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特集『ECM: 私の1枚』

青澤隆明『Meredith Monk w/ Robert Een / Facing North』
『メレディス・モンク w/ ロバート・エーン/フェイシング・ノース』

北は心の問題だ。北国生まれでない私にとっては、心の方角なのである。精神の志向、というふうに言いかえてもいい。

“Facing North”と密やかに唱えるだけで、私はそこへ向かうことができる。イヌイットふうの衣装を着た男女が、呼び交わすように歌っている。メレディス・モンクとロバート・エーンの声は、冷たく澄んだ空気のなかを伝って、まっすぐに届く。どこか知らない土地、だからこそ誰の心のなかにも棲むだろう北の光景の、ほとんどなにもない白い見晴らしのなかで。

北の空気が人の声を、生きものの息づかいと太古からの記憶を、いつのまにか呼び覚ます。そうして、ふたりはさまざまな声色で、無邪気に歌いながら、初めてのように手探りで踊っている。

メレディス・モンクのダンス・オペラ、たったふたりで演じられるシンプルなそのステージを、眩くみつめるように聴いていた。それは春のことで、たしか1993年に観た情景。もう30年もむかしのできごとになるが、その時間は私のなかで息を呑むように留まったままだ。澄んだ声の響きは、静かで、冬に吐く息のようにひっそりと、しかしいつまでも温かい。

ラフォーレ原宿でステージを観てすぐ、このアルバムを手に入れた。ふたりの声は、光に瞬く雪のように、廻る小さな鏡面から舞い上がる。いちいち聴き直さなくても、いつでもたちまち聞こえてくる。私は吐く息になり、未知の雪になり、北方の光になったのだから。


ECM New Series 1482

Meredith Monk (Voice, Piano, Pitch Pipe, Organ)
Robert Een (Voice, Pitch Pipe)

Recorded April 1992 at Rainbow Studio, Oslo
Engineer: Jan Erik Kongshaug
Produced by Manfred Eicher



青澤隆明 あおさわたかあきら
音楽評論。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。クラシック音楽を中心に、エッセイ、評論、インタヴュー、プログラムノートなどを執筆。放送番組の構成・出演のほか、コンサートの企画制作も広く手がける。著書に『現代のピアニスト30-アリアと変奏』(ちくま新書)、清水和音との『ピアニストを生きる-清水和音の思想』(音楽之友社)、 ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)など。

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