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風巻隆「風を歩く」からNo. 315

風巻 隆「風を歩く」から Vol.27「ソロを作るということ」

text & photo:Takashi Kazamaki 風巻 隆

88年、はじめてのヨーロッパ楽旅のなかで、眠れない夜を何度も過ごした。もちろん夜中の3時や4時、そして早朝の5時に教会の鐘がギンゴンガンゴンいつまでも鳴り響くという慣れない環境もあったけれど、84年、87年のニューヨークではミュージシャンとしての自分を売り込むことを経験し、思いのほか自分の活動をダウンタウンの音楽シーンが評価してくれ、88年に西ドイツのレーベルからLPをリリースすることに至った。そうして足を運んだヨーロッパでは、ゲントの「LOGOS」にしても、アイントホーフェンの「HET APPOLOHUIS」にしても、ボクをアーティストとして受け入れてくれていた。

ただ、その頃のボクはアーティストとしての自覚はまったくなく、これまで自分がやりたいと思ってやってきた即興演奏をするほかはなく、誰のものでもない自分だけの楽器を使って、ただ行き当たりばったりの演奏をしているに過ぎなかった。だから、そうした眠れない夜には「自分の音楽」とは何だろうかといったことをよく考えていたし、東京に帰ったらまず初めに自分のソロを作り上げよう…、そう心に決めながらこれからのことを考えていた。「即興」とは何なのか、「即興演奏」とは何なのか、そうした根源的な疑問に自分なりの答をだすことが「アーティスト」には求められていると感じていた。

若い頃、楽器を持って東北を歩き、いくつかのジャズ喫茶で飛び入りのソロ・ライブをさせてもらったことがあるのだけれど、福島いわきへ行った際、学校帰りの子供達とボクの持っていた小さな楽器やガラクタを一緒に演奏して楽しい時間を過ごしたことがあった。そんなことがあったので、即興は誰でもできるもので、それができないのは、子供の自由な感性というものを失ってしまったからだろうとボクは考えていた。またヴェッダの演奏の中で、自分でも思っていなかったことを演奏/パフォーマンスの中でしたことがあって、即興は自分のコントロールする世界から抜け出すこととも思っていた。

高校時代読んでいたコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」という本の中に、「感覚を整然と狂わせる」というフレーズがあってずっと気になっていたのだけれど、即興というのはそうした自分の枠から自分が抜け出していくようなものなのだろうと気がついた。即興演奏というのは、広い意味では北インドの伝統音楽もそこに含まれるのだろうけれど、狭い意味ではフリージャズの身体性やグループ音楽といったものに対抗して、ヨーロッパのジャズ・ミュージシャンが作り上げた個を基盤とした知的な音楽で、ジャズと現代音楽の中間領域なのだということを、ヨーロッパを歩いてボクは感じ取っていた。

即興演奏を知ったのは1977年、大学2年の夏で、その頃ボクはジャズを習うことを考えて近所のトンカツ屋でアルバイトをしていた。ジャズのことは何も知らなかったけれど、高校時代にドラムを始め、プロになるためにはジャズを勉強しなくてはと漠然と考えていて、近くの本屋でジャズの雑誌を買って読んでみた。一冊の雑誌は分厚くて値段も高かったので、「JAZZ MAGAZINE」という薄くて安い方を買って読んでいたら、ちょうどミルフォード・グレイヴスというドラマーがニューヨークから来日するという時で、間章という人が熱い筆致で彼の音楽がどれだけ革新的かということを語っていた。

その雑誌を手に取ったときは、既に彼の東京公演は終わっていて、その音楽を体験することはできなかったけれど、即興演奏(スポンテイニアス ミュージック)は、「上空で星が流れるのと同時に虫が鳴き、またここで風に葉がそよぎ向こうで川が流れるように、同時にさまざまなものが生起し、互いの連関のなかでそれぞれの存在の確かさを宇宙と大地の律動と秩序、自然のリズムとともに展開してゆくように音楽が生み出される。」といった音楽観に触れ、ボクは即興演奏を志したのだった。ただ、ジャズもフリージャズも全く知らなかったボクが即興演奏をするのは、かなりハードルが高かった。

そこでボクが考えたのは、自分だけの楽器を作ることだった。「ドラムは革と木でできていて、語るものではなくてはならない。」というミルフォードの考えを参考に浅草の和太鼓の店へと赴き、ドラムのヘッドにする革を買い求め、自分で細工して革のヘッドを作った。78年の1月に作ったその牛の革を使ったヘッドを使ったタイコは、89年のカーレ・ラールとの日本ツアーまで使われ、84年、87年のニューヨークや88年のヨーロッパのツアーを含めて、自主製作のLP3作や、西ドイツDOSSIERレコードからリリースしたLP「143 Ludlow st NYC」に至るまで、ボクの音楽を、さまざまな形で彩ってくれた。

