静けさを楽しむ音楽表現~近藤譲作曲 オペラ『羽衣』を観て
text by Tomoko Yazawa 矢沢朋子
日本の洋楽発展に最も顕著な功績のあった個人または団体に贈られる「サントリー音楽賞」を2023年に受賞した作曲家の近藤譲のオペラ『羽衣』を観た。
『羽衣(Hagoromo)』は1994年に作曲した一幕オペラで、所要時間は約50分。台本は能『羽衣』の重要部分を基に近藤自身が抽出して構成、物語を忠実に再現するよりも、音と時間の経験を聴衆に提示することを主眼としている。初演はイタリア・フィレンツェの「五月音楽祭(Maggio Musicale Fiorentino)」で、演出はロバート・ウィルソン、指揮はマルチェロ・パンニが担当。初演から31年が経ち、ようやく日本での初演が実現することは批評的に意味がある。国内の新作音楽界の動き・聴衆の受容態勢が整ってきたことを象徴する出来事として。
『羽衣』は日本の能の台本による2つのオペラで構成された企画の一つとして委嘱された。もう一つはマルチェロ・パンニ作曲による三島由紀夫の『班女』、この作品の演出もロバート・ウィルソンだった。検索してみたら興味深い記録が見つかった。初演時から今回の日本初演まで『羽衣』の編成はダンサーを除いて変更はない。だが、『班女』の方は初演時はフル・オーケストラ寄りの大編成での音の厚みで三島由紀夫の心理劇的要素、情念の濃さを西洋オペラ的ドラマツルギーを保持していたのが、2016年のローマでの再演では、オーケストラ編成を大幅に縮小して6人編成+3人の歌手という構成に改め、より能の「間(ま)」「空間」を意識した演出がなされたという。また舞台美術・演出も「極力装飾を排した方向」が採られたようだ。
初演が20~30人規模のオーケストラが、再演では 6人の奏者+3人の歌手 という、ほぼ「能の囃子方」レベルへの変更は単なる「短縮版」ではなく、作品観の再定義に近いものであろう。ベルカント・オペラの本場イタリアの作曲家に“Nel silenzio si sente la voce dell’anima.”(沈黙の中に魂の声が聞こえる)と言わしめて大幅に改訂させた動機に、2作組として委嘱された片方の『羽衣』があると考えるのは私だけではないだろう。
近藤譲と能という組み合わせの相性は悪いはずがなく、しかしそれがイタリアのベルカント・オペラの委嘱となると一体、どのようなことになるのかというやや高揚した心持ちで客席に座る。
当日のプログラムでは、まずヴァイオリンと打楽器のための《接骨木の3つの歌》が「謂わば前口上として聴き手の気分をオペラ『羽衣』へと導く*」ために演奏された。秀麗なヴァイオリンが聴き手の気持ちを整える。その後の『羽衣』第1シーンの風や空間を象徴するフルートの旋律、メゾ・ソプラノということもあるが、ベルカントながら静寂さを感じさせる抑制の効いた表現に、作者の意図する「情景」が音の流れとなり心地よく身を委ねられた。通常のオペラのようにストーリーや心理を追う必要のない抽象性も空間を味わうラグジュアリーな体験となる。高度に洗練された「静けさを楽しむ」時間だった。
この“反バロック的・反ロマン的な和文化的な価値観” についてプログラムに書かれた近藤氏の受賞の言葉と共につらつらと考えたことをここに記したい。
「もし私の音楽が静かなものに感じられるのだとしたら、それは、人が自然物に対するときに感じる超然とした静けさに似たものかもしれないし、そうあって欲しいと期待してしまうのは、私の思い込みの所為かもしれません。いずれにせよ、自らの感情や思いを声高に叫ぶことが当然視されている今日の世の中にあって、このような性向の音楽が評価を得たことは、私にとってとても大きな喜びです」近藤譲~プログラム「受賞の言葉」より
日本人は伝統的に清潔感があり、あっさりとしたものを好む民族だ。シンプルですっきりとした佇まい、あっさりとした味付けなどを上品で優雅とする。西洋(や中国)の文化とは対極にある美意識と価値観だ。
