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風巻隆「風を歩く」からNo. 323

風巻 隆「風を歩く」から vol.35 「ヨーロッパ・ツアー1992」

text :Takashi Kazamaki 風巻 隆
photos: from the collection of Takashi Kazamaki

1987年秋、ニューヨークのスタジオ「Noise New York」で、サム・ベネット、ジーナ・パーキンスと録音した音源が、翌年、西ドイツのDossierレコードからLP「143 LUDLOW ST. NYC」としてリリースされ、その年の秋にはヨーロッパのソロ・ツアーへと展開していったように、1990年の春、ニューヨークのスタジオ「Baby Monster」で、カーレ・ラール、エリオット・シャープ、トム・コラ、クリスチャン・マークレイ、ポール・ハスキンらとともに録音した音源で、その秋に再統一したドイツのEar-RationalレコードからCD「RETURN TO STREET LEVEL」がリリースされると、今までにない多くの反響があった。

ミュンヘンに住むギタリストのカーレ・ラールは、それまで築いた様々なコネクションを利用して、ボクとのデュオのツアーを1992年に企画した。それは5月19日のスイスのチューリッヒから始まり、7月17日のオーストリアのニッケルスドルフの「KONFRONTATIONEN」フェスティバルで終わるヨーロッパ~バルト三国、ロシアへのツアー。また、8月17日のメキシコ・モンテレーの音楽大学での5日間のワークショップとコンサートからアメリカ西海岸・中西部へ回り、ニューヨークを経て9月27日のクリーヴランドでの「SONIC DISTURBANCE」フェスティバルへと続く、長く冒険的なツアーだった。

ヨーロッパの移動はいつも通りカーレの運転する車だったけれど、バルト三国やロシアへはコンパートメントと呼ばれる鉄道の寝台車がメインで、たまにバスを使うということもあった。メキシコ・モンテレーでの移動は全て現地の受け入れ側が車を手配してくれ、毎日、ホームステイ先からワークショップに参加していた奥さんが大学まで車で送ってくれた。アメリカの中西部への移動はサンフランシスコでレンタカーを借り、ボクとカーレが交代で運転した。フォードのクーガという車種で、左ハンドル右側通行ははじめての経験だったけれど、砂漠の中の一本道を何時間も高速で走り抜けていった。

5月19日はチューリッヒの「Werkstatt für Improvisiert Musik」、21日はベルンの「Dampfzentrale」どちらも自主管理のスペースでサックスのクリストフ・ガリオが企画し、ベースにトーマス・ヒルトが入る。トーマスはいるだけで心を和ませるくれるナイスガイだ。23日はミュンヘン郊外ヴァッサーブルクの「THEATER BELACQUA」。「即興音楽フェスティバル」と銘打ったインプロヴ・ロックの二人組とのジョイント・コンサート。27日はシュトゥットガルト郊外チュービンゲンのアートスペース「Sudhaus」。2年前、徳田ガンさんとのツアーでパフォーマンスした所で、ビルギットら懐かしい顔とも再会する。

5月28日はアイントホーフェンの「EFFENAAR」で行われる「ZUID-NEDERLANDS JAZZ FESTIVAL」へ。企画はバリトンサックスのアド・ペイネンブルグ。トロンボーンのヨハネス・バウアーとチューバのラリー・フィッシュキンドとのカルテットでの演奏。二人ともこの時が初めての共演で、テラスでビールを飲んでいると「ベルリンを今朝発ったんだ」と眠そうにヨハネスが言い、さまざまなミュージシャンとの出会いを楽しんでいく。6月1日はゲントの「LOGOS」でのソロ。いったんミュンヘンへ戻って、7日はミュンスターの「C.U.B.A」というアーティストスペース。地元の若い即興演奏家たちも出演する。

ベルリンからは汽車の旅。夜に出発して次の日、ポーランドとロシアの国境では線路の幅が変わるので、車輪を取り替える。リトアニアのビリニュスでは少しだけ散歩。翌日、ラトビアのリガでカーレの友人イングナ・ルーベンスと会い、無料コンサートの打ち合わせで「KOLONNA」画廊の方と会う。夜にはまた車中の人となり、エストニアのタリンへ向かう。エストニアとロシアのツアーはタリンに住むマティ・ブラウアがオーガナイズしてくれた。6月11日から14日にかけてタリンのキャフェ、コフタヤーブレの文化センターでカーレとデュオのライブ。13日には「EESTIRADIO」でレコーディングを行う。

6月のこの時期、エストニアでは白夜の季節となり、夜遅くなっても夕方のような薄明かりが続いてそのまま朝になっていく。15日、大型バスでタリンから海沿いのリゾート地パルヌへと移動し、そこで開催される「FiESTa International “92」に参加する。事務所でパンフレットやポスター、フェスティバルのTシャツを受け取って、その後野外の会場へ向かうと、ギターのマルト・ソー、トロンボーンのエドアルド・アクリン、サックスのマルト・スーダ、ベースのリヴォ・ラーシ、ドラムのタネル・ルーベンによるエストニアの即興演奏のバンド「Tunnetus Uksus/Perception Unit」のステージを観ることができた。

