邦楽のパースペクティヴ (後編)金野ONNYK吉晃
text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃
高校生の合唱
2023年6月25日、岩手県盛岡市、八幡宮の門前通り、通称は八幡町で「ぽんぽこ市」というイベントがあった。市の内外から飲食の出店が並び、昼前からいくつかの芸能上演があった。
盛岡第四高校の合唱は、賢治と啄木の詩を謳い上げる。
賢治は同調、共感を誘うチャーチソングであり、孤独と憂愁を嘆くブルースは啄木であろうか。
久々に聴く高校生の合唱を美しく感じた。
16世紀に日本に初めて伝来した西欧音楽、キリシタン音楽は、日本人が経験したことのない音感に満ちあふれていた。特にその合唱には呆然とし、これに自ら参加すれば脱我の快感だった。読経は或る意味で宗教的合唱に近いが、和声は意識されないし、経文それ自体も難解で、担うのも僧侶に限られた。だから庶民は簡単に没入できる念仏に走った。念仏も西欧の和声も、その快感と結束力に為政者の嫌うものがあった。
西欧音楽がかくも発達した理由は、キリスト教会で、単声部による男性合唱のグレゴリオ聖歌が儀礼に用いられた事に端を発する。ここでは全ての歌手が正確に均質な発声をする事が重視され、自然発生的な倍音や和声は排除される。しかし後にノートルダム楽派以降の多声音楽の出現で和声法は急速に発展する。一方東洋では経典や詩編の斉唱で、自然発生的な和声が生じ、それを容認していた。仏教の声明や読経、スーフィズム(イスラム密教)におけるズィクル、あるいはコプト教会でのティムカットなどでも豊かな倍音の生成がみられる(これらの例も全て男性による)。しかし東洋の宗教音楽は、和声概念を発達させなかった。
この東西の対比は興味深い。自然発生する倍音を、西欧では抑制が多声音楽を生み、東洋における寛容が和声概念を成長させなかったということだろうか。
久々にライブで聴いた若々しい合唱の美しさに、私はキリシタンの齎(もたら)した合唱の衝撃を想像した。逆に、現代の若者達に真言声明やチベットの読経を聴かせたとき、彼等はその響きを通じて、異質な音楽性に驚くことは希ではない。
文化の非対称性は歴史的に生起し、またそれが均衡を得るように、技法的、技術的な変化が起きて、表現は新しい様式を生む。それは一旦平衡に達するが、また揺り返しが起きて波動は増減しながら持続するだろう。
これは西欧絵画と、江戸期多色刷り木版画の出会い(印象派と日本画)でも、北米のブルーズが英国の若者に与えた衝撃とその反応、その後のポップス史(マージービート、ブリティッシュ・インヴェイジョン)でもわかる。
中野七頭舞
同日、岩手県岩泉町からは中野七頭舞(なかのななずまい)が八幡町にやってきた。県立岩泉高校の郷土芸能部による上演だった。その発祥は天保時代にさかのぼるといわれる。当時、神楽太夫と呼ばれた工藤喜太郎は、現在の岩手県の太平洋沿岸集落を巡演していたという。この喜太郎が神楽舞の要素を再編して中野地区において七頭舞を創始した。
この過程はキム・ドクスの「四物楽(サムルノリ)」演目の作曲経過に似ている。地域毎の演目を抽出し再構成することで、特定の地域性に依存しない普遍的アピールの強い作品にしていくのだ。
中野七頭舞で、演舞する基本は、2人1組の7組で14人で、七種類の演目がある。踊りの型も「道具取り」「横跳ね」「チラシ」「戦い」「ツットウツ」「みあし(鳥居掛かり)」「道具納め」の七つに分かれており、これも七に関係する。これらが七頭舞と呼ばれる由来か。
当初は神楽として奉納されたが、集落の季節的祭典にも披露されるようになった(郷土芸能部HPの情報を整理)。
神楽面は全員つけていない。一般的な神楽のような神話的な背景の演目はなく、役割ごとの舞い手の動きが違うという事もなく対称性がある。円舞でもなく直線的なのも興味深い。同じ小道具をもったペアが、戦うような仕草で、打ち込み、しゃがみ、立ち上がり、回転する。太鼓と鉦と笛の伴奏のテンポは速い。これは激しい動きで確かに高齢では難しいだろう。
さんさ踊り
その後に登場したのは「黒川さんさ」と呼ばれる群舞である。
さんさ踊りと呼ばれる群舞は盛岡市周辺に地域毎の名前を冠した多数の集団がある。これらは「伝統さんさ」と呼ばれる。そして近年は市内の目抜き通りを、改変された「統一さんさ」と呼ばれるスタイルでパレードすることが観光資源となっている。
「さんさ踊り」は元々、岩手県央の「念仏踊り」系芸能で、観光的に広報されているような、岩手の地名由来(鬼の手形)とは関係ない。混淆し、隠蔽され、捏造される伝承の典型。それは昭和53年あたりから三ツ石神社の伝承に結びつけられた。由来は骨董品と同じく権威、権力と結託したがるのである。
東北では旧い伝承が、なんでもかんでも坂上田村麻呂と阿弖流為(あてるい)の対抗関係に結びつけられ、前者はホトケと後者はオニの化身とみなされてしまう。征服された蝦夷地の民衆が何故かくも田村麻呂や源氏にへつらうのか、これは私にはまだ謎なのだが。
「伝統さんさ」は地域によってバリエーションがあるが、基本は円舞で、舞い手が体の前に括り付けた太鼓を打ち鳴らしながら、激しく旋回して踊るのが特徴である。パレードで一斉に踊られるのは簡易化した、参加しやすい形式となっている。
こうした観光化ずれした、共同体意識の薄まった踊りに対して各地域の伝統的な踊り方を護り続ける地元保存会もある。
黒川さんさはそのひとつで、パレードの踊りが飛び跳ねるような動きを主にするのに対して、笠を深くかぶり、頭を上げず、なるべく顔を見せず、腰を落として旋回し、地をはうような動きは幽玄でさえある(当日の上演では炎天下のこともあり、なかなかその雰囲気を味わうまでには至らなかったが)。
こうした上演を見て、いつもの疑念がまた頭をもたげる。伴奏と唄はともかく、若い舞い手は9割方女子だ。男子はどこへ行ったのだ?