ドラマチックな激情のほとばしりに向けて展開するそれまでの音楽とは違う、作曲技術の発展でもなく、「音楽に対する発想の転換」「音を聴く行為の開発」が20世紀にジョン・ケージによって示されて以来、そのコンセプトと共鳴する文化背景を持つ日本から精神的高揚を満たすためではない音楽が生まれたことに民族的必然性を感じる。
スーパーで小豆の水煮を買おうとする。すると棚には「甘さ控えめ」表記の水煮がぜんざいやお汁粉用に並んでいる。この「控え目」というのも重要な日本的美意識のひとつで、ほのかに甘いと美味しいと日本人は感じるのだ。ところがそんなものはヨーロッパやアメリカではほぼ見かけないし、スイーツはかなり甘いもので、そうでないと物足りない。砂糖にもハイになる作用があるからだ。何事にも中庸を好む日本人らしさは味覚にも表れる。
『羽衣』が初演された31年前は、ようやく日本的美意識というものが西洋のごく一部の知識人だけでなく、異国の東洋の文化として一般の聴衆にも少しづつ認識され出した頃だ。これが40年前だと、まだスシとは鱗付きの生魚を米に乗せて素手で握った野蛮な食べ物だと思われていた。パリでもコム・デ・ギャルソンやワイズを着るようなフランス人でないと食べなかった。ミニマリズムとは対極にある豪華絢爛さを競う西洋文化において、あっさりとかシンプルというものは美の概念としては存在しなかった。
話は飛ぶが、博多にある福岡アジア美術館を訪ねてコレクションを見た時に、「これが植民地ということなのだな」と複雑な思いがしたことを思い出す。そこにはルーブル美術館に陳列されていても違和感のないような、油絵のアジア王族一家の肖像画が何枚かあった。肌の色や顔の違い、着ている服はその国の王族のものではあるものの、ポーズの取り方もルーブルにあるフランス王朝の肖像画とさほど変わらないのだ。
アジアの料理や衣装となる生地、ガムランを筆頭とする多彩な音楽などが「文化」として西洋人に受け入れられるには、著名な西洋人の芸術家が東洋趣味としてではなく、自らの制作における源泉として作品に昇華される必要がある。音楽ならメシアンやスティーヴ・ライヒがしたように。そして次の段階として、彼らの・西洋人の手法において・アジア的なるものを提示するという段階があったように思う。武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》のように。1980年代以降、建築・デザイン・料理・映画などで「和的なミニマリズム」が国際的に高評価されるようになり、音楽でも“静寂や間の美”が洗練された表現として西洋音楽の語彙ともなった。
日本のクラシック、現代音楽の邦人作品で、あの福岡アジア美術館で感じたような何とも複雑な心境にさせられる曲はさほど多くはないという印象が私にはある。それは作曲家が意識せざるを得ないアイデンティティの問題を、日本的に洗練された上品な響きに昇華した音楽が誕生した後に、各々の作品に反映させているということではないだろうか。同時代に近藤譲という別次元で日本的美意識を西洋の手法で作り上げた人物がいて、彼は教職も長いため、薫陶を受けた後進も多いからかもしれない。それゆえ視野のどこかに必ず入っていたからなのだろう。
傾向は違うが、私は前衛音楽の爆発的エネルギーを内包した表現主義のように熱い三善晃の音楽なども好きだ。間宮芳生も大好きだ。両者とも西洋の手法、形式の中で、文化的植民地化されることなく、素晴らしい曲を遺している。
日本人のピアニストとして、素晴らしい邦人作曲家が書いたピアノ作品を弾けることは、とても誇らしい気持ちになる。このような曲がなかったら、自分はあのアジア王族一家の油絵の肖像画を描いた画家のようなことをしているような気がてしまうのではないかと思うのだ。
