風巻 隆「風を歩く」から vol. 10「見世物小屋」~中原養護学校
text by Kazamaki Takashi 風巻 隆
もし世界が夢か芝居のようなものだったら、オレは丘の上の愚者か、道化になろう。
人の上に立つ自信もなく、骨身をけずって働く甲斐性もなく、
一きれのパンとブドー酒を飲んで、お天道さんと乾杯!
芸術? そんなカビ臭いシミったれは、もうたくさん。
音楽? あいつら商人に魂を売った連中ばかりさ。
オレにはオレのやり方、生き方ってものがあるってもんよ。
オレがエイッと逆立ちすると、街はさかさま、
キレイはキタナイ、キタナイはキレイ、これでみんな幸せになれたはず。
春ともなれば町の広場に多くの仲間が集まって、ある者は音を出し、ある者は踊りだし、
中には、何やら得体のしれないことを始める奴もいる。
そしてオレは叫ぶ。「こんなきまりきった生活が楽しいのかい」
「金もうけをして何になるんだい」「愛だの恋だの信じているのかい」
「いつまでお上のいいなりになってるんだい」
「オレ達はもっと自由だったんじゃないのかい」 (1984年4月 「見世物小屋」チラシより)
20歳の頃から続いた即興を探す旅の中で、初めて自分の演奏が「即興」になったと感じた時がある。それは、81年の暮れ、Vedda Music Workshopの面々と吉祥寺「マイナー」で3日間ライブを行った中のあるパフォーマンスだった。その頃、ヴェッダでは「案曲」という、簡単な決め事をした上での即興演奏というのをよくやっていて、「叫びと囁き」とか「紡錘形」とか「木の即興」など、演奏に決め事を導入してそのなかで即興演奏をしていく。たしかその時は、「案曲」ではなかったのだけれど、ボクなりに一つやってみたい事があって、それは「タイコという楽器から離れてみる」、というものだった。
普段ボクは、シンプルなドラムセットを使っていたのだけれど、この時はタイヤホイールとスティックで、皿回しのようなことをやってみた。ホイールが回っているときには音は出ないで、倒れると音が出る。普段の「音を出そうとする」演奏は、自分の意志で楽器を操り、自分の思い描くように演奏を展開しようとするので、演奏は自分の意志にコントロールされるけれど、このときの演奏は、自分の意志から離れて音があちこちで鳴っているというものだった。自分の思いもよらない演奏というものを、この時初めてしたように思い、「もしかしたら、即興ってこんな感覚なのかもしれない。」と感じていた。
この時の身体感覚というのは、言ってみれば、自分の殻が破れて新しい自分になったような、そんな清々しいものだった。即興演奏というものを志したのは20歳のときだったけれど、その頃は何をやっても誰かの真似か、ただの時間つぶしにしかならなかった。何も決めないで、ただ思いのままに演奏するのが即興だということはわかっていても、その思いというものが頭の中で堂々巡りをして、ただ自分の手癖を繰り返すだけの演奏になっていた。頭で考えて演奏しているうちは即興にはならない。むしろ、頭で考えるより前に音を出していくこと、音に反応して演奏していくのが即興なのだろう。
即興をつき進めていくと、自分ではないもう一人の自分とか、ここではないどこかというものを意識するようになり、即興というものは、自分が自分でなくなる瞬間で、<今・ここ>とは違うどこか別の世界に入り込んでいくことだと考えるようになった。そうした「どこにもない世界」に、集団で入り込んでいくというのが「見世物小屋」というイベントだった。誰でも自由に参加でき、何も決めずに、ただ雑然と即興的な音とハプニング的な行為が、何の脈絡もなく繰り広げられる。誰かに見せるためではなく、ただやりたいことをやる。いくつもの行為が同時進行しながら、何でもありの祝祭的な空間が広がる。
1982年4月、明大前のキッド・アイラック・ホールで行ったこのイベントは、明大前の駅からキッドへと向かう路地に、友人と二人してチョークで絵を描くことから始まり、ホールに人が集まってからは、ボクが、足に鈴をつけた縄跳びで二重跳びを始めたことがきっかけになって、皆、思い思いに音を出したり、踊ったりが始まった。全体のアンサンブルとか、コラボレーションといったものはなく、ただ、それぞれがやりたいことをやる。お客さんもいなければ、ステージもない。それぞれが思い思いの場所で、思いつくままに何かをする。音楽的な盛り上がりもカタルシスもなく、そこにあるのはカオスだけ。
