「オト・コトバ・ウタ」(7)「「Discover Japan、三里塚幻野祭、列島改造の果てに、日本のHAPPY ENDは『なしくずしの死』を迎えた」
text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃
1. クロニクル
1945年、大日本帝国は連合国に無条件降伏した。明治に誕生した政府が主導する国力を総動員した戦における初の決定的敗北だった(終戦ではない、敗戦だ)。全国土は他国の支配権内におかれた。占領軍(進駐軍)が配備された。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が最高権力となった。
1951年、サンフランシスコ平和条約調印。
1952年、GHQの7年間の支配は終わった。
1956年、日本は国際連合に加盟した。ちなみに国際連合とは、第二次世界大戦の戦勝国が、破れた枢軸国の軍事的復活を抑圧するための組織である。
1964年、10月1日、世界最速を誇る東海道新幹線が開通し、9日後、アジア初のオリンピックが東京で開催された。
日本国は政治的、文化的な復興を果たし、いよいよ経済的な世界戦略にとりかかった。いわゆる高度経済成長である。
ゴジラ、鉄腕アトム、サザエさん、彼らの歴史的意義は?
高度経済成長の背景には朝鮮戦争とベトナム戦争があり、日本は米軍兵站基地としての特需により、軍需関連産業が伸びると同時に、国内経済にかつてない好景気を齎(もたら)した。それは当時の日本人達に「神武景気」と呼ばれた。平均的日本人労働者の年収は急激に上昇し「三種の神器」(冷蔵庫、テレビ、洗濯機)を持つ事が可能になった。
ここまできてまだ、日本人は日本神話のイメージを捨てきれないでいる。
時計を少し戻す。
1949年、中国共産党の毛沢東は中華人民共和国(中共)の建国宣言をした。余計な事かもしれないが、中共が大日本帝国に勝利したのではない。
1950年、朝鮮半島全域で戦闘勃発。それに先立つ48年から54年にかけて、済州島で島民虐殺(済州島四・三事件)があった。
米軍を主力とする国連軍は、中共やソ連の軍事力に支援された金日成勢力に押され、一時半島から追い出されそうになった。最高司令官マッカーサーは劣勢打開のため原爆使用を進言し、その地位を剥奪された。
1953年、朝鮮戦争は、朝鮮半島の38度線における南北分断と停戦で落ち着いた。以来、南北朝鮮は休戦状態のままである。
1955年、南北に別れていた二つのベトナムの間で本格的戦闘が始まった。(ベトナムはじめ、東南アジア各国の独立運動の武装蜂起に、旧日本軍の残党が関わっているのは重要だ。)
1962年、米国はベトナム内戦に軍事介入を開始した。(55年には既に軍事指導を開始していた。米軍は三度目の核爆弾使用を検討していた。)
1963年、ケネディ大統領が暗殺された。
1973年、南ベトナム首都のサイゴン陥落。米軍はベトナムから撤退した。事実上の米軍初の対外的敗北であり、威信は地に墜ちた。南北ベトナムと米国の間でパリ和平協定締結。
1976年、南北が統一され、ベトナム社会主義共和国が誕生した。
2. ワタシの時代
私は1957年に東北の地方都市に生まれた。
高度経済成長期(1955~1973)に幼少期、学童期を過ごし、思春期の入り口にDiscover JapanとEXPO’70大阪万博があった。1970年のことだ。
私の幼少期の思い出。金魚屋、八百屋、魚屋、豆腐屋のリヤカー行商があり、頭に桶を載せた飴屋も見た。トイレは汲み取り式だった。お湯の出る蛇口はなく、家の風呂はオガクズを固めた薪で焚いた。私の通う小学校の暖房は、薪ストーブだった。今より冬は寒く、町なかにある大きな池が全面凍結し、スケートリンクが整備された。国体のフィギュア、レース、ホッケーがそこで行われた。今、その池には、冬期を通し氷が張ることはない。
