Gallery #41「morgue」
text by Yoshiaki Onnyk Konno 金野Onnyk吉晃
「黒い鷲〜あきら・のわーる」(間章へのオマージュとして)
<Mを音楽にOをオカルティズムにRを革命にGを地球学にUをユートピアにEをエロティシズムにあてはめ、スポンティニアスにこの地下室で様々に爪を研ぎ、笑い、即興的に仮りそめの智を生きてみせながら、アナーキーな肉と智を受肉する道を歩んでゆくつもりである。とまれ個は今、この宇宙のそれぞれの遊星である。>間章「モルグ発刊の辞」より抜粋。
誰でも思春期に一度は、誰かに惚れ込む。
私はフランク・ザッパと筒井康隆とカフカと、そして間章だった。
それは15歳が精いっぱい背伸びして、危うい世界を覗きたいという衝動だった。
だから私が成長する為には彼等の呪縛を解き、引力圏から脱する必要があったのだ。雑誌「ジャズマガジン」、後に「JAZZ」と改名されたが、そこに連載されていた竹田賢一と間章の記事は丹念に読んだ。左翼を自認する竹田の論旨は明解だったが、間の文章は韜晦と言える程のレトリック、フランス語、古語が散りばめられ、それが黒い漆器の表面の螺鈿のように煌めきつつ魅了した。
今にして思えば彼の文章は「詩」、「散文」であったのだ。彼が若いとき、塚本邦夫、石原吉郎などに私淑し、私家集を出していた事は良く知られる。またシャンソンへの傾倒も深く、ブリジッド・フォンテーヌ「ラジオのように」のライナーノートは自らを主人公にした短編小説ともいえる。
ジャニス・ジョプリン「チープ・スリル」ではライナーノート大賞を授賞したというのは微笑ましい。ロックにおいても、私が購入するレコードではどれもこれも間のパターン化した文に出会うので、いささか食傷気味にもなった。
彼が熱く語るジャズメン達、アイラー、ドルフィー、オリヴァー・レイク、そして阿部薫らのサックス奏者達、また徹底して貶しめるブラクストンもセシル・テイラーも私のアイドルだった。そして彼はレイシー、ミルフォードを続けて招聘する。JAZZに連載されるインタビューと記事において、湧き出るが如く彼の筆は冴え渡った。
78年、遂に「ギターを持ったアナーキスト」と彼が称賛して止まないデレク・ベイリーを日本に呼ぶ。私見だがこのあたりがベイリーの頂点だったのではないか。ベイリー自身、後に何故「今頃になって日本に呼ばれた」と多少のとまどいをもって語っている。同時に間という存在の大きさも称賛し、後にソロの名作「AIDA」を残している。
当時の間の「やり方」に反発した人々は少なく無い。その理由も十分理解できる。しかし、やはり彼でなければレイシー、ミルフォード、ベイリーを招聘は出来なかっただろう。それは音楽業界ビジネスやジャズ界の力学関係では収まりきらなかった。いわば間は、暴力的に他の左翼勢力を排除して革命を成功させたレーニンになったのだ。
レイシー「ライヴ・アット・マンダラ」、ミルフォード「メディテーション・アマング・アス」、ベイリー「ニュー・サイツ・オールド・サウンド」「デュオ&トリオ・インプロヴィゼーションズ」と、立て続けにその成果がリリースされた。間派になっていた私はそれらに没入したといっていい。
間は74年、半夏舎を組織し、78年4月雑誌「モルグ」−1号(創刊準備号)を世に送り出した。同年8月1号が出、12月には2号というペースで続いた。2号表紙は、ハン・ベニンクのアップだった。既にベニンク、ブレッツマンを翌年4月招聘する準備は開始されていた。同月12日、間の訃報が届いた。
私に伝えてくれたのは、当時盛岡在住で、故人の詩人高橋昭八郎氏だった。彼はジャズ評論家にして詩人の清水俊彦と懇意であり、清水氏は75年に小杉武久と一緒に盛岡に講演とパフォーマンスに来ている。そのとき、間も同行した。モルグ発刊準備号の巻頭には清水氏の論考が掲載されている。
間の急逝は清水氏から伝えられたという。
私が間に傾倒している事を知っていた高橋氏が夜半に電話して来たのである。私はしばし言葉を失った。
間にはたった二度しか直接会っていない。それでも間信者であったのは疑いない。
私が同人誌活動を始めた頃、渋谷の彼の住居に友人達と押し掛けたことがある。不在だったが、残して来たメモのせいで私の家に電話があったという。残念ながら今度は私が不在だった。
ところが、ベイリーの日本初公演の日、会場である渋谷パルコの地下で、私は間に偶然であった。詩集を主にした書店「ぽるとぱろうる」で書棚を見ていると、黒々とした顎髭、サングラスに全身黒尽くめ、長髪の大柄な男が隣に立っていた。その横顔を見た瞬間、反射的に声をかけてしまった。
「間さんではないですか」
「はい、そうですが、何か」
「私は以前御宅にお邪魔して置き手紙をした者です。お電話をいただいたのですが不在で申し訳ありませんでした」
「ああ、あの時の」
「今日は、デレク・ベイリーのライヴを見に来たのです」
「ああ、そうですか。僕もさっきまで一緒だったんですが、一段落ついてちょっと落ち着いたので、本を見に降りて来たんです」
「お疲れさまです。もう万端整ったということですね」
「そうです。折角だから、もし良ければ少しお話ししませんか」
と彼から誘いを受け、近くの喫茶店に入り、二時間も話しただろうか。友人のほうが詩に詳しく、会話はほとんど詩のことばかりで、疎い私は漠然と聴いていたが、あの間と一緒にいるということが嬉しかった。
その後ベイリーは全国巡演のなか、仙台でソロライヴを行い、また間と私は少しの間会話した。そして発行直前の我が同人誌のために、間とベイリーからメッセージを貰った。
間がやり残したベニンク、ブレッツマンのライヴを、追悼の気持ちで見に行った。80年4月の市ヶ谷ルーテルセンターである。
ベイリーらの室内楽的な即興アンサンブルとはうってかわり、破天荒に、あらゆる物を楽器にし、ピアノの鍵盤を椅子で弾き、鉄球を放り投げ、天井から吊られた十字架を叩き、会場内を二階まで駆け巡ってサックスまで吹き捲くるベニンク。それに構う事も無く多種の管楽器を替えながら、延々と我が道をいくブレッツマン。これは確かにフリージャズではない。確かにそのトリガーはアフロアメリカンのフリージャズだったろう。しかし根底には欧州人の個人主義が息づいている。あるいはそれを間はアナーキズムと解しただろうか。
アナーキズムはひとつの突破口、ブレイクスルーであり、かつまた隘路だった。希望とは希な望みである。それが幻想であるうちは輝かしく見える。しかしそれが現実に近づいたとき、同時に幻滅がやってくる。フリーミュージックの不自由さを感じて止まなくなる。「ジャズの死滅へ向けて」と大見得をきり、多くのフリージャズミュージシャンをこきおろした間はそれを感じただろうか。
MORGUEのUは2号ではユートピアではなく、アンダーグラウンドに変更されている。彼が垣間みたフリーミュージックの向こうには、地下の死体置き場があったのだろうか。そこに彼は誰の死体を見つけたのか。彼の愛したジャズメン達のか、いや彼が見たのは…。
晩年、彼は高橋巌を通じ、ルドルフ・シュタイナーの人智学と、反キリストと神人を予感するウラジーミル・ソロヴィヨフの神秘哲学へと傾倒して行った。どんな音楽にもいつか終わりが来る。