その頃、ボクの周辺には、いわゆる職業的な演奏家とは別の立ち位置にいて、友人宅などに集まっては、ゆるい感じの音を即興で演奏する多くの非ミュージシャンといった人達が、それぞれ自分のスタンスで活動していた。「かっこいいことはカッコ悪い」「カッコ悪いぐらいで丁度いい」とでも言うような独特の美意識をもっている音楽人。人前で演奏することを実演と呼び、等身大の音楽を気ままに演奏する…、そんな友人達もそこには集まってきていた。演奏会にまつわるさまざまな形式を全部取り払ってしまったら何が残るのか?「見世物小屋」というイベントは、そうした壮大な実験でもあった。
よく、「歴史上の最初の音楽演奏は即興演奏だった。」とも言われる。音楽というものがどのようにして生まれてきたのかというのは、民族音楽の一つの大きなテーマでもあるけれど、ただ、広場に人が集まって思い思いに音を出しても、それだけでは音楽にはならない。小さい子供がオモチャのピアノを連打してもそれは音楽ではないように、音を出すことそれだけでは、音楽にはならない。ただ、もし小さい子の両親がその音を聞いて「わー、スゴイねー、上手だねー」と声を掛けると、それは立派な音楽になる。子供が出した音そのものではなく、音を介したコミュニケーションこそが音楽なのだ。
1981年、Vedda Music Workshopで、川崎にある中原養護学校の講堂で、子供達と音を一緒に出すワークショップをやったことがある。誰もが音を出せるということでは、「見世物小屋」とほぼ同じなのだけれど、障害の種類や程度もバラバラで、個性が際立つ子供達一人一人を注意深く見ながら、接点を探っていく。大きな机を床の上に滑らせてゴーッと音を出すことから始まった演奏は、床に横たわっている子供はビックリしたかもしれない。自由に使っていいよ、という意味でスティックを床に転がすと、そのスティックを投げ返す女の子がいる。そのやりとりを、先生達は目を丸くして眺めている。
午前中に低学年、午後に高学年の子供達と行ったワークショップは、おおむね好評だった。楽譜の通りに歌うとか演奏するということを音楽だと教えられてきた子供達にとって、自由に音を出すというのはおそらく初めての体験で、自分の好きな音を見つけると、不自由な足で走り回ったりしていた。子供達の目が生き生きと輝いていたのは、やっていてとても楽しかったし、いい機会が作れたと思ったものだ。「いつもの子供達とは全然違って見えた。」という先生もいて、即興というものが持っている根源的な力や、誰もが持っている「生への衝動」を揺り動かす力というものも、そこに見てとれた。
即興に、そうした人知れぬパワーのようなものがあるとしても、それが音楽や表現といったレベルにまで到達するには、それまでの自分の殻を破って、未知の世界へ飛び込んでいく勇気のようなものも必要になるだろう。また、即興音楽というものを作り上げようとするなら、「音楽とは何か」という問いを、自分に突きつけ、真摯な作業を継続することも大切だ。即興演奏というものは、そうしてスタイルを作っては壊すという作業の繰り返しなのかもしれない。「見世物小屋」という実験的な試みも、85年に全国をツアーして幕を閉じ、ボクの関心は即興のアンサンブルや作品を作る事へと移っていく。
障害を持つ子供達とのワークショップは、その後も「すとれんじふるうつ」で知り合った平塚養護学校の先生達と、何回か継続していくことになる。即興やパフォーマンスで、自由に何でもありの時間を子供達と過ごすことは楽しかったし、そこでは音楽を作るなんてことは考えもしなかった。「音を楽しむ」ということは即興演奏の基本なのだろうし、若い頃からどうしたら音を楽しめるかということを、いろんな形で試みてきた。今でも、ボクにとって「いい演奏」というのは、思っていたことがうまくできた時ではなく、自分が思いもよらないような演奏をした時だということは、その頃と何も変わっていない。