私の好物はインスタントラーメンと鯨肉の缶詰であり、デパートのオモチャ売り場と屋上遊園地が天国だった。コッペパン、脱脂粉乳の給食と算数が地獄だった。
私の家は北東北鉄道網のハブ的な位置の駅のそばにあり、近隣の遊び友達の家は多くが鉄道員だった。彼らが支えた国鉄=日本国有鉄道は、高度経済成長を支える日本一の基幹組織だった。そして国労、動労は労働組合の代名詞であり、妥協を知らない組織だった。
Discover Japanというキャンペーンが始まった。これは万博後に、国鉄によって企画された個人旅行推奨の方策である。所得倍増政策が奏功し、一般庶民の収入があがったため、休暇に国内旅行をさせようという訳だ。一応書いておくと国鉄は、JRの前身である。
Discover Japanは、1967年に米国で企画された個人旅行推奨キャンペーン「ディスカバー・アメリカ」に倣ったとも言われる。いずれ個人消費を拡大するために政府はあらゆる手段を動員した。
Discover Japanのポスターのモデルに吉永小百合が選ばれ、キャッチフレーズは「美しい日本の私」とされた。これは1969年、川端康成(1899~1972)のノーベル文学賞受賞記念講演のタイトルだった。
1970年、大阪万博の会場となった千里丘陵では世界中の電子音楽が響きわたった。携帯電話、月の石、人間洗濯機、人類の進歩と調和。
同年3月、共産主義者同盟赤軍派は旅客機「よど号」をハイジャックして北朝鮮へ飛んだ。過激派の抵抗と闘争は海外へ。
同年11月25日、次のノーベル賞作家とも目された三島由起夫(1925~1970)は、私設組織「盾の会」メンバーとともに東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乗り込み、バルコニーで決起主張を演説した後、割腹自殺した。選良の美学と実践。
同日、アルバート・アイラーはイースト・リヴァーに浮かぶ身許不明死体となって発見された。フリージャズの終わり。
バード、パウエル、レディ、ドルフィー、トレーン、ジミヘン、ジャニス、レディング、モリソン、そしてアルバート。墓碑が並んでいる。
1972年、高度経済成長を追いかけるように、首相田中角栄(1918~93)は著書「日本列島改造論」を出版し、ベストセラーとなった。この内容は端的に言えば、全国津々浦々に高速交通網を張り巡らし、地方の工業化を計るという構想である。
高度経済成長が一応成功したという判断のもと、権力者の持ったプランが、結果的に日本全体の均質化を図り、古来の伝統を破壊することになる。
日本各地の観光化を煽り、「美しい日本」をイメージだけの遺構にしてしまったDiscover Japanとは一体なんだったのか。それが「日本列島改造論」と軌を一にしていることは疑いない。
政府は懲りない。時は下るが1988年「ふるさと創生事業」で、全国の自治体に一億円をばらまく。その結果は、今の高齢者達が覚えている。いや、忘れている。あの一億円はどうなったのか。
1971年、ロックバンド「はっぴいえんど」は傑作アルバム「風街ろまん」を発表した。「風街」というネヴァーランドに、ポスト・ヒッピイズムのリスナー達は、幻想の日本を見た。それは「美しい日本」であったのか、「ふるさと」であったのか。思い出は常に美化される。
高度経済成長のなかで工業化し、受験戦争、交通事故死、公害問題が日常化する日本。農業は初めゆっくりと、そして急速に衰退し、食料自給率も同じ運命を辿る。
都知事選出馬の政見放送も英語で通した内田裕也(内田は放送で、頭脳警察「コミック雑誌なんか要らない」も歌った)。彼は「ロックは英語でこそ歌われなければいけない」と、日本語のロックを否定した。そしてFLOWER TRAVELIN’ BANDをプロデュースした。内田の否定する日本語ロックこそ「はっぴいえんど」だった。
