風巻 隆「風を歩く」から vol.6「アカマタ ・クロマタ~百鬼夜行」
text by Takashi Kazamaki 風巻隆
それは鮮烈な体験だった。
1978年夏、明治大学の3年生だったボクは、東京芸術大学の「民族音楽ゼミナール」(小泉文夫教授)の一員として、沖縄・八重山諸島を訪れ、島の古老の歌う「ユンタ」や「アヨー」という古くから歌い継がれている民謡を録音し、歌詞やその意味を教えていただくフィールドワークを一ヶ月ほど行っていた。真夏のカッと照りつける暑さのなかで、グループに分かれ、「デンスケ」と呼ばれる旧式の重たいカセットデッキを担いで、ボクは竹富島・仲筋部落の方々を訪ね歩いていた。
石垣の港から小さな船に乗って、土地の人が「パナリ」と呼ぶ新城(あらぐすく)島へ向う。島には桟橋がなく、サンゴの群生する海岸の沖に船がとまると、そこから「サバニ」と呼ばれる小さなボートに乗り換え、砂浜に着いたら靴をぬいで裸足でそのまま上陸する。今日は「プーリ」と呼ばれる豊年祭。普段は無人島も同然の島には、対岸の西表島や石垣島、そして沖縄本島に移住した島の出身者や、その縁者が、一年に一度の大きな祭りのために集まって来ている。新城の出身者の方から誘われて、小泉ゼミの面々は特別に招かれたのだが、この日はいつものような録音や撮影は一切禁止されている。メモをとることも禁じられ、決められた行動からはずれたら命も保証できないという、きわめて厳粛な世界だ。
夕方5時ごろ、木がうっそうと茂る島の御嶽(うたき)という神聖な場所で、その祭りは始まった。二手に分かれた村人が、太鼓と銅鑼だけのシンプルな伴奏に合わせて掛け合いで歌を歌っていく。その天まで届かんとする地声の大合唱に鳥肌がたつ思いがする。しばらくすると、木のつるを身にまとった鬼のような仮面をかぶる神様が、常世の国ニライカナイから現れ、村人の歌にあわせて踊りだす。歌のボルテージが上がると、もう一体の神様が現れ村人を踊りで祝福する。「アカマタ・クロマタ」と呼ばれるこの来訪神と村人は歌で交歓し、終わると次の場所へ移動して、また歌で神様を呼ぶ。
この神秘的・秘儀的な祭りは、こうして島のあちこちを巡り歩き、神様と一緒に歌い踊りながら夜を徹して朝の4時ごろまで続いた。空は満天の星空だ。海岸に立つと、水平線のすぐ上から星がまたたいている。「あー、これが宇宙なんだ。」ボクは、呆然とそこに立ち尽くしていた。もう今では通う子供達もいない、廃校になった島の小中学校の芝や夏草に覆われた校庭で夜明けを待ちながら、耳に焼き付いたダイナミックな歌のフレーズを思い返し、その歌が作る世界を思った。
20世紀の日本で古代から続いていたような祭りが行われている不思議さと、その音楽の圧倒的なパワーといったものは、それまでボクが持っていた音楽観といったものをくつがえすには充分なものだった。この唯一無二の世界を持つ八重山の秘儀を担っているのは、けしてプロの音楽家ではなく、名もない一般の生活者たちなのだ。名もなき人たちが祭というイメージを共有することで、そこに「幻想の共同体」が出現する。この高度に発達した現代社会の裏側に、もう一つの世界「ワンダーランド」があり、即興という方法はそこへとつながっているという感覚をボクは持っているのだけれど、そうした即興観を含めて、ボクの音楽の原点というものがあるとしたら、この「アカマタ・クロマタ」にあると言ってもいいだろう。
70年代、小泉先生はテレビにもよく出演し、また多くの著作を発表して世界の民族音楽を紹介していた。クラシックやポピュラー、ジャズやロックといった、それまで一般的だった音楽の範疇から大きく離れ、インドのシタールや、アフリカのムビラやコギリ、韓国の伽耶琴やパンソリ、バリのガムランやケチャ、中近東のサントゥール、ブルガリアの女声コーラス、中国の二胡、モンゴルのホーミーや馬頭琴といったものを紹介し、音楽というものの境界を広げる活動に奮闘していた。
ボクは明大の授業で、小泉ゼミの初期からのメンバーだった赤羽由規子先生の講義を受講していて、先生からガムランの演奏を体験できるからと伺って遊びに行った芸大で、たまたま学内の掲示板にある小泉ゼミの新人募集のポスターが目にとまった。その日はちょうど年度初めの新歓ミーティングの日で、ポスターの「お茶を飲むだけでも結構です」という文言を頼りにダメモトでゼミの教室に顔を出すと、小泉先生は、いつものにこやかな笑顔で迎え入れてくれた。その頃はちょうど、「即興演奏」という未知の領域を知り、「音楽とは何か」というようなことをよく考えるようになった頃で、小泉先生の著作は読み込んでいたし、民族音楽を知ることは、音楽というもののあり方を知ることだという意識がボクにはあった。