79年か80年だったかもう記憶が曖昧になってしまったけれど、ヴェッダ・ミュージック・ワークショップでの活動の中でタムタムにギターのストラップを付けて肩から提げたタイコを演奏するということを始めた。ドラムセットという枠組みから離れて、楽器を一つにすることでその楽器の可能性をトコトン引き出したいという思いももちろんあったし、身軽にどこにでも出かけてそこで演奏できるという大きなメリットがあったので、空母ミッドウェーが来航する横須賀で朝8時から夜8時まで演奏を続けるなんてこともできたし、「安保をつぶせ」というデモに参加したときには、新聞ネタになったこともある。

楽器=道具(インストゥルメント)という考え方は、言わばあたり前のこととして音楽の世界に浸透しているけれども、ボクとタイコの関係はそうしたものではない。野外での演奏といったものを経験することで、ボクはその肩掛けのタムタムを特別のものと思うようになり、その楽器との一体感を強く感じるようになっていく。85年、ダニー・デイビスとの全国ツアーの時から、ボクはベースドラムを置き、そこに小さなシンバルをアタッチメントの上に立てることになるけれど、そこでもボクは立ったまま演奏していて、そのスタイルで87年のニューヨークや88年のヨーロッパツアーへと向かっていった。

88年のヨーロッパでもソロを何度か演奏し、多くの観客がボクの音楽をユニークなものとして賞賛してくれた。革のヘッドの自然な響き、川の流れのような伸び縮みするリズム、シンバルとタイコがぶつかり合うようなノイズ、シンバルのカップが作り出すハーモニクス、ただ叩くだけではなく鼓面をさまざまにコントロールしていくスティックワーク…、そうしたものの多くは若い頃からのさまざまな実験やドラムセットから離れたパフォーマンスの中で自ら発見し、洗練させていった独自のテクニックだ。いかなる伝統からも離れた、独特のボクの音楽を、アートとして認める風土がヨーロッパにはあった。

ヨーロッパでソロを作りたいと考えていたボクは、ある意味で、今とは違う新しい演奏スタイルを作りたいと思っていたのかもしれない。翌年、昭和が終わる頃、ある決断をする。ドラムセットという固定観念から離れて、立ったまま演奏するというスタイルをボクは続けていたのだけれど、バスドラと椅子を登山で使うザイルで固定し、右足でドラムペダルを踏み、左足でバスドラの鼓面をコントロールするというスタイルへと移行した。椅子に座ることである意味でドラムセットに回帰しながら、音楽を否定するのではなくではなく、これまで作ってきた自分自身の音楽を、発展させていくことを考えていた。

90年早々には、これまで使っていた楽器をモデルチェンジする。吉祥寺の古道具屋で見つけた国産のスネアにヨーロッパで買ってきたナチュラルな音が出せるヘッドをはり、響き線ははずして、プラスチックのクリップをタイコの中に入れる。また、浅草のドラムショップでCAMCOの三点セットが格安で販売されていたので、高円寺の打楽器専門店で山羊の革を買い求め、ドラムヘッドを自作した。それまで使っていた牛の革は和太鼓のための厚いものだったので、山羊の革は細かい音のニュアンスが出せ、倍音もキレイに響くようになった。スネアが入ることで、音の輪郭はドラムセットに近づいた。

この楽器を持って90年春には再びニューヨークへ行き、秋にはミュンヘンのカーレ・ラールとともにヨーロッパをツアーすることになる。その中で、10月16日にちはベルギー・ブリュッセルの「パレデボザール(Palais des Beaux-Arts)」で行われた「PERCUSSIO」という国際的な打楽器フェスティバルにソロで参加することになった。会場は二つに分かれていて大ホールではインドのサントゥールとタブラの共演やアフリカのポップミュージック。シブクマール・シャルマ、ザキール・フセイン、ママディ・ケイタといった顔ぶれだった。ワールドミュージックが注目されているなか、多くの観客を集めていた。

ボクが出演したのは小ホールだったけれど、スペインの現代音楽家で鐘を演奏するロレンス・バルベルや、地元の打楽器アンサンブルなどが出演した。お客さんは200人ぐらい入っていただろうか、ステージにかぶりつく最前列に小学生ぐらいの男の子がいたり、年配の方達もそこここに見られる。英語で簡単な自己紹介の後、いつものように靴下を脱いで裸足になると何故か笑いがおきる。一曲3~5分の小品集で、演奏の合間に男の子が「サンキュー」と声をかけてくれる。語りかけるようなタイコは常に変化を繰り返しながら、シンプルな音楽を形作っていく。暖かい拍手に包まれ、ときにはその拍手を遮って新しい曲に入っていく。シンバルのカップの倍音が会場に消えていくのを静かに待って、ボクの1時間ほどの演奏は終わった。その後、初めてのソロCDをリリースするまで、15年の歳月が必要になる。ソロは本当に難しい。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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