二つのバンドのネーミングを深読みすると、そこにまたニホンが浮かんで来る。
英語であるHAPPY ENDを平仮名表記したバンドと、「ハナ=世阿弥、旅=西行」を冠したバンド。これはニホンのロックの表裏一体ではないか。
受験戦争を乗り越え、有名大学を出て優良企業に就職し、結婚して子供を二人もち、いずれは一戸建ての家に住む核家族となる。その意味はイエ制度の緩やかな崩壊。
人生は「はっぴいえんど」に終わるのか。
この逆説的な名前のバンドは1970年からたった二年の活動期間で終わった(後に再結成されるが)。
FLOWER TRAVELIN’ BANDも1971年、傑作アルバム「SATORI」を発表する。ジャケットには仏陀のシルエット、東洋的なサウンドのサイケデリックロックが強烈な印象だった。
同1971年、ユダヤ人デュオ「サイモンとガーファンクル」(1964~1970)は、「アメリカ」を歌った。
歌詞は、希望を失った男女が、安価な長距離移動バス、グレイハウンドに乗って西海岸へ向かう、その車中のイメージである。最後には流れる車列を眺めながら男がつぶやく「みんな、アメリカを探しに向かっている」。これが延々繰り返される。しかし彼らが探している場所はUSAではなく、ネヴァーランドとしての「アメリカ」だった。「アメリカ」は再び新たに発見されるべきテラ・インコグニタだった。それはどこにあったのか。月か。ムーンショットなのか?いや、それは現実には存在しなかった。その時点では揺籃期だったパーソナルコンピュータ、あるいは、いずれは怪物的に世界を覆うネットの中の仮想現実に胚胎されていた。スティーヴ・ジョブスはそれを知っていた。新たな智慧の実、「アップル」。
「アメリカ」が歌われた頃、ベトナム戦争(1955年11月~1975年4月)はまだ終わりが見えなかった。それどころか泥沼化していた。USAはこの戦争の大義を見失い、無辜(むこ)の民の大量殺戮と爆撃、焼き払い、枯れ葉剤散布を続けた。近隣国に戦線は拡大、ホー・チミンに指導されたベトナム共産党と北ベトナム軍の侵攻を防ぐ事が出来なかった。
「はっぴいえんど」は、ラストアルバム”THE HAPPY END” (1972)で歌う。
「さようならアメリカ、さようならニッポン」。このフレーズが延々と繰り返される。
「みんな、アメリカを探しに向かっている」「さようならアメリカ、さようならニッポン」「みんな、アメリカを探しに向かっている」「さようならアメリカ、さようならニッポン」「みんな、アメリカを探しに向かっている」「さようならアメリカ、さようならニッポン」・・・・サトリは得られない。
時は下り1984年、ブルース・スプリングスティーン(1949~)の”BORN IN THE USA”の大ヒットがあった。これはナショナリズムの讃歌ではない。「合衆国に生まれた!」とブルースは力強く繰り返す。しかしそれが「合衆国に生まれたのに!」という反語的メッセージであることは否めない。一時期公開されたビデオクリップはまるで反戦映画のようだった。最初は父子がテレビのニュースを見ている後ろ姿。最後は父だけがテレビを見ている。「合衆国に生まれた!」という力強いリフレインが響く。それだけで全てが伝わる。USAに生まれ育った。しかしアメリカはどこにあるのか。
それから40年、気候変動を詐欺だと公言し、自らノーベル平和賞を要求するポピュリストが、USA大統領に、二度も選ばれた。それはバットマンの敵「ジョーカー」ではなくトランプだった。自由の国、アメリカン・ドリーム、星条旗よ永遠に。銃社会、分断社会、ラストベルト、ファンダメンタル・ベルト、暗殺と無差別殺人テロ、陰謀論と擬似科学、GAFAMとMAGA、アメリカ・ファースト。
