小沼純一『Keith Jarrett / Solo Concerts』
『キース・ジャレット/ソロ・コンサーツ』
ああでもないこうでもないと迷いながら、はじめてECMを意識したのはこれだから、と『ソロ・コンサーツ』になる。
レコードのレーベルを意識したことはなかった。演奏するひとよりは楽曲に、作品に、作曲家に関心がむいていた。すこしずつそうした意識が変わってきたのが中学生になってから。そこにこのアルバムが来た。
ジャズなの?とおもったのははじめの数分か。ただ、ピアノに、ピアノの音に、くりだされてくる音と音に、ききいった。瞬間、音色がさーっと変化するのに鳥肌がたって。みぢかだったピアノが、べつのものになった。
中高一貫校、ビッグバンドもどきのクラブで助っ人としてピアノを弾いた。2年上の先輩――のちに高名な作曲家となる――が、練習のとき、買ってくれないかと持ってきたのが『ソロ・コンサーツ』。キース・ジャレットは知らなかった。拒むのは礼儀に反しているとおもったし、ほかの学生でなく、じぶんに持ち掛けてくれたのが、ちょっと、うれしくもあった。エリントン《A列車》やベイシー《クイーン・ビー》、クィンシー《アイアンサイド》、ビートルズのアレンジ、なんてのをやっていたクラブとはまるで違う世界がひらけるとはおもっていなかった。
何の用意もなくおこなわれたインプロヴィゼーション。日付と場所が変わると、音楽が変わる。語り口が、音色が、グルーヴが変わる。まわりの空気もまた。このレコードを知ってから、ジャズは、ライヴ盤中心に買うようになった。場、を、ことばとしてではなく、認識するようにも。
キースのからだが、そこ、にある。たまに声がはいっていた衝撃。そのころは、まだグールドもきいていなかった。レコードからひびいてくるリズム、間に残響があり、弾いているキースの手や腕が、背が、みえた。TVで親しんでいたクラシック系ピアニストの大袈裟なみぶりでなく、みえていないのに、音から、リズムから、音と音のないところから、「みえる」「幻視させる」ものがあった。
1970年代後半、雑誌「カイエ」の裏表紙にはECMの1枚をめぐるエッセイが毎号掲載されていた。聴くことはできなくても、ジャケット・デザインに惹かれ、何人かのミュージシャンの名を記憶した。『ソロ・コンサーツ』に出会っていなかったら、気にとめたろうか。
この何年か、諸般の事情で、積極的に音楽がきけずにいる。それでも、ときに、とくに深夜、いくつかの音源に短いあいだ耳をかたむけたりはする。キースのピアノ・ソロ、ディノ・サルーシの『アンディーナ』、トマス・スタンコの『フロム・ザ・グリーン・ヒル』、アート・アンサンブル・オヴ・シカゴのボックス。ECMのなかから挙げたが、このレーベルをめぐる文章ゆえの選択ではない。『ソロ・コンサーツ』は、なかでも、はじまりのところは、はじめて針をおろしたときの記憶とともに、「きく」ことをおもいださせてくれる。音楽をきくのは、また、まだ、いいものだな、と。
ECM 1035-37
Keith Jarrett (Piano)
CD 1
1 Bremen, July 12, 1973, Part I (Keith Jarrett) 18:05
2 Bremen, July 12, 1973, Part II (Keith Jarrett) 45:10
CD 2
1 Lausanne, March 20, 1973 (Keith Jarrett) 01:04:54
Recorded March & July 1973
Produced by Manfred Eicher
小沼純一 こぬま・じゅんいち
1959年、東京都生まれ。音楽・文化批評家・詩人。早稲田大学文学学術院教授。音楽、音楽家について論じる一方、文学、映画、美術、ダンス等、芸術全般にわたる横断的な批評活動を展開。近著に『本を弾く 来るべき音楽のための読書ノート』(東京大学出版会 2019)『しっぽがない』(青土社 2020)。