2025年の秋、ショパンコンクールがワルシャワで開催された。入賞者はほぼアジア系で、もういっそアジアで開催してはどうかという笑えるコメントも見かけた。演奏家にとって自らのアイデンティティというものは何なのか、どう思っているのかというのは毎回、コンテスタントの演奏を聞くと思う。小澤征爾氏は「日本人にしか出来ないモーツァルトを演奏する」ということを語っていたように思う。実際、日本人の演奏は奏者を見なくても弾き方で2分も聴けば「ああ日本人だ」と分かる。何というか湿度を帯びているのだ。乾燥した土地で生まれた音楽が湿度を伴った節回しで再生されることはリ・クリエイトなのだろうか。ということは疑問ではあるのだが、小澤征爾は大スター指揮者であったし、日本人的な節回しでも人気ピアニストは多い。(昔の)他国の他人が作った曲を弾くクラシックの演奏家とはグローバリズムの先駆けなのかもしれない。
ショパンはもとより、モーツァルトでも「クラシック音楽は敷居が高い」ので好きではないという人はいる。何をもって「敷居」となるのか、ということもあまり考えずに単に趣味の違いだと思っていた。それについて「モーツァルトのハプスブルク家御用達という感じが自分からは最も遠い」とSNSで呟いている人を見て、とても腑に落ちた。
能も決して庶民のための文化ではない。格式的には日本におけるクラシック音楽よりはずっと上だろう。しかし音楽的節回しにおいて邦人クラシックピアニストと共通する感覚がある。能においては湿度という感じは薄れ、上品であっさりとした印象になるのだ。服のセンスは今イチでも着物だと素敵、みたいな感じだろうか。案外、日本人ピアニストは近藤譲のピアノ曲を民族の血で上手に弾けるのではないか。クラシック音楽の教育で受けた「ここが山場だ」という古い音楽概念を刷新し、「あんまり甘くなくて美味しい」という民族本来の感性に戻れば。
『羽衣』は近藤譲の唯一のオペラとのことだが、第2作目があるべきだと強く思う。このようなクール・ジャパン高級版オペラの上演こそ外国から日本にまで観にくるべきものとなると思うのだが、どこか近藤氏に委嘱してくれないものだろうか。次作は台本から演出から何から本人の好きなようで良いということで。
注
* 近藤譲のプログラムノートによる
https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/article/detail/001769.html
【参考記事】
ぶらあぼONLINE | クラシック音楽情報ポータル+1
https://ebravo.jp/archives/194316?utm_source=chatgpt.com
第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート
近藤 譲(作曲)オペラ『羽衣』
2025年 8月28日 サントリーホール
曲目・出演者
近藤譲:『接骨木(にわとこ)の3つの歌』(1995)
ヴァイオリン:林悠介打楽器:西久保友広
近藤譲:オペラ『羽衣』(1994)[日本初演・演奏会形式(舞踊付)]
指揮:ピエール゠アンドレ・ヴァラド
メゾ・ソプラノ:加納悦子
舞踊:厚木三杏
ナレーター:塩田朋子
フルート:多久潤一朗
読売日本交響楽団
女声合唱団 暁
https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/article/detail/001768.html
矢沢朋子 Tomoko Yazawa ピアニスト/ DJ / プロデューサー
東京出身。フランス近代、現代音楽の演奏で特に定評のあるピアニスト。多くの有名作曲家が曲を献呈。桐朋学園大学、パリ・エコール・ノルマル高等演奏家資格取得。第16回中島健蔵音楽賞受賞。2001年よりマルチメディア・プロジェクト、エレクトロ・アコースティック・プロジェクト「Absolute-MIX」をプロデュース。CDをAmazon、iTune、Spotifyなどで40カ国以上に配信、販売するGeisha Farmも主宰。2011年沖縄移住。
*11/05 那覇、 12/05東京で 矢沢朋子Absolute-MIXのコンサートが開催される。
https://jazztokyo.org/news/post-116188/
サントリー音楽賞, 近藤譲, ピエール゠アンドレ・ヴァラド