1979年大学4年の駿台祭で、中庭といった趣の11号館前の広場を使うことを実行委に申請し、そこでボクは、「即興の子供達」というイベントを企画した。ただそれは、ステージでバンドが次々と出演するといったものではなく、広場で、昼下がりの時間を演奏者も聴衆も、自由に音を出して「即興」の世界を体感するというようなものだった。その頃ともに活動していたVedda Music Workshopの面々や、学内で演劇活動をしていた「実験劇場」の友人たちに声をかけ、参加を促した。
その時の録音はネットで公開されていて興味がある人は聴くこともできるけれど、全体としてはフリージャズと民族音楽が合体したような、いつ始まったのか、いつ終わったのかわからない、その場かぎりの祝祭性を前面に出した演奏だ。この企画でボクがやろうと思ったのは観客の参加だった。即興という方法がただ演奏家に特権的に与えられたものではなく、その場にいる人全員で作り上げるものだという感覚がボクにはあって、広場の開放感がそれを後押ししてくれた。
それから2年後の1981年8月、瀬戸内海の離島・男木島で、ボクは日没から夜明けまで、島を集団で歩き回りながら好き好きに音を出すという野外イベント「百鬼夜行」を企画した。鬼ヶ島伝説の残る男木島は、高松からフェリーで40分、一度だけ一人で下見に行っただけの縁もゆかりもない島だったのだが、鶴川に住む知人のベベさんの工房で作ってもらったシルクスクリーンで島の地図を大きく描いた手作りのポスターを持っていくと、島の人達は温かく迎え入れてくれた。
当日、島の酒屋さんにお酒を買いに行くと、「今日、何かイベントやるんでしょ、一本おまけしとくから。」と日本酒の1升瓶をプレゼントされる。坂や、細い路地が広がる島を日没から夜明けまでブラブラ歩きながら、思い思いに音を出すという、ただそれだけのイベント。ボクの呼びかけに東京から竹田賢一さん、霜田誠二さん、園田遊さんらパフォーマーやミュージシャンが駆けつけてくれ、徳島からミニコミ「HARD STUFF」の編集者・小西昌幸さんが友人と一緒に訪ねてくれた。
その後ボクは、1982年に「東京・百鬼夜行」を、83年には横須賀・猿島で「廃墟の島へ」という野外でのイベントを続けて企画している。新宿公園から皇居前広場まで夜中に音を出しながら歩いていく「東京・百鬼夜行」は、開放的な島とは違って、都会の夜の不穏な行動は、どこかで誰かに監視されているような緊張感があった。猿島は、横須賀沖に浮かぶ元海軍の要塞だった無人島で、その頃は公園として整備もされず、ほとんど廃墟のような島だった。そこで参加者たちと日がな一日、好きなように好きな音を出すというただそれだけの企画、秋晴れの空の下で楽しい一日をそこで過ごした。
こうした一連の野外イベントは、もちろん八重山の「アカマタ・クロマタ」のように、コンサートホールやライブハウスといった小さな箱に収まらない、その場の環境や、時空といったものとも関わりながら音楽を作りたいという気持ちがあったことは確かだけれど、それだけではなく、即興というものは誰でもできるものであり、誰に対しても開かれたものであるべきだという当時のボクの即興観に基づいている。80年代の初めには、フリージャズが形骸化するなかで、即興演奏を「特別の人達」による「特別の音楽」だと喧伝し、海外の特定のミュージシャンを神格化するような言説がはびこっていた。多くの若者が、即興の巨匠の演奏スタイルを、ただ模倣するだけに終わるという音楽状況を、ボクなりに変換したかった。
世界の民族音楽は、80年代の末、伝統音楽やポップミュージックにまで幅を広げた「ワールド・ミュージック」として一大マーケットを築くことになる。その頃から、沖縄の音楽や、沖縄人の音楽、沖縄を歌う音楽などが注目され、歌の島・沖縄から数々のポップスターが生まれてくる。沖縄の音楽が注目されればされるほど、その音楽はどこか「特別の人達」の音楽になっていくようで、ディープな沖縄を目にしたボクにはどこか噓っぽく感じられた。名もなき市井の生活者が、伝統的な音楽や文化を支え継承しているというのが、沖縄や八重山の実相だろう。そこにこそ沖縄の存在価値があるはずだ。
参考音源(Vedda Music Workshop/駿河台祭パフォーマンス 1979/11/04 (1)
https://soundcloud.com/disc_onor/free-music-space-1978-11-04-1