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特集『ECM: 私の1枚』

矢澤孝樹『J.S. BACH: CLAVICHORD / András Schiff』
『J.S.バッハ:クラヴィコード/アンドラーシュ・シフ』

音楽について書くことの私の軸足はクラシック音楽にある。だが常にそれは他ジャンルと地下水路で結ばれている、という認識がある。もっと俯瞰して書くなら、音楽にはジャンル同士に境界はあるが、それは壁ではなく、自在に交流可能な「ただの線」である、という認識だ。
このような認識を与えてくれたさまざまな出会いの内、ECMレーベルとの出会いはそのもっとも重要なひとつに数えられるだろう。
最初に聴いたのは高校の時のスティーヴ・ライヒ《18人の音楽家のための音楽》だった。それから大学時代にはアルヴォ・ペルトやヒリヤード・アンサンブルのジェズアルドなどNEW SERIESを聴き、「現代音楽や古楽にも強いジャズ・レーベル」という認識だった。
だが、ECMをECMとして認識したのは、20代半ばだろう。水戸芸術館に勤めて数年、仕事相手のデザイナーの事務所で、キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を聴かせてもらって衝撃を受けた。それまでジャズはブルーノートやインパルス系、あるいはエレクトリック・マイルスにハマっていて、ECMのジャズは何となく「ユーロ・ジャズ」とカテゴライズして遠ざけていた。チック・コリア『リターン・トゥ・フォーエヴァー』やアート・アンサンブル・オヴ・シカゴのECM三部作+『アーバン・ブッシュメン』を聴いていたくらいか。
それからはそのデザイナーの手引きでリッチー・バイラーク『ELM』、ラルフ・タウナー『ソロ・コンサート』、オレゴン『オレゴン』などを立て続けに聴き、真にボーダレスな感覚を持ったECMジャズにすっかり魅了された。キース・ジャレットは『マイ・ソング』や『パーソナル・マウンテンズ』などを筆頭に片端から聴き倒し、パット・メセニーに目覚め、カーラ・ブレイに驚き…という具合だ。折しもヤン・ガルバレクとヒリヤード・アンサンブルの『オフィチウム』が発売され、「これぞ越境音楽」と心酔した。リッチー・バイラークやラルフ・タウナーは水戸芸術館にも招聘し、その時に稲岡邦彌氏とお仕事を共にできる機会に恵まれた(ラルフ・タウナーと渡辺香津美の共演で《イカルス》が演奏された瞬間は、今もって忘れがたい)。
だから「私の一枚」にこうした想い出と共に上記のアルバムを選んでも良いのだが、一応クラシックの執筆者として、越境古楽系に果たしたECMの役割の大きさを強調しつつ、ここではアンドラーシュ・シフのバッハを選ぼう。NEW SERIESはシフのベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集が出た頃からどんどんレパートリーが王道化したのだが、やはり他レーベルとは異なる、音楽家に未知のチャレンジの機会を与える役割を果たし続けている。シフはその典型で、正直私は2000年代前半くらいまではそれほど関心のあるピアニストではなかったのだが、2014年ECMにフォルテピアノでシューベルトのソナタ第18番と第21番を録音したアルバムに瞠目した。モダン・ピアノの奏者がピリオド楽器に臨むのはまだこの当時は少数派で、既に名ピアニストの域にいたシフがこのようなチャレンジをしたことに驚いたのだ。しかもそれは、ピリオド楽器に長けた奏者達とはまた異なる、彼独自の楽器の響きを引き出していて、それがとても新鮮だった(シフは1990年代に別レーベルでモーツァルトをフォルテピアノで弾いているが、正直あまりうまくいっていなかった)。
シフはその後やはりピリオド楽器でなんとブラームスのピアノ協奏曲2曲を弾き、レコード・アカデミー賞を受賞した。そして最新盤は、バッハの作品をバッハ時代の鍵盤楽器クラヴィコードで弾くアルバムだ。クラヴィコードはチェンバロよりもはるかに小さく、発音原理も繊細で、「鍵盤で弾く弦楽器」のような特質を持っているのだが、音量はごく小さいながらその表現力はとても大きい。シフがこの楽器に魅了され、《インヴェンションとシンフォニア》や《半音階的幻想曲とフーガ》を、発見の喜びに静かに熱狂しながら驚くべき集中力で弾いているのが伝わってくる。それは、ピリオド楽器・モダン楽器問わず、かつて聴いたことのないバッハだ。そしてそれは私の中ではECMのアルバムで聴くキース・ジャレットやティグラン・ハマシアンと、地続きにある。
ECMとは、そういうことを可能にするレーベルなのだ。きっとこれからも。


ECM 2635/36

András Schiff (Clavichord)

CD 1
Capriccio sopra la lontananza del fratello dilettissimo BWV 992 (Johann Sebastian Bach)
Inventions BWV 772-786 (Johann Sebastian Bach)
Four Duets BWV 802-805 (Johann Sebastian Bach)
Das Musikalische Opfer BWV 1079 (Johann Sebastian Bach)

CD 2
Sinfonias BWV 787-801 (Johann Sebastian Bach)
Chromatic Fantasia and Fugue BWV 903 (Johann Sebastian Bach)

Recorded July 2018, Kammermusiksaal H. J. Abs, Beethoven-Haus, Bonn
Produced by Manfred Eicher


矢澤孝樹 やざわたかき
音楽評論、ニューロン製菓株式会社・株式会社アンデ代表取締役社長。
1969年山梨県塩山市(現・甲州市)生。慶應義塾大学文学部卒。1991年~2009年まで、水戸芸術館音楽部門学芸員および主任学芸員として勤務、演奏会企画制作、解説執筆等を行う。2009年よりニューロン製菓(株)に勤務、2013年より代表取締役社長。2018年に(株)アンデを合併、同社代表取締役社長。並行して音楽評論活動を行い、『レコード芸術』音楽史部門新譜月評他、朝日新聞クラシックCD評、『CDジャーナル』誌、タワーレコード&ユニバーサル『ヴィンテージ・プラス』シリーズ等のCD解説、演奏会解説など執筆。『200CD バッハ』(立風書房)、『最新版名曲名盤500』『不滅の名演奏家たち』『クラシック・レーベルの歩き方』『クラシック不滅の巨匠たち』(以上、音楽之友社)など共著多数。山梨英和大学市民講座『メイプルカレッジ』で音楽学者・広瀬大介氏と共同音楽講座を行う。山梨日日新聞で「やまなし文化展望」連載中。演奏会プレトークなども多数。

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