鈴木大介『Pablo Márquez / Gustavo Leguizamón: El Cuchi Bien Temperado』『パブロ・マルケス/エル・クチ・ビエン・テンペラード』
ヨハン・セバスチャン・バッハの生誕300周年だった1985年、一日中ラジオから流れるバッハの音楽に浸りきっていたことで、音楽を‘弾く’ことと同じくらいか、あるいはそれ以上に‘聴く’ことに夢中になってしまった僕は、程なく家にあったジャズのレコードを漁り始め、同時にハービー・ハンコックやキース・ジャレットの音楽を貪るように聴くようになった。
高校時代、六本木にサントリーホールが出来て、念願だったキース・ジャレットのソロ・ピアノのコンサートを初めて体験した。その日の録音はやがて『ダーク・インターバル』(ECM1379)というアルバムになってリリースされた。キース・ジャレットが奏でる音楽ならなんでも好きだったので、様々な楽器を駆使したフォークミュージックの『スピリッツ』(ECM1333/34)やクラヴィコードを弾いた『ブック・オブ・ウェイズ』(ECM1344/45)も愛聴した。平均律クラヴィーア曲集第1巻の録音から始まったバッハのシリーズも、誰がなんと言おうとリヒテルやレオンハルトに匹敵する、あるいはそれらをも超える名盤だと思っているし、スタンダーズ・トリオの来日公演はなけなしの小遣いをはたいて複数会場を追いかけた。
ただ、今ここでキース・ジャレットの音楽や録音について僕がどんなに熱弁を奮っても、それが足元にも及ばない情熱と体験をお持ちの先輩諸氏がたくさんおられるに違いなく、かと言って、僕がギタリストとしての経験を積む過程で今なおECMの数多くの名盤からその深淵な世界を学び取っているエグベルト・ジスモンチやパット・メセニー、ビル・フリゼールらの魅力も、僕はその一端を知っているに過ぎないので、おそらく最も専門的なご紹介ができる一枚としてこの作品を選んだ。
Recording “El Cuchi Bien Temperado” ©Dàniel Vass
パブロ・マルケスは1967年生まれのアルゼンチンのギタリスト。90年代にヨーロッパで僕は何度か彼の演奏を聴くことができたが、常に完璧にコントロールされながらも決して冷たくならない、それどころか深い愛情を感じさせる熱意に溢れた音楽を奏でる現代最高のギタリストのひとり。ヨーロッパの伝統的なクラシック音楽の解釈も、現代音楽やアルゼンチンの民俗音楽へのアプローチも素晴らしく洗練され、高いクオリティで聴かせてくれる。ルチアーノ・ベリオやピエール・ブーレーズといった、現代音楽の巨匠たちからの信頼も厚かった。
そのパブロ・マルケスが、16世紀スペインで栄えたリュートに似た宮廷楽器‘ビウェラ’のために書かれたルイス・デ・ナルバエスの作品集に続いてECMからリリースしたのが、故郷アルゼンチンのフォルクローレのレジェンド、グスタボ・レギザモン(愛称クチ、1917〜2000)の音楽を自らギターソロにアレンジした作品集。クチは民衆に愛されるフォーク・ソングを多く書き残したフォルクローレ界のジャイアントであっただけでなく、法律家、歴史教師、詩人、と多くの顔を持っていた知識人だった。同じくクチの音楽をカヴァーしたアルバムを2作発表しているアルゼンチンのギタリスト、キケ・シネシに尋ねたところ、クチはフォルクローレの古くからの味わいを失うことなく、歴史上初めて近代以降のドビュッシーやラヴェル、そしてシェーンベルクらに影響を受けた和声を取り入れ、現在幾多の素晴らしいアーティストを輩出しているモダン・フォルクローレへの扉を開いた人物でもあるそうだ。
パブロはフォルクローレ特有のギター奏法や、豊富な和声への知識を基にした多彩なコードを用いて、クチの音楽への信頼と感謝を紡ぎあげる。アルバム・タイトルが、日本語でいうところの「平均律クチ」のようになっているのは、ここでの編曲が全てのトーナリティーを横断するように設計され、パブロ自身も通常のチューニングの他に7種もの変則チューニングを用いていることに由来している。
こんなにも慈愛に満ち、そして原曲に息づく社会へのプロテストや達観をも含みながら、ただひたすらに美しいギターソロの音楽を僕はほとんど知らない。ちなみに、パブロ・マルケスが初めてクチと対面したのは13歳の時に通っていた学校の歴史の先生としてだったとのこと。教室に現れたその先生が子供の頃から慣れ親しんだポピュラーソングの作曲者だとは夢にも思わなかったらしい。
ECM NEW SERIES 2380
Pablo Márquez (guitar)
Recorded May 2012, Auditorio Radiotelevisione svizzera, Lugano
Engineer: Markus Heiland
Produced by Manfred Eicher
鈴木大介 すずきだいすけ
ギタリスト。作曲家の武満徹から「今までに聴いたことがないようなギタリスト」と評されて以後、明晰な解釈力と洗練された技術によって常に注目を集める 。マリア・カナルス国際コンクール第3位、アレッサンドリア市国際ギター・コンクール優勝。近年はジャズやタンゴのアーティストたちとの演奏活動や、自作品によるライヴ演奏も行い、また多くのアレンジは録音やコンサート共に好評で、様々なギタリストに提供し演奏されている。また、美術作品からインスパイアされたプログラムにも積極的で、これまでに国立新美術館「オルセー展」、ブリジストン美術館「ドビュッシー展」、都立現代美術館「田中一光展」を始めとする多くの美術展でのコンサートを成功させている。 楽譜は現代ギターから自作の『12のエチュード』をはじめ、『キネマ楽園 ギター名曲集』『Daisuke Suzuki The Best Collection for Guitar solo』を発売。2021年2月20日には、武満徹没後25周年を記念して、『武満徹 映画とテレビ・ドラマのための音楽 ギター編曲作品集』を日本ショットより出版。これまでに30作以上ものCDを発表し、いずれも高い評価を得ている。最近作は武満徹編の「ギターのための12の歌」を全曲収録した『ギターは謳う』。