンザス・シティ・コール本社。新聞は現在でも発行され,支持されている。
(1715 East, 18th Street)

♪エブロン・シアター: チェリー・ブロッサム・クラブ(Eblon Theater:Cherry Blossom Club )

エブロン・シアターはカンザス・シティのジャズ史の中で2番目に重要な歴史的な建築物。1923年11月4日にオープン。アフリカン・アメリカンのオーナーにより経営されていた最初の劇場。スペイン風デザインのドアがあるテラコッタ煉瓦で作られたファサード。内部はヴェロアのドレープで飾られており1000の客席があり、サイレント映画が上映されていた。
1929年、若いビル・ベイシー(後のカウント・ベイシー)は、カンザス・シティに初めて来た時、この劇場のパイプオルガンをサイレント映画のために弾いていた。
1933年、この劇場はチェリー・ブロッサム・クラブというナイトクラブに変わる。当時ベニー・モーテン・バンドにいたカウント・ベイシーは、ベニー・モーテンがバンドリーダーを投票で追放された時の数ヶ月間、『カウント・ベイシー&チェリー・ブロッサム・オーケストラ』という名でバンドのバンドリーダーを務め、このクラブで演奏していた。(カウント・ベイシーはベニー・モーテン・バンドに1929年参加)ベン・ウエブスター、コールマン・ホーキンスらもここで演奏している。
1984年8月、この建物は火災で焼失。現在はファサードだけが残っている。
(1822 Vine)

♪ケンタッキー・バーベキュー(Kentucky Bar-B-Q)

1940年代初め、スィンギーなバンド演奏とスパイシーなバーベキューを提供する店、として有名な店だった。後に1946年、現在のゲイツ・バーベキュー(Gates Bar-BQ)の第1号店として、オリー・ケンタッキー・バーベキュー(Ol’ Kentucky Bar- BQ)となる。
(19th & Vine)

♪19th & Vineのコーナー

1940年のクリスマス。当時ジェイ・マクシャン・オーケストラのトランペット奏者、バディ・アンダーソンがバードをディジー・ガレスピーにここで紹介した。

♪ミューチュアル・ミュージシャンズ・ファウンデーション(Mutual Musician’s Foundation)

カンザス・シティ・ジャズ史に於ける最も重要な歴史的建築物。1917年に設立されたローカル627、アフリカン・アメリカンのミュージシャンズ・ユニオンでミューチュアル・ミュージシャンズ・ファウンデーションのホールとして知られる。ユニオンは1970年に白人のミュージシャンズ・ユニオン、ローカル34と合併する。
1979年に作製されたブルース・リッカー監督によるドキュメンタリー映画『The Last Of Blue Devils』の舞台となった場所。アメリカ合衆国とカンザス・シティ市によって、歴史的ランドマークに、また、国の歴史的地区にも指定されている。
1930年代以来、金曜と土曜の夜はオールナイト・ジャムセッションが繰り広げられている。ミュージシャン達の練習,社交の場として現在も運営されている。
現在、ファウンデーションの建物の前には、アフリカン・アメリカンの中産階級の住宅が建ち並ぶ。
(1823 Highland Avenue )

♪パセオホール (Paceo Hall)

カンザス・シティ・ジャズ史において極めて重要で、代表的なアフリカン・アメリカンの為のダンスホール。 1924年3月にオープンした。 ここでは、カウント・ベイシーやデューク・エリントン・オーケストラを始めとするビッグ・バンドが、バンド合戦『バトル・オブ・スウィング』やっていた。
バードは1935年にローレンス・キーズのバンドで、このホールで演奏している。
現在はセント・ステファン・バプチスト・チャーチのホールとなっており、建物は当時のまま残っている。アメリカン・ジャズ・ミュージアムの裏手(北)500m程の所にある。
(1414 Truman Road, Paceo)

♪バード&カンザス・シティ・ジャズゆかりの場所を廻って

ここに紹介した場所はカンザス・シティ・ジャズのほんの1ページである。かつて栄華を極めたナイトクラブやボールルームの多くは取り壊され、また、現存する物もほとんどはリニューアルされ、現在は違う目的で使われている。そこから1930年代のカンザス・シティ・ジャズの繁栄ぶりを窺う事は極めて難しい。
が、建物を1件1件良く見ていくと、ほとんどは鉄筋コンクリートのない時代に建てられた低層のビルで、それは赤煉瓦でできていたり、アールデコの意匠が施されていたりと、当時の様子を窺い知る事が出来、興味深かった。私が訪ねた同じ建物の同じエントランス、同じ場所、同じ通りにバードやカウント・ベイシー、ジェイ・マクシャン始め多くのミュージシャン達が忙しく通ったりしただろうか?バードと同じドアをさわったりしただろうか?そこでどんな演奏をしていただろう?
音楽に目覚めたバード少年は、賑やかな街中を走り回り、レスター・ヤングや憧れのミュージシャン達の後を追っかけていただろう。18th & Vine地区の近くに住んでいた彼は、きっとジェム・シアターにも映画を観に行ったに違いない、などと想像を巡らせた。
そして、これらの建物が街の中に分散するその距離感や位置関係を振り返ってみると、『カンザス・シティの黄金時代』は、私の想像を遥かに超える壮大なスケールだっただろうと察する。コラムの中に数枚使用した当時の写真からも、現在とは比較にならない程の賑やかさが窺える。

紹介したそれぞれの場所の住所を記したが、インターネットのGoogleマップでサーチすれば、読者の皆さんはその場を覗く事が出来る。(12月25日記)


*参考文献
『Kansas City Jazz : from Ragtime to Bepop- A History』
『bird : The Life and Music of Charlie Parker』
『Jam: August/September 2015』

*写真の無断転載はきつくお断りいたします。

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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