女子高生の集団的パワー、女子集団の芸能的エナジーは、或る意味遺伝子的とさえいえるほど、根源的なものがあるのではないか。
登美丘高校ダンス部の「ダンシング・ヒーロー」で一躍話題になったakaneがプロデュースした「アバンギャルディ」がブレイクした。またSNSをプラットホームとして「新しい学校のリーダーズ」もエピゴーネンが続出しそうな勢いだ。
というか、つんく、秋元康らのアイドル路線は女性の集団だ。いま、ここでアイドル論をぶつつもりはないが、対(つい)として男性ばかりの芸能集団を想起する。
朝鮮半島の男児党(ナムサダン)も、グレゴリオ聖歌にしても、歌舞伎にしても、はたまた一世風靡セピアやエグザイルとかの男性ユニットも含め、性的非対称の表現型に付いて横断的考察を深めたいものだ(ジャニーズ問題まで波及しそうだが)。
黒澤箏合奏団
2023年7月2日、盛岡市の岩手県民会館中ホールで、黒澤箏合奏団第50回演奏会が開催された。黒澤箏合奏団創始者夫妻の娘である黒澤有美がソロイストとしてニューヨークから招かれた。また黒澤夫妻の指導を受けた盛岡第二高校箏曲部も参加している。ちなみにこの高校は女子校である。そして当日の演奏集団の、これまた9割かでは女性である。男性の活躍するのは三絃(箏、三味線、尺八のアンサンブル)および、「尺八と箏のための協奏曲第三番」における尺八演奏のみ。確かに女性の尺八奏者はほとんど見ない。
それは措くとして、黒澤合奏団の演奏会はレベルの高さを感じる。黒澤和雄、黒澤千賀子が1968年に創設した箏の教室は1971年に定期演奏会を開始、本年55周年を迎えた。黒澤夫妻の演奏活動は国際的であるが、教育者としても優れ、盛岡第二高校箏曲部は全国大会の上位は勿論、中国へも演奏に出かけている。
同部はオリジナル曲の演奏にも力を入れ、今回のプログラムでも四面の箏による「箏双重」は十七弦と通常の箏が二面ずつ対となり、対照的なサウンドを奏でながら、瞬時に調弦を変えて行く(それ自体は珍しい奏法ではない)。全体として若々しいミニマリズムを感じさせる最も印象的な演奏だった。
ゲストとして登場した黒澤有美は、もう何度も定期演奏会に来演し、故郷の聴衆に暖かく迎えられた。
1971年以来独立して演奏活動を現在はニューヨークを拠点に、まさに世界を股に掛けた演奏活動を続け、2021年には箏、バイオリン、パーカッションのトリオを結成、CD 『Metamorphosis』(Zoho, ZM202301)を発表。内外の大学で講師を務める。
第二部で彼女のソロが披露された。〈インナースペース〉は最初に作った曲だというだけあって、何度も演奏されたオリジナル曲がもつ磨き上げられた響きがある。そのタイトルも、おそらくこれから世界に飛び立つ覚悟の中で、それに照応するだけの内面性を、果たして自分は自覚しているだろうか、それとも未知のままで良いかといった意識を反映しているのか。しかし既に世界を何度も回った演奏家として、その言葉は新しい意味を獲得しただろう。
そしてまたスミソニアン博物館からの委嘱で作曲したという新曲。箏がモダンなインストルメントとして西欧音楽のなかに位置づけられた証左でもある。がしかし、こうした、アンビエントとしてのサウンド・インスタレーションに、箏が、例えばガムランやシタールを用いたマーティン・デニー風と同等にみなされている可能性はあるし、おそらく箏音楽を本気で聴く意識を持つ人でない限り、エキゾチシズムを払拭できないだろう。
さらにCDのサウンドを聴くと、私にはどこかバイオリンのほうがメインになっているような印象を受けた。それはバイオリンが調性の移動に支障がなく、持続的な響きを保ち、かつ一回のボウイング(弓弾き)のなかで強弱の変化、さらにポルタメント、トレモロ、ヴィブラート、フラジオなどの変化を箏以上に自在に行う事で、より「歌う楽器」として旋律的な役割を持ってしまうからだろうか。
他山の石
