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特集『私のジャズ事始』

キャバレー・ビッグバンドでベイシーを 藤井郷子

ジャズとの出会いは高校生の頃だった。クラシックピアノで師事していた宅孝二先生がジャズがお好きで、私は宅先生を心から尊敬していたので、きっとジャズはすごい音楽に違いないと思い、FMのジャズ番組を聴き始めた。クラシックとポップスには馴染んでいた耳に、ジャズはとても心地いいとは言えない音楽だった。それでも聴き続けていたある時、ジョン・コルトレーンの「至上の愛」に出会った。このなんだかわからない音楽は心地良い種類の感覚ではなく、まさに魂を揺さぶられるような衝撃だった。それが何なのか、どうも即興という部分に大きな意味があるように感じられて、クラシックの楽曲を読譜で演奏すること自体に疑問を覚え、即興音楽に、ジャズに惹きつけられていった。とはいえ、すぐにジャズを演奏し始めたわけではなかった。コードもわからないし、周りに一緒に演奏する仲間がいたわけでもなかった。その頃はジャズ喫茶がたくさんあって、そこでジャズを存分には鑑賞できた。ジャズを演奏し始めたのはそこからさらに数年してから。クラシックは勉強していたから、読譜とピアノのテクニックはあった。それで、まずはナイトクラブでピアノソロで弾いたり、キャバレーのビッグバンドで演奏する仕事を始めた。それが私の「ジャズ事始め」だった。当時、東京にたくさんのグランドキャバレーがあり、多くのビッグバンドが毎晩演奏していた。ある意味、とても豪華な時代だ。その生バンドでお客さんがホステスさんとダンスしたりする。テーブルのお酒のバックグラウンドはカウントベイシーだったり。一人でクラシックピアノをお稽古していた私には15人編成のビッグバンドのアンサンブルは、毎晩興奮と緊張の連続だった。ドラムとホーンがシンコペーションで畳みかけてくると、ほとんど気が動転して右も左も上も下もわからなくなった。ベイシーの典型的なエンディング、ホーンのテュッティーの後にピアノが数音ソロで弾くのを落ち着いて弾けるようになるまで、何年もかかった。まあ、こんな人は少ないかもしれない。今ではコンサートやライブでオリジナル中心で演奏しているが、私の「ジャズ事始め」はキャバレービッグバンド、そしておそらく私がキャバレーのバンドで演奏した最後の世代じゃないかと思う。


藤井 郷子 ふじい さとこ
1958年東京都生まれ。宅孝二にクラッシック、板橋文夫にジャズを学ぶ。26歳の時に渡米、バークリー音楽院で2年半学び優秀賞を得て帰国するも、自身の音楽を追求するため、93年に再び渡米。ニューイングランド音楽院にてジャズ、現代音楽、民族音楽などを学び、卒業直前にポール・ブレイとデュオ・アルバム『Something About Water』を制作。卒業後、ニューヨーク滞在を経て帰国。その後は日本を拠点に欧米豪で活動を展開。ソロ、デュオ、トリオ、カルテット、ビッグバンドなど多種多様なフォーマットで精力的に演奏活動を行い、100作以上のCDでその成果を問う。

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