これがワタシの時代だ。
3. ニホンとは何か
加藤周一(1919~2008)は「芸術論集」(1967)で以下のような問いを発する。
<万葉集(7~8世紀)所収の和歌には全く仏教的な意識、観念を見つけることができない。しかし同時期、白鳳時代(645~710)の日本の彫刻の骨頂は、優れた仏像にある。非仏教的文学と仏教的美術、この二重性は何か。>
この問いは、現代までのニホン的心性に興味深い問題を投げかける。詳しくは加藤の著書を読んで頂くに及(しく)はない。万葉の和歌はご存知の通り漢字=万葉仮名で書かれている。当時の人々が、文字ではなく口にして、声として記憶した和歌が、初めて表音化~テクスト化した。口承から記述へ、この変化は極めて大きい。和歌が「詠む」ものから「書く」ものに成ったのである。つまりは口ずさんだ歌も、書き留めることになった。これは譜面を書くに等しい。
漢字=真名は、かな=仮名となって、表意文字から表音文字となる。中国に生まれた漢字は本来、骨に刻む卜占(ぼくせん)、器物に鋳込む契約という性質の文字だった。しかし仮名文字は、コトバ、コエを書き留めることによって、僧侶、貴人、官吏たちから次第に、民衆(の言霊)に浸透して行く。日記、手紙、和歌、物語、草紙等が、木簡、竹簡ではなく和紙の上に墨と筆で記されるようになった。ニホン文学の形成である。
時代が下るに従って文学も仏教的になった、というより仏教が日本的に変容した。鎮護国家・唯識具舎の南都六宗、加持祈祷の真言・天台の密教は、インテリのものだ。対して栄西、道元の禅は武士に、日蓮、法然、親鸞らの教えは文字も経典も知らない民衆に広がる。念仏、お題目は口に出し、声にし、耳で聞く仏。それは救済思想、浄土思想である。「欣求浄土、厭離穢土」。
芸能において霊性の濃厚な「能」と、対照的な対話芝居「狂言」が同じ舞台で上演されていた。これはココロ=ホンネとミカケ=タテマエの分化であろうか。その乖離がユーモアとなった。ユーモアとは「可笑しさ、笑い」ではなく、端的に言えばホンネとタテマエを使い分ける心性だ。文字を持つ文化では、コトバと文字の使い分けがある。文学いや、端的には詩的表現も、パロルとテクストでは異なる性格がある。だから二葉亭四迷の「言文一致の挑戦」は、ニホン文学に大きな転機となったのだ。もしかして「ホンネとタテマエ」は、オーウェル「1984年」に登場する「ダブルスピーク」、「二重思考」を先取りしていたのかもしれない。
ニホン沼には、これまで三度、大石が投げ込まれた。まずは、仏教がドボン!漢字と大陸、朝鮮半島の音楽と供に。仏教は事実上、国教となった。
次は、キリスト教(ローマ教会のカトリシズム)がドボン!火縄銃と教会音楽と供に。猛烈な勢いで信者を増やしたキリスト教は、あわや国教になる勢いだったが、秀吉と家康はそれを封じた。
そして、黒船がドボン!蒸気機関と、プロテスタンティズムが、諸々の西欧文化と供に「泰平の眠り」を覚ました。大日本帝国は、仏教も旧来の神道も顧みず、国家神道を国教化した。
見方によっては二発の原子爆弾も大石だったかもしれない。
ならば、阪神淡路と東北、さらに続く熊本、能登の震災、その他絶え間ない天災は大石ではないのか。
史書に残る記録を見れば、古代からこの弧状列島は常に天変地異に見舞われているのが分かる。だから敢えてここでは人間の活動のうち、人災、災害とは言えない史実、歴史の屈折点を、溜まった水が溢れる程の大石としてみたのだ。
(長くなりました。この辺でお茶にしましょうか…..さいなら、さいなら、さいなら)
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