私は決して、明治以降の邦楽のあらゆる局面を知悉して、その分析を通じて展望を記述しようなどと大それた事を考えてはいない。それは専門家に任すしかない。しかし専門家が取り上げないような視点からの、まさに大衆的な、そしてローカルな「邦楽〜日本の音楽」の同時代的様相を記録しておく事も意義が在ると思ったのだ。それは近松(本稿、前編参照)らが指摘したような「日本的和声への志向・渇望」ではない形での「邦楽」の発達である。これは和声理論など、まず傍らにおいておき、民衆的ウォルプタス(voluptas)を表現に昇華する音楽だ。
逆説的に言っておこう。日本はない。
ニホンと我々が呼び習わす領域と集団は、観察された結果である。
歴史的構造的に多層のコンプレックスであり、これをどのような視座で、断面で、座標で解析するか。そのタイムスパンとエリアと解像度はいかに設定されるか。それによって見えるニホンは違う。
日本的和声や邦楽という、極めて限定した仮想の格子から何が見えるか。
この弧状列島には二万年程前から多くの種族、部族、家族が流入し住み着いて来た。樺太や千島列島から、小笠原諸島から、日本海(東海)を横断し、東シナ海を経て、南西諸島を島伝いに。そして定住した。二千年程前に朝鮮半島経由や、直接に大陸から思想と文字が伝来して来る。それは道教や儒教の一部だった。土着の精霊信仰、氏族崇拝、磐座信仰などと混淆していった。そして6世紀前半に(大乗)仏教が渡来した。宗教思想は音楽も齎した。外来の音楽はゆっくりと浸透し、土着の儀礼と結びついて行った。そして16世紀半ば、鉄砲とキリスト教がやって来た。その後については書く必要は無いだろう。
いかなる文化圏にもバッカナール、コルヌコピア、テスモフォリア(いずれも狂乱を伴う豊穣祈願)があり、そこには人や動物の犠牲を強いるものであった。それは生死を見つめる根源的視座である。
その意味で私は忘れる事のできない音楽家と、そのCDについて、若干の考察を書いてこの冗長なエッセイの結びとしたい。
それは故齋藤徹『ストーンアウト』(1996)である。
音場舎の主宰者で、OMBA RECORDS の北里義之(『サウンド・アナトミア―高柳昌行の探究と音響の起源』2007の著者)のプロデュース。ピアノの黒田京子、コントラバスの伊藤啓太の他、丸田美紀、西陽子、八木美知依、竹澤悦子の四人の箏奏者が加わっている。この四人はKOTO VORTEXという集団を作り、吉村宏はじめ、世界中の作曲家による箏の新曲を演奏してきた。八木はジョン・ゾーンのレーベルZADIKでソロ『Shizuku』もリリースし、即興、現代曲から古典まで八面六臂の活躍をしている。そして彼等は皆、澤井一枝門下生でもある。
さて『ストーンアウト』という音楽を如何に表現したらいいだろうか。
朝鮮半島のシャーマン儀式シナウィ、フリージャズ、タンゴ、そして邦楽の、決して安易な混淆ではなく、それらがせめぎあう、ダイナミックなアンサンブルである。これは齋藤徹の内面的な葛藤でもあろうか。それは激しいインパクトが波状に襲い、そして渦巻く(VORTEX!)。
このアルバムを初めて聴いた時、私は異界に突入したかのように、一瞬目眩に襲われた。そうだ、これこそは多様なヒト、モノ、コトの辿り着く場所、その弧状列島に絃を張ってかき鳴らす音なのだ。
邦楽がその領域を形成する求心力と遠心力の均衡を崩し、また取り戻していくためには、齋藤のような横断的音楽家の存在が不可欠であろうと思うのである。齋藤は逝った。しかし大樹が倒れたとき、そこにヒコバエは萌える。
伊沢修一、武田忠一郎、荒木栄、鳥取春陽、工藤喜太郎、田 耕、宮城道雄、滝廉太郎、山田耕筰、田辺尚雄などが、もし『ストーンアウト』を聴いたなら、どんな感想をもらしただろうか。(了)
邦楽のパースペクティヴ (前編)
https://jazztokyo.org/column/special/post-90597/
邦楽のパースペクティヴ (中編)
https://jazztokyo.org/column/special/post-91406/