6月16日、パルヌの町の古い木造の「Town Hall」は、まるで教会のような静謐なスペース。そこで夜10時から行われたボクらのデュオのコンサートは、窓から午後のような日射しが射しこむなか、満員の聴衆が集まっていた。その前年にソ連からの独立を宣言し、自由で開かれた新しい国を作ってきた人達の「新しい音楽」への渇望は強く、観客の中には、マルト・ソーやエドアルド・アクリンなど、エストニアにルーツを持つカーレの友人も多く集まっていた。タリンでレコーディングを経験したこともあって、そのコンサートの二人の演奏はとても素晴らしく、満員の聴衆から暖かい拍手が送られた。

タリンへ戻ると「EESTIRADIO」でミックスダウン。アナログのテープに録音したものをDAT に落とす。ツアー・コンダクターのマティとカーレとボクで夜行寝台に乗り込み、いよいよロシアへと向かう。モスクワの駅前はウォッカや食料品、ゴルバチョフやエリツィンの人形を売る人達で闇市のようになっている。北京飯店で青菜炒めを頼んだら、キャベツ炒めが出てくる…あーこれがロシアという国なのだろう。また夜行寝台でカザンへ向かう。タタールの国際フェスティバルは残念ながらキャンセルになってしまったけれど、スープやピロシキなどここの食事はおいしい。ボルガ川の船でチェボクサリへ向う。

6月20日はボルガ川沿いの工業都市チェボクサリの「Air Force Club」という名の公会堂でのコンサート。地元のジャズ・ミュージシャンのニコライ・クズミチェフが企画してくれたもので、開演前にツアーを企画したマティがステージから客席に向かってひとしきりレクチャーをする。こちらがどんな演奏をしても暖かく迎い入れてくれるような不思議な聴衆で、アンコールを何度も繰り返す。子供達が花束を何度も渡しに来る。21日には朝早くのバスでニジニ・ノヴゴロドへ。古い文化センターが会場。セルゲイ・ゼムリャヌカというオーガナイザーは、ボルガ川に接岸する船のホテルに宿をとってくれる。

再び夜行寝台に乗ってサンクト・ペテルブルクへ。ここはカーレの友人のヴィンセント・カリノフの企画なので、マティとは別れ、ヴィンセントの友人、美術家のユリのアトリエで、ヴィカとオルガという二人の女性をまじえて、毎夜のウォッカ・パーティ。6月25日は「トロイアの木馬」という画廊でのオープニングで演奏。26日はオルタナティブなスペースで、狭い会場に50人ほどの聴衆。27日はサックスやドゥドゥックを吹くヴィンセントを交え、デュオとトリオの演奏をする。コンサートの告知は町の至る所にポスターを貼ることで、白夜の夜中に車で町を走り回り、短時間で作業を仕上げすぐ走り去る。

旅先から友人達によくポストカードを書いていて、サンクト・ペテルブルクでも何通か書いたので、ヴィンセントに「郵便局って近くにある?」と尋ねたら、「絵葉書はやめた方がいいよ、ちゃんと日本に届くとは思わないから」とのこと。コンサートの後の打ち上げで、日本に興味があるという女性から何か日本の歌を歌ってくれないかと頼まれて、フト頭に浮かんだわらべうた「かごめ」を歌う。夜行寝台でラトビアのリガへ、町にはロシアの戦車を阻止するバリケードがまだ残っている。カーレの友人のイングナさんの旦那さんのお母さんタマラさんが日本語を話せるというので、家を訪ねて食事する。

リガの公園で

6月29日、大聖堂に隣接する広場に面する「KOLONNA」画廊で、スピーカーを外に出して1時間ほど演奏する。 画廊の前の広場にはイングナさん、タマラさん、イングナの妹さん、イングナの友達のドラマー達が集まってくれた。昼間は30度を超す暑さ、白夜のこの季節は演奏の始まった午後6時には、まだ昼間の日射しが降り注いでいる。こうした無料のコンサートになった背景には、ソビエト連邦が崩壊しラトビアが独立して間もないという事情もあったのだろう。エストニアはいち早く独自の通貨を流通させていたけれど、ラトビアはまだ、ソ連時代のルーブル紙幣を使っている状況だった。

KOLONNA ギャラリー.

いったんミュンヘンへ戻ったあと、7月5日は、南ドイツのカールスルーヘ。「Badischer Kunstvereinn」(バーデン美術協会)という名のアートスペースの一室でカーレとのデュオ。肌寒い日にもかかわらず40人近い聴衆が集まってくれた。7月17日、ハンガリーに近いニッケルスドルフ「JAZZGALERIE」でのジャズフェスティバル「CONFRONTATIONEN”92」に旧東独出身のサックス奏者ディートマー・ディーズナーとのトリオで参加する。レストランの裏のワインガーデンに特設のステージ。ソプラノサックスの音をシンセサイザーのように電気的に変換していくディートマーの演奏は、サンプラーを多用するカーレの演奏とも親和性がある。三人の音楽はけしてジャズではないのだけれど、そうした異端を「時代を先取りするアート」として賞賛するのはヨーロッパらしかった。そうした所でいろいろなミュージシャンと出会えるのもうれしい。旧東独出身のヨハネス・バウアーやディートマー・ディーズナーとは、その後ニューヨークで再会し、一緒に旧